第七話 悪魔の契約Ⅳ
「……よく、聞こえなかった」
それは嘘だ。
でも、そういうことにしたかった。してほしかった。
楓の口から、別れてほしいなんて言葉を聞きたくなかった。彼女が、そんなことを言うなんて俺は信じたくなかった。
頼むよ、頼むから。やっぱり何でもないよ、とか。嘘だよ、とか。ドッキリでした、とか。そう、言ってくれよ……。
「別れてほしいって、そう言ったの」
しかし、現実は残酷だ。そんな願いとは裏腹に楓はしっかり俺を見据えると、今度こそはっきりとした声でそう言った。
彼女が、そんなことを言い出した理由は分かってる。
まず間違いなく、昨日の女生徒たちの仕業だ。
――――でも、だとしても。
――――どうしてそのことを、楓は俺に相談してくれない?
――――楓にとって俺は、その程度の存在だったのか?
「……理由は」
理由を知っていながらも、俺は問いたださずにはいられなかった。
「……暁くんと付き合うの、疲れちゃったの」
楓の声は震えている。
雨も本格的に降り出してきた。
楓の頰を水滴が濡らす。それが雨なのか、涙なのかは分からない。
「……本当の、理由は?」
楓、今からでも俺に相談してくれ。
二人で解決しようと、そう言ってくれよ。
そうすれば俺は絶対おまえにも、おまえの妹にも危害なんか加えさせやしないんだから。
どんな手を使ってでも、おまえを必ず守るから。だから――――
「……本当の理由も何も、それだけ。わたしね、可哀想な暁くんに付き合ってあげてる……優しい自分に酔ってただけなの」
それが本心ではないと頭では分かっていた。
楓が苦しんでいることは表情からも、その声からも明らかだった。
にもかかわらず、俺の感情は抑制が効かなくなっていく。
振られた。
捨てられた。
裏切られた。
そんな言葉で頭がいっぱいになった。
「わたし、ずっと暁くんに付き合ってあげてたの。本当は暁くんのことなんか――――好きでも何でもなかった」
好きでも何でもなかった。
それが、俺の理性へのトドメの言葉となった。
これは楓なりの優しさだ。
俺が楓に未練を持たないように、憎まれ役に徹しようとしたのだろう。
それも分かっていた。
頭では分かっていた。
楓は、どこまでも優しかった。
だが、そんなことは最早どうでもよかった。
楓は、妹を守るために俺を切り捨てたのだ。
俺は、楓に選ばれなかったのだ。
――――俺は、俺が一番好きな人の一番にはなれていなかったのだ。
家族と自分を天秤にかけさせて自分の方を選べだなんて、きっと俺はどうかしてるんだろう。
――――それでも俺は、楓に選ばれたかった。
「……そうか」
メッキがどんどん剥がれ落ちて、醜く歪んだ俺の心が表へと出てくるのが自分でも分かった。
でも、もういい。
何もかも、どうでもいい。
この女にどう思われようが、知ったことか。
「……俺は、おまえみたいな人間が一番嫌いだ。独りよがりの善行に酔ってるような、おまえみたいな奴がな」
「……」
楓はうつむき、ただ黙って俺の言葉を受け止めていた。
「目をそらすなっ!!」
俺の怒声に楓の肩がビクッと跳ね上がり、恐る恐るといった様子で顔を上げた。
「おまえが自己満足のために食い物にした人間の顔をよく見ろよ。人の心を弄ぶのは楽しかったか? ……ああ、そうさ。俺は、おまえのことを信じきっていたさ。おまえとなら何だって乗り越えられるって信じてたんだ! それがバカみたいだろっ!?」
「……暁、くん……」
「でもな。そんなこと、もうどうでもいいんだ。おまえは俺を切り捨てた。そして傷つけた。じゃあ俺もおまえを切り捨てて、傷つけてもいいよな?」
相手から切られたなら、こちらも切らなくてはいけない。
切らなくては、切らなくては、切らなくては、切らなくては、切らなくては。
俺は楓に一歩踏み寄り、ポケットからカッターナイフを取り出そうとして――――そこで、どうにか最後の理性を総動員して踏みとどまった。
――――何をしようとしたんだ、俺は。
このままここにいたら頭がおかしくなる。いや、もう既におかしくなっているのかもしれない。
頭痛がする。
吐きそうだ。
それからの記憶は曖昧だ。
俺は気がついたら、とある女生徒の後を尾けていた。昨日、教室にいた四人のうちのリーダー格だった女だ。
そいつが友達と別れて人通りの少ない道に入った瞬間、俺の体は自動的に動いていた。
女の背後から忍び寄り、まずは声をあげられないように手で口を塞いだ。それからそいつの腕を背中へと引き、関節を極めて身動きが取れないようにする。
「っ!?」
「暴れたら折る」
俺の言葉に、拘束から抜け出そうと身じろいでいた女の体が硬直する。
それだけ俺は言うと、そのままの体勢で路地裏へと女の体を引きずり込んだ。
「大声を出したり、逃げようとしたら殺す」
そう吐き捨てて、そいつを解放してやった。
正体の分からない相手と相対して恐怖に歪んでいた女の顔は、犯人が俺だとわかった途端に緩む。そして安堵したような表情から、小馬鹿にしたような表情へと変わる。
「……なんだ、有馬じゃん。あんたさぁ、こんなことして何様なわけ? タダで済むと――――」
悪態をつく女を無視して、俺は無言でカッターナイフを取り出す。すると女も流石にこれが冗談でやってることではないと理解できたようで、その顔を引きつらせた。
「あのとき、言ったよな? 俺たちに何かしたら、タダじゃ済まさないって。……まあ、とりあえずおめでとう。おまえの目論見通り、めでたく俺たちは破局したよ。いやー、流石の手腕だわ。スクールカーストの上位様は違うなぁ」
「あ、あはは……な、なに? あれ
俺は刃を出していないカッターナイフを、そのよく動く口に捻じ込んでやった。
「ペチャクチャと耳障りだな。もう喋れないように舌を切り落としてやろうか? ははっ」
俺は口元に笑みを浮かべ、目では睨みをきかせた。
そうすると、そいつは途端に涙目となる。そして必死に首を横に振った。
「なあ、教えてくれよ。他人の人間関係をぶち壊して遊ぶのは楽しかったか? ……ああ、動くなよ。その、やかましい口がスッパリと切れるぞ?」
そう言いながら俺は、そいつの口の中にあるカッターから刃を一つ出す。カチカチと刃が出てくる音を聴いて、女の表情から恐怖の色が濃くなっていくのを見て取れた。
「俺と楓に手を出すとどうなるか分かったか? 分かったなら、さっさと片手を上げろ」
そいつは震えながら、ゆっくりと片手を上げた。
「俺は、別におまえをここで殺してやってもいいんだけどな。でもな、俺がそうすると多分悲しむ人もいるんだ」
脳裏に浮かんだのは姉さんと、もう一人――――楓の顔だった。
――――ああ、俺は今になっても。あんなに酷いことを言ってしまった後でも。
一度は、どうでもいいとさえ思ったのに。
――――楓のことが、まだ忘れられないのか。
「もう二度と俺と楓に関わるな。それと、このことは誰にも話すな。……約束、できるよな?」
俺が左手の小指を差し出すが、そいつは青ざめた顔で涙ぐみながらガタガタと震えているだけで動こうとしない。
「指切りするんだよ。ほら」
だから無理矢理、一方的に指を絡めてやった。
「ゆーびきーりげーんまん、うそついたら、いっせんかいこーろす。指切った」
これで大丈夫だとは思うが、念には念を押しておくことにする。
「あ、一応言っておくけど、これはおまえが好きな冗談とかじゃなくて
再度、女の口の中でカッターの刃を一つ出して脅迫する。すると、それで恐怖の臨界点を超えてしまったらしい。そいつは失禁してしまった。
……ここまでやれば、もう十分か。
女の口からカッターナイフを引き抜くと、そいつはその場にへたり込んだ。今まで味わったことのない強い恐怖に体を震わせて、涙を流していた。
――――俺は、いったい何をやってるんだろうな。
こんなものはただの復讐で、鬱憤を晴らしているだけで何の意味もない行為だ。
確かに楓と別れることになった根本の原因は、こいつが余計なことをしたからというのも勿論ある。それでも、また別の道があった筈なのだ。
本当は、全ての事情を知っている俺が楓に歩み寄れば良かった。
一緒に解決していこうと、俺の方から言うべきだったのだ。
でも、俺の弱くて醜い心のせいで、その選択ができなかった。
好きな人に――――楓に選ばれなかったという、ただそれだけで何もかもがどうでもよくなってしまった。そんな俺の歪な心こそが、こうなってしまった全ての元凶だ。
――――やはり俺は、人と関わるべきではなかった。
――――どうせ、傷つけることしかできないのだから。
これが俺と楓の間に起きた、一連の事の顛末だ。
それから俺は学校にも行かなくなった。そして
◆◆◆
「……暁、大丈夫?」
いつの間に部屋に入ってきていたのか、
「……不法侵入だぞ、帰れ」
俺は布団に包まったまま、顔も出さずにそう返した。
俺の声が聞こえていなかったのか、あるいは聞こえていてわざと無視したのか。香苗が俺の側まで寄ってきて、布団越しに俺を抱きしめてきた。
「きっと暁にも、辛いこと、たくさんあったんだよね……?」
「……」
何も返事ができなかった。
いや、違う。返事をしてはいけないと思った。
今もまた、俺に手を差し伸べてくれる人がいる。
それは、確かにありがたいことだ。だけど適度な距離感を保った上で相手の手を取らなければ、きっとまた俺は同じことを繰り返してしまうだろう。
いま香苗から差し伸べられている手を取ってしまったら、おそらく距離が近くなりすぎる。
そう、分かっていたのに。
――――誰かに、触れていたい。
心は、そう叫んでいた。
俺の脆い理性など、この強すぎる感情の前ではいとも容易く溶けてしまう。
そして、いつだって手遅れになってしまうのだ。
「……香苗」
もう人とは深く関わらないと決めていたのに。
俺はまた、相手を傷つけるだけなのに。
そして俺は香苗の名を呼び、その手を――――握ってしまった。
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