第六話 悪魔の契約Ⅲ
翌日の放課後、俺は
場所は校舎の屋上。
思い返せば、楓が初めて俺に声をかけてきたのもここだった。
高校に入学して間もなかった当時、俺は授業をサボって屋上で寝てばかりいた。そんな俺を更生させるようにと、担任から派遣されてきたのがクラス委員長の楓だった。
俺は中学での三年間を養護施設で過ごしてきたが、高校に上がるタイミングで生き別れていた姉さんに引き取られた。
姉さんの母親は、ずっと俺を引き取ることを拒否していたらしい。だが、社会人として自立した姉さんは俺の引き取りを申し出たらしい。
施設に居場所も未練もなかった俺は、その申し出を受け入れる。そして姉さんが春から働くという、この田舎町にやってきた。
俺のことを誰も知らない町での生活は、とても気楽だった。そして、俺は晴れて新しい環境で充実とした高校生活を――――とはならなかった。
中学でもサボりの常習犯で、他人とのコミュニケーションすらロクに取らないできた人間が高校に馴染めるはずもなかったのだ。
それでも、姉さんにだけは心配をかけまいと学校へは通い続けた。……授業にはロクに参加せず、この屋上で毎日だらだらと過ごしていたが。
そんなある日、彼女はひょっこりと俺の前に現れた。
◆◆◆
その日も俺はいつも通り屋上であぐらをかき、フェンスにもたれかかりながらボーッと空を見上げていた。
その時、不意に屋上のドアがバタンと閉まる音が聞こえた。そちらに視線を向けると、一人の女生徒がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「……ここ、いい場所だね。授業をサボりたくなっちゃうの分かるかも」
そいつは俺の前で立ち止まると、そう言って穏やかに微笑んだ。
「……」
見知らぬ女生徒に突然話しかけられた俺は、どう反応していいか分からず何も言えなかった。
だが、その女生徒には何となく見覚えがあった。多分、同じクラスだ。しかし、名前は出てこない。……よく思い返すと、俺はクラスの人間の名前を誰一人として記憶していなかった。
「はじめまして、
向こうは問題児である俺のことを知っていたようで、そんな挨拶をしてきた。
「……何の用だよ」
「わたしはクラス委員長なんだけど、実はあなたのことを先生に頼まれちゃって。でも、ひどいわよね。自分の生徒を他の人に任せるんだから」
――――ああ、こいつもその手合いか。
正直、うんざりだった。
どいつもこいつも、仕方なく俺に関わろうとする。
放っておいてくれればいいのに。
「って、いうのは表向きの理由なんだけど。……本当の理由は、あなたと話してみたかったから」
「……俺と?」
「隣、いいかな?」
「……勝手にしろ」
自分と話してみたかっただなんて言われたのは初めてのことで、それが嬉しかったのだろうか。俺は、何故だか断ることができなかった。
「ん、ありがと」
楓は俺の隣に座ったが、それからしばらくは何を言うでもなく無言で空を見上げていた。
白く
「……初めて有馬くんを見たときね、わたしに似てるって思ったんだ」
「……おまえが俺の何を知ってる」
「うん、たしかに有馬くんのことは何も知らないね。でもね、なんだかいつも寂しそうにしてるなって思ったの。……あ、今から言うことはあくまでも直感だから。もしも外れてたらごめんね」
「寂しい……か。それで?」
俺は一人でいることが当たり前になりすぎていて、そう言われても実感が湧かなかった。だが、彼女の話の続きが気になり先を促す。
「あのね。……有馬くん、親いないでしょ?」
その言葉に、心臓を鷲掴みにされたかのような痛みが胸に走った。それは俺のコンプレックスの一つであったし、決して触れられたくない過去にも関係している。
「……何で、それを知ってる。担任にでも聞いたか?」
だとしたら、どこまでを知られてるのか。
場合によっては脅してでも口封じする必要を考え、ポケットの中のカッターナイフに手を触れる。
「ううん。……わたしも、そうだから。そう言う人は、見てれば分かるんだ」
首を横に振る楓を見て、ひとまず安堵する。
「まあ、うちの場合は共働きで何年も海外に行ってて家にいないだけだから、いないって言うのも少し違うかもなんだけどね」
「……そんなことを俺に話して何が目的だ?」
「目的は……有馬くんと仲良くなることかな。わたしが勝手に仲間意識を持っちゃっただけなんだけど……ダメ、かな?」
俺と仲良くなりたい。
そんなことを言われたのは生まれて初めてだった。
俺の胸のなかで、なんとも形容しがたい感情が渦巻くのを感じた。それは喜びとも違う。しかし怒りとも違う。だが悲しみでもない。……そう、それを強いて言うなら恐怖と呼ぶのが一番しっくりときた。
この感情の意味が自分でも分わからないうちに、唐突に手を差し伸べる相手が現れた。その事実に、俺は怯えていたんだと思う。
「……他の奴を当たれ。俺は、おまえが思ってるような人間じゃない。それに、ただ親がいないって共通点だけで仲間意識を持たれるのも迷惑だ」
だから、突き放した。
本当は、心の奥底では差し伸べられたその手を掴みたいと思っていた筈なのに。それよりも、こんな自分が他者に関わる恐怖の方が上回ってしまう。
だが、それでも彼女はめげなかった。
「……ごめんね。たしかによく知りもしないで、いい迷惑だよね。それなら、知るところから始めたいんだけど……。それも……ダメ、かな……?」
どうして彼女がそこまで俺に関わろうとしたのかは、未だに分からないままだ。
同類を見つけて嬉しかったとか、人に優しくする自分に酔っていただとか。いくつか推測は立つが、どれも確信には至らなかった。
「……好きにしろ」
何はともあれ、その申し出を俺は拒絶することができなかった。今思えば、これは俺の失敗であり欺瞞だ。
自分が他者と関わっていいような人間ではないと分かっていたのにも拘わらず、心のどこかでは期待していた。
――――こんな自分を受け入れてくれる人間が、いつか現れてくれたらと。
俺は無意識下で、その期待を彼女に寄せてしまっていたのかもしれない。
それから屋上での逢瀬を重ねるうちに、自然と俺たちは惹かれ合っていった。
そして楓が屋上を訪れるようになってから一ヶ月ほどが経過した頃、いつものように隣で座っていた彼女が不意に俺の手を握ってきた。
俺は驚いて楓の方を見る。
「……好き」
耳まで真っ赤にして俯いた彼女が小さな声で、しかしはっきりとそう言った。
「……ああ、俺も楓のことが好きなんだと思う」
楓のようにはっきりと言えないのは、俺が今まで誰かに恋愛感情というものを持つことがなかったからだ。それ故に、俺は錯覚してしまった。
――――相手を手離したくないという、この気持ちこそが恋情なのだろうと。
だが違った。こんなものは、ただの所有欲と支配欲だ。これが恋愛感情などではないと、今なら分かる。
しかし。そのときの俺は、そんなことには全く気が付かずに楓の手を握り返してしまった。
それから彼女の肩を抱き寄せ、キスをした。してしまったのだ。
かくして俺と楓は恋人同士となり、彼女が同じクラスにいるならと俺は授業にも自分から参加するようになっていった。
楓がクラス委員長をやっているのは伊達ではなかったようで、クラスの中では人望も中々のものだった。そんな彼女の助力もあり、俺も少しずつクラスに馴染めるようになっていった。
楓は本当に自慢の彼女だった。俺には勿体ないほどの。
こんな幸せがいつまでも続けばいいと、そう心の底から思っていた。
◆◆◆
あの日と同じようにフェンスに寄りかかりながら、俺は空を見上げた。あの時と違い、今にも降り出しそうな曇天だ。
それから少しすると、屋上のドアが開いて楓が姿を現した。
「話って?」
「……」
俺の問いかけに、楓は何も答えない。
ただ俯き、ひどく寂しそうな、とても悲しそうな、今にも泣き出しそうな。そんな、ありとあらゆる痛切に耐えるかのような表情を浮かべるだけだった。
それから互いに無言のまま、時間だけが流れていった。
そうしているうちに、とうとう雨が降り出してきてしまう。
「……中に入るか」
楓の手を引こうと伸ばした俺の手を、彼女は振り払った。
そして一言だけ、今にも消え入りそうな声で呟く。
「……わたしと別れて、ほしいの」
――――俺と楓なら、何があっても大丈夫だと。
どうやらそう思っていたのは、俺の方だけだったらしい。
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