第十一話 前を向いて

 こんな夜の遅い時間に、かえでが男と二人きりでいる。

 ただ、それだけのことなのに。だけど、それが酷く胸をざわつかせた。


 ……関係ない。もう、俺と楓は何の関係もない。分かってる、頭では分かっているんだ。


 ――――だというのに、どうしてこんなにも動悸がするのか。苦しいのか。


「どうした、あきら。 大丈夫か?」


 表情にも出てしまっていたのか、俺の異変に気付いた新一が心配そうに声をかけてくる。


 その気遣いが、正直ありがたかった。

 新一の声を聴いて、今の俺には不登校部という頼れる仲間がいることを思い出せたから。


「……いや、大丈夫だ。なんでもない」


 楓と別れてから、もう一年近くになる。

 俺には俺の、楓には楓の交友関係がある。

 それでいい。いや、その方がいい。

 いつまでも過去に囚われ続けるよりは、遥かに健全だ。


「そうか。……じゃあ、そろそろ帰るか」


 新一は安堵したように微笑むと、席から立ち上がった。


「何だよ、閉店まで粘るんじゃねぇのかよ」


「ポテトだけで閉店まで粘るなんて店に迷惑だろうが! 常識的に考えろ!」


 省吾しょうごの言葉に、新一が手の平を思いっきり返した返答をした。


「それで伝説作るって息巻いてたのはテメェだろうが!?」


「あんたって、ほんっとバカよねー。部長のアレは、いつもの冗談に決まってんじゃん。そんなことも分かんないのー? これだからおバカなヤンキーは、ぷぷぷ!」


 香苗かなえが省吾を無駄に煽る。


「あんだとテメェ! このクソガキがぁ!」


 怒った省吾が香苗の首根っこを掴もうと手を伸ばしたが、香苗はひらりと避けてみせた。


「捕まんないよーだ! バーカバーカ! おまえの母ちゃん四十肩ー!」


 そのまま香苗は省吾を嘲笑いながら店外へと逃げていった。


「母ちゃんの四十肩は関係ねぇだろぉ!? おいコラ待ちやがれぇぇぇっ!!」


 省吾は大声をあげながら香苗を追って走り出した。


 すると当然、何事かと店内にいる店員や客からの視線が集まる。

 そして、その中には楓のものもあった。


 ……俺と、目が合った。


 楓は、今度こそ俺のことを知らないふりを――――してはくれなかった。


 楓は連れの男を置いて、こちらへ向かって歩いてくる。


 不思議と俺は落ち着いていた。

 つい先ほどまで、香苗と省吾の馬鹿騒ぎを見ていたからだろうか。

 何にせよ、仲間の存在が俺の心の安定剤になっていることは疑いようがなかった。


「……暁くん、久しぶり」


「……ああ、久しぶりだな」


 ほんの数ヶ月前に商店街で顔を合わせてはいたが、あのときの俺はまともに会話することすら出来なかった。


 だから、楓と話すのはおよそ一年ぶりとなる。


「……友達、できたんだね」


 楓がチラリと新一を見て、そう言った。


「……ああ」


「おっと、俺がいちゃ邪魔かな?」


 俺たちの間に漂う微妙な空気を察してか、新一が気を利かせてくれた。


「ああ、いや。……楓、もし話が長くなるなら場所を変えようか?」


「あ、うん……」


 そう楓は返事をすると、いつの間にか近くに来ていた連れの男へと視線を移した。

 ……そうか。流石に、彼氏がいる前で他の男とどこかに行くのは不味いか。


「いいよ、行ってきなよ林さん。俺の話は、また今度でいいからさ」


 しかし、男は予想に反して爽やかに笑い快諾したのだった。


「そう? じゃあ、それなら……」


「……いいのか?」


 俺は男に念押しの再確認をした。

 後になって、この件で因縁をつけられるのも面倒だ。


「いいって、いいって。林さんにとって、有馬のこと以上に大事なものなんてないだろうしよ」


 俺の名前を知ってるってことは、やっぱり元クラスメイトだったか。名前は思い出せないが、いい奴だ。

 ……えーと、名前は何だっけな。たしか名字に田がついてた気はするんだけど。ああそうだ、山田だ!


「ありがとな、山田!」


「田口だ!」


 惜しかった。


「悪い、間違った。おまえのことはちゃんと覚えておくよ、田中」


「田口だよ! おまえわざとだろ!?」


 意外とノリがいいなコイツ。俺は新一と田岡に軽く別れの挨拶をして、楓と店を出た。




◇◆◇




 楓と二人、夜道を歩く。

 昔のように、歩調を合わせて。

 昔と違うのは、お互いの手が触れることは決してないということ。


「楓、田崎と付き合ってるのか?」


「田口くんだよ、暁くん」


 楓がおかしそうに笑う。


「付き合ってないよ。わたし、しばらく恋愛はいいかなって思ってるの。……多分、相手を傷つけちゃうから」


 俺のことを言っているのだろうが、俺はそれを肯定も否定もできなかった。


 あれは俺が楓に一方的な期待をし、そして勝手に傷ついていただけだ。


 だが、それを今更彼女に話しても納得はしないだろうと思う。


 楓の恋愛観に影響を与えてしまったことに罪悪感を覚えるが、それは彼女自身が決めたことでもある。それに俺が口を出すのも、何か違う気がした。


「……にしても、こんな夜中に外出するなんて珍しいな。妹は大丈夫なのか?」


「田口くんに、どうしても相談したいことがあるからって呼び出されちゃって。それに、りんなら大丈夫。あの子も、もう六年生だしね。そろそろわたしも妹離れしなくっちゃ、ふふ」


「相変わらずだな」


「それ、シスコンってこと?」


「それもだけど、クラスメイトに頼られてるところとかさ」


「そうかも。……人は、そんな簡単には変わらないよ」


「……ああ、そうだな」


 そう簡単に人間なんてものは変わらないし、変わろうとしても直ぐに変われるもんじゃない。

 結局は、自分自身というものを受け入れて生きていくしかないのだ。

 それがどんなに汚くても、醜くても、それを抱えて生きていかなければならない。


「……わたしね、暁くんにずっと謝りたかったの」


 楓がポツリと呟いた。


「暁くん、あれからわたしのせいで学校に来なくなって……それを謝りたくって……」


 楓の声が震えていく。


「でも、勇気が出なくって、暁くんの家にも行けなくっ、てっ……」


 楓が嗚咽を漏らす。

 俺たちの足が止まる。


「ごめんなさい、暁くん……ごめんなさいっ……」


 俺には、ただ黙って楓の懺悔にも似た言葉を聞いていることしかできなかった。


 手を伸ばせば届く距離で、楓が泣いている。

 付き合っていたときなら、迷いなくその涙を拭っていただろう。


 だが、それは今の二人の関係では許されない行為だ。

 楓だって、そんなことは望んでいないはずだ。


「……楓。謝るのは、俺の方だ」


「……え?」


 だから、言葉を――心を届けるしかなかった。

 俺は楓に真実を話して、謝罪しなければならない。

 それで罪が軽くなるわけでも、ましてや消えるわけでもないことは分かっていた。

 これは、ただの自己満足でしかないのかもしれない。

 もしかすると、余計に楓を傷つけるだけなのかもしれない。

 もしかしたら、見損なわれるかも――――しれない。


 それでも楓には――俺のことでこんなに涙を流してくれる相手には、本当のことを話しておかなければならないと、そう強く思った。


「楓が別れようって言った本当の理由を、俺は知ってたんだ」


「……」


 今度は楓が、俺の言葉を黙って聞いていた。


「そもそもの発端は俺だ。放課後にあいつらが、俺と楓の関係を壊すようなことを言ってたのを聞いてしまった。俺は、それが我慢できなくて話に割り込んじまった。……それで、あいつらと言い合いになったんだ。そしたら、あの女はおまえを妹のことで脅すとか言い出した」


「……そう、だったんだ」


「俺が、あいつらの話に割り込まなければよかった。俺が楓に別れを切り出されたとき、本当のことを知ってるんだって言えばよかった。……俺が楓に、手を伸ばせば、よかっ、た……っ」


 感情が昂り、声が詰まる。


「……」


「……それができなかったのはさ、俺が……俺の心が、歪んでたからだ」


「……」


「……俺は楓に、妹を捨ててでも、俺を……選んで……ほしかった……」


 結局は、それが全てだ。

 歪みに歪みきった俺の承認欲求が全てを壊した。

 もう少し俺が真っ当な人間だったのなら、こんなことにはなっていなかった。


「だから、謝るのは俺の方なんだよ。……ごめん」


 楓に頭を下げた。


 軽蔑されただろう。

 嫌われただろう。

 これから楓に何を言われるのだろうかと考えると、今更なのに怖くなってきた。……覚悟をしていた筈なのに。


「……ふふ。なんか、おかしいね」


 しかし、聞こえてきたのは怒声ではなかった。それは泣き声でもなく――言葉通り、おかしそうに笑う楓の声だった。


「……楓?」


「……わたしたち、お互いに自分のことを責めてたんだね」


「……」


「暁くん。わたしの方こそ本当のことを暁くんに話して、ちゃんと相談すれば良かったんだよ。それができなかったのは、自分のことで頭がいっぱいになっちゃってたからだと思う。そういう意味では、わたしも暁くんと同じなんだよ」


「……そう、なのかな」


「そうだよ。……わたしたちはきっと、お互いのことを見ているようで、自分のことしか見えてなかったんだと思う」


「……」


 そう言われると、その通りだったように思える。


「いつだったかな。わたし、暁くんに言ったよね? 優しくなりたい、って」


「ああ」


「わたしね、昔から優しいってよく言われるんだ。クラスのみんなに勉強を教えたりするし、困ってる人がいたら自分から声をかけたりするから。……でもね。それって全部、自分のためにやってるんだ」


「……偽善って、ことか?」


「……うん。わたしが人に優しくするのはね、相手のことを想ってるからじゃないの。わたしのことを、見てほしいから。わたしにも、優しくしてほしいから」


「……」


「そんなのは、本当の優しさじゃないよね? ……わたしは、そんな自分が嫌いなんだ」


 ……そうか。

 それで優しくなりたいと、そう楓は言ったのか。


「そんなときにね、暁くんに会った。暁くんと話してるうちに、なんか自分と似てる部分があるなって漠然と思ったんだ。……その理由も、今なら分かるかも。多分、わたしたちは本質的に自分のことだけしか考えてなかったんだ。そんなところが似てるんだよ、わたしたち」


「……そうかもな」


「うん。自分と似てるこの人になら、本当の意味で優しくできるかもしれないって。そう、思ったんだ。……結果は、この通りだったけどね」


 楓が苦笑し、俺もつられて笑ってしまった。


「人は、そう簡単には変わらない。おまえも、さっき自分で言ってただろ」


「ふふ、そうだね。……話せて良かった。ありがとう、暁くん」


「……ああ、俺の方こそ」


 ずっと胸の中にわだかまっていた何かが、すっと消えていくのを感じた。


 今日、楓と話すことができて本当に良かったと思う。

 俺たちは、また前を向いて歩き出せるような気がした。


「……暁くん、もう夜も遅いね」


「そうだな……」


 スマホで時間を確認すると、もう十時を過ぎていた。


「暁くん、送って……くれるよね?」


「ああ。おまえに言われなくても、もちろんそうするつもりだったよ」


 俺たちのは互いに微笑み合うと、再び前を向いて歩き始める。

 前へ前へと。先の見えない暗い道を歩いていくのだ、俺たちは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る