第十三話 矢神 優

「……来ねぇな」


 俺は家で一人、昨夜に公園で出会った少女……矢神優を待っていた。

 「できるだけ早めに来る」と言っていたそいつは、昼を過ぎても姿を現す気配はない。それに痺れを切らした俺は、矢神に電話をすることにした。


 しかし、電話にも出ず。


「はぁ。……何やってんだ、あいつは」


 ため息とともに保護した子猫へ視線を移すと、なんと糞をしていた。それも、よりにもよって俺の枕の上に。


「ホーリィシーーーーッッット!?」


 俺はショックのあまり、思わずアメリカンなリアクションとスラングを吐いてしまう。

 もう既に、昨晩から何度も部屋で糞尿をされている。だが、そこでされるのは流石に精神的ダメージが大きかった。


 落ち着け俺、この猫には何の罪もない。

 そう。強いて言えば猫用のトイレを持ってくると言っていた矢神が、いつまで経っても来ないのが悪いのだ。


 俺はがっくりとしながら糞の処理を行い、素敵なフレグランスが染み付いた枕カバーを洗濯機に突っ込んだ。そして一息ついたとき、家の呼び鈴が鳴った。


「……ようやく来たか」


 ……遅すぎるぞ、矢神の野郎。俺は彼女に一言……いや、二言三言くらい文句を言ってやろうと考えながら玄関のドアを開ける。するとそこには猫用トイレを胸に抱きかかえながら、両腕にもいっぱいの荷物が入ったビニール袋をぶら下げている矢神優が立っていた。


「死、ぬ……」


 それだけ言うと、その場に矢神は荷物を置いてうずくまった。よく見ると、汗だくで顔も紅潮している。炎天下の中で荷物を運んだのが、よほど堪えたのだろう。


 そんな姿を見せられてしまうと、流石に怒る気にはならない。むしろ心配になるレベルだ。


「お、おい。……大丈夫か?」


「昼間に、外出たの……はぁ……久し、ぶりだから……はぁ……灰に、なる……」


「……おまえは吸血鬼か何かか」


「ふぅ。……だったら、よかった。だけど、残念ながら、ただの……引きこもりの人間」


「……そ、そうか」


 ……引きこもり、か。それはとりあえず置いといて、俺は矢神が持ってきた荷物(猫用トイレやトイレの砂、その他猫用のおもちゃや餌など)を家の中に取り込む。それから、うずくまったままの彼女に手を差し伸べた。


「ほら、立てるか」


「無理」


 即答だった。


「いや、そこにいつまでも居られてたら俺が困るんだけど……」


 年端もいかない少女に家の前でグッタリされていると、ご近所さんから不審な目で見られてしまうこと請け合いである。事案は勘弁だ。


「……わたしは、今HP0で動けない。だから、あなたが家の中に、運んでくれればいい」


 ……HP0だったら死んでるだろ。


「いや、運んでくれればって言われてもなぁ……。荷物じゃないんだから」


「じゃあ、おんぶ……して」


「甘えん坊か!」


「わたし……末っ子、だから」


「奇遇だな。俺も末っ子だ」


「わたし、妹だから」


「そうか。俺も弟だ」


「……あなた、何歳?」


「……十七歳だ」


「わたしは、十四歳。末っ子度では、わたしの勝ち。……だから、おんぶ」


 矢神は何故か勝ち誇った顔で、そう言ってのけた。……案外図太いな、こいつ。


「いやいや、ぜんっぜん意味が分からん! そもそも末っ子度って何だよ……」


 しかし、ここでいつまでもこんな問答をしていてもきりがない。

 これ以上ここで無意味な問答を繰り広げて、近所の人に見られでもしたら大変だ。事案が怖くなった俺は、あきらめて矢神に背を向けしゃがみ込んだ。


「最初から、そうしてればいいの」


 矢神がヨロヨロと俺の背に覆いかぶさり、体重を預けてくる。

 ……その体は、驚くほど軽かった。

 そして女子をおぶるということは、あの背中に胸が当たる感触が……ない、だと……?


「……おまえ、ちゃんと飯は食ってるのか?」


 二階にある俺の部屋まで矢神を運びながら、問いかけてみる。


「……なんで?」


「いや、だって軽すぎるし……」


 それに胸もなさすぎると言いかけて、慌てて口をつぐんだ。


「し? ……その続きは、何?」


「い、いや。何でもないですじょ?」


 俺は動揺のあまり、口調がおかしくなってしまう。


「嘘。……あなた、今わたしに対して、エロいこと、考えたでしょ」


「残念ながら、おまえのことをエロい目で見れるほど俺はロリコンじゃない」


「わたし、あなたと三つしか、違わないんだけど」


「いや、たしかに歳はそうかもしれないけど……」


 体型は、ほぼ小学生なんだよなぁ。こいつ。

 というか、そういう目で十七歳が十四歳のことを見てたら十分ロリコンだと思う。


 そんな会話をしているうちに俺の部屋の前までたどり着く。


「おまえって、警戒心が強いのか弱いのか分かんないな」


「どういうこと……?」


「昨日の夜出会ったときは、おまえ俺のことメチャクチャ警戒してたろ」


 そう言いながら、俺は部屋のドアを開ける。そして、ベッドの上に矢神を降ろした。

 彼女をベッドに降ろしたのは、他に座らせる場所がないからだ。断じて他意はない。


「……あんな時間に、知らない男に声をかけられたら、誰だって警戒する」


「たしかに、そうかもな。でも、それが今はこうして部屋まで上がってきてる。だから、不思議なもんだなぁって」


 しかも、おんぶまでさせてだ。


「猫好きに、悪い人はいない」


「猫好きだと言った覚えはないが」


「あれ、そうだっけ……?」


 そう言って、矢神はコテンと小首を傾げた。


「この猫の飼い主をおまえが見つけるまで預かってくれって言うから、それまでの間は仕方なく面倒を見てるだけだ」


 そんな俺の気持ちとは裏腹に、猫はすっかりと俺に懐いてしまっていた。今も、足に頭をこすりつけてきている。


「……でも、そんなわがままを聞いてくれるんだから、あなたは優しくて、いい人なんだと思う。その子も、あなたのこと、気に入ってるみたいだし」


 ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべて矢神は、そう言った。

 ……なんていうか、ストレートにそんなことを言われると照れてしまう。しかし、不思議と悪い気はしなかった。


 なんでだろうな。

 少し前の俺だったら、おまえなんかに俺の何が分かるんだと反発していただろうに。

 昨夜にかえでとのわだかまりがなくなり、俺は漸く前向きに生きていこうと決意できた。そのお陰で、心にも余裕ができているのだろうか。


 それから俺は、矢神に麦茶を飲ませて少し休ませる。その間に、彼女が持ってきた荷物を部屋まで運び出してトイレの設置などを完了させた。


「トイレ、もしかしたら覚えるまで、少し時間がかかるかもしれない。でも、怒らないであげて」


「ふっ、安心しろ。俺は枕に糞をされても怒らない人間だからな」


 俺はドヤ顔で胸を張った。


「……そう。あなたが、何故そんなに誇らしげなのか分からないけど、それならいいわ」


 呆れたようなジト目で、俺を見る矢神。……そんな風に言われると、胸を張った俺がバカみたいじゃないか。


「で、だ。元の飼い主を探すにあたって、何か当てはあるのか?」


「んー。……とりあえず、情報社会の力を使って、みようかと」


 そう矢神は言うと、スマホのカメラで子猫の写真を撮った。


「と言うと?」


「SNSとかで、呼びかけてみる。わたしのフォロワーたちが、拡散してくれるはず」


「へぇ……」


 俺はSNSをやったことがない。いったい、どれほどの効果があるのだろうか。


「おまえって、ネットでは有名なのか?」


「シイッターにフォロワーが、一万人くらい、いる」


「いちまん!?」


 流石に、SNSに疎い俺でも分かる。それが個人のものとして、かなりの数であろうということは。


「な、なんでそんなに?」


「……ふふ、企業秘密」


「えー……」


 ……なんだろう。そう言われるとメチャクチャ気になる。

 一体、矢神の何に一万人もの人間を惹きつけられる魅力があるのだろうか。


 仮説その一。

 ネットアイドルをしている。

 その慎ましい体型は置いておくとしても、よく見れば顔立ちはかなり整っている方だと思う。

 なくはない説である。


「……おまえ、もしかしてネットアイドルだったのか?」


「バカなの?」


 俺の大真面目な考察は、その一言で棄却されてしまった。


「いやだって、おまえ可愛いからさ」


「はぁ。……お世辞を言っても、何も出ないからね」


 彼女は、あきれたようにため息をついた。


「残念だが、俺はお世辞を言わないタイプだ」


「じゃあ、やっぱりただのバカね」


 うぐぅ。……なかなかに辛辣じゃないか、矢神優よ。

 しかし、それでも俺はめげずに次の可能性を考えてみる。


 一万人もの人間を集める力……それはいったい何だろうか。


「はっ! ま、まさか……」


 俺は恐ろしい想像をしてしまった。

 仮説その二。

 エロい自撮りを上げている。


「おまえ、何故そんなことを!?」


 俺は思わず矢神の両肩を掴んでしまった。


「うわ、びっくりした……!? な、なに……!?」


 突然の出来事に流石の彼女も驚いたようで、いつもの無表情が崩れて困惑した表情を浮かべる。


「おまえ、ネットにエロい自撮りを上げてるのか!? ダメだぞ! 未成年が、そんなことしたら!!」


「そ、そんなことしてない! あ、あなた本当にバカじゃないの!?」


「……あ、そうなの?」


 どうやら俺の早とちりだったらしい。


「……今、ひどいセクハラを受けた」


「……すまん、悪かった」


 冷静になってみると、どうかしていた。

 この件は、どう考えても一方的に俺が悪い。なので、ここは素直に頭を下げるしかなかった。


「……やっぱり、わたしのことをエロい目で見てるのね」


「それは断じてない」


「そうきっぱり言い切られると、女としての魅力がないって、言われてるみたい。……それはそれで、ムカつく」


「いや、じゃあどうしろと? おまえのことを、俺はエロい目で見てるって言えと?」


「……言って、みる?」


「言うかバカ!」


「ふん、ノリの悪い奴」


 その小馬鹿にしたような一言に、何故か俺はカチンときてしまった。


「よし分かった。じゃあ、言ってやるぞ! おまえのことを俺はエロい目で見てるよ! エロエロだ! 今から押し倒して色々したい!! これでどうだ!?」


 俺は矢神の目をしっかりと見据え……はっきり口早に、そう言った。


「……」


 すると矢神は無言でスマホのダイヤルキーを1、1、0と押し、発信した。


「ちょ、おまえふざけんなよ!? おまえが言えって言ったのに、なにポリスを呼んでんだよ!?」


 俺は矢神から慌ててスマホを取り上げ、その発信を直ぐに切った。


「ヒェッ……犯されるっ……!」


「犯さんわ、バカ!」


 そんなやり取りを俺たちがしている間にも、矢神がSNSに投稿した迷い猫の情報は多くの人間に拡散されていった。だがこれといった手掛かりになる情報は得られずに、その日は終わりを迎えた。


 矢神優。

 最初は、ただの不愛想な少女かと思っていた。だが話してみるとなかなかユニークな一面もあり、一緒にいて退屈しない奴だと思う。俺たちの関係は、これからどんな風になっていくのだろうか。それが少しだけ、俺は楽しみに思えた。

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