第五話 悪魔の契約Ⅱ

 俺が不登校部に入ってからしばらくの間は、ただ楽しい日々を過ごしていた。


 しかし、いつの日だったか部活が終わった帰り道、事件――いや事故というべきか。それは、突然に起きた。


 その日は、商店街で夕食の食材を買って帰路へ着く途中だった。


「あたしが美味しいご飯を作ってあげるよ、あきらー!」


 その日は何故か香苗かなえが付いてきていて、俺の隣をご機嫌そうに歩いている。二度目に会ったときには、もう馴れ馴れしく下の名前で呼ばれていた。だが、それに不思議と不快感はなかった。


「いらねぇ。そもそも、おまえ料理できるのか?」


「ふふーん! そこは愛情でカバー!」


 ……つまり、できないってことだな。


「もう帰れよ、おまえ。……親も心配するだろ」


 俺はシッシッと手を払って、香苗を追い払おうとする。

 軽い気持ちでの一言。しかし、それは香苗にとっては地雷のようだった。


「……心配なんかしないよ、あの人たちは」


 俺の言葉を聞いた香苗はいつもの明るい調子が豹変し、今にも泣きそうな顔でポツリとそう言った。


「……悪い」


 ……ああ、どうして俺はいつもこうなのか。

 いつもいつも、相手のことを傷つけてばかりで――――。


 かえでのときも、そうだっ、た――――?


 そのとき正面から歩いてくる人物の姿を俺の視界が捉え、一瞬思考が停止する。いや、止まったのは思考だけではなく……足もだ。俺は身動きが取れなくなってしまった。


「……暁?」


 その様子を真横で見ていた香苗が、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。


 ――――俺の目の前には、仲睦まじく手を繋いで歩く二人の姉妹がいた。


 ――――そこには、高校生の姉と小学生の妹とが楽しそうに笑っている。


 それは何処にでもあるような、ありふれた光景のはずだ。


 だが、あれは俺にとって吐き気を催すほどの――――。


 正面から歩いてきた人物もこちらに気がつくと、足を止めて目を見開いた。


「暁……くん……?」


 目の前にきた少女が俺の名を呼ぶ。

 その声を聞いたのは、およそ一年ぶりになるだろうか。


 ――――林楓はやしかえで


 ――――俺の恋人


 何故、俺に話しかけた?

 何故、気づかないふりをしてくれない?

 何故、無視してくれない?

 何故、それができない?


 何故、何故、何故、何故、何故、何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故!?



 ――――何故、あのとき俺を選んでくれなかった?



「……りん、先に帰ってて。お姉ちゃん、ちょっと友達と話があるから」


 友達、というその言葉に酷く胸がざわついた。

 友達、友達だと……? 俺とおまえが……?

 それに今更何の話がある? もうとっくに俺たちの関係は終わってる。話すことなど何もない筈だろ?


「うん! わかった!」


 楓の言葉に妹は素直に頷く。そして俺たちにペコリと頭を下げると、元気良く駆け出していった。俺は、その少女の背中を恨めしげに見送る。


 ……いや、頭では分かってるんだ。

 あんな小さな子に憎しみを向けるなんて間違ってることぐらい。


 ――――俺は、なんて醜い。


「……香苗、行くぞ」


「う、うん……」


 俺に話があると言った楓を無視して、その横を通り過ぎようとした。


「ま、待って……! 暁くん……!」


 しかし、俺の意思に反して楓に名前を呼ばれてしまうと、体は金縛りに遭ったかのように動かなくなってしまう。


「わたし、ずっと暁くんに謝りたかったの……」

 わたし、ずっと暁くんに付き合ってあげてたの。


 楓に今言われた言葉と、あのとき言われた言葉が重なって聴こえる。


「本当は、今でも暁くんのことを――――」

 本当は、暁くんのことなんか――――。


 動悸と脂汗が止まらなくなる。

 やめろ。もうそれ以上何も言わないでくれと言いたくても、口が上手く動かない。


 楓にその先を言われたら、俺は――――。


「やめてっ!」


 その悲鳴にも似た声をあげたのは、俺でも楓でもなく――――香苗だった。


「暁、怖がってるよ! あなたが暁の何なのかは知らないけど、もうやめてよ!」


 香苗が俺を守るように、楓の前に立ち塞がった。


「あっ……。……わたしは、また暁くんを傷つけたのね。そうよね、今更わたしが……。暁くん、ごめんなさい……」


 そう楓は言うと、そのまま足早に走り去って行った。

 その去り際、彼女の瞳から涙が一粒だけ零れ落ちるのが見えた気がした。


 ……俺だって分かってるんだ。本当は、楓は悪くなんかないって。

 俺の方こそ、また楓を傷つけて――――。


「暁……泣いてる……」


 香苗が背伸びして手を伸ばし、俺の涙を拭おうとしてくる。

 俺は、それを手で払った。


「……やめろ」


 俺に優しくしないでくれ。

 俺は、絞り出すような声で香苗を拒絶する。そして、今にも叫び出したい衝動を必死に抑えながら彼女を置き去りにして走り出した。


 それから自宅まで全力疾走して自室に飛び込むと、俺は布団に包まって泣き叫んだ。


「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁッッッッ――――!!!!」


 この感情は、最早言語にならない。

 あのとき、俺が選択を誤らなければ。

 もし、俺の心が歪でなければ。


 ――――楓と二人、今も幸せに歩むことが出来ていたのかもしれないのに。だけど、もう元の二人には戻れない。それが分かっている筈なのに、俺の心は軋むように激しく痛んだ。




◆◆◆




 あの夏の、とある日の放課後。

 俺は忘れ物を取りに学校へと戻っていた。

 そして自分のクラスの教室に入ろうとしたとき、中から数人の女生徒たちが談笑する声が聞こえてきた。


 入りにくいな……。


 そう思っていると、話題の中に不意に俺の名前が出てきた。


千恵ちえ、あんた有馬ありまのこと好きなんでしょ?」


「う、うん……」


 中田千恵なかたちえ

 クラスの中でも比較的大人しめで、目立たないタイプの子だ。


 中田さん俺のことが好きだったのか……。

 いや、でも俺には楓がいるんだから何も関係ない。

 ていうか、いよいよ教室に入れなくなったぞ。どうする、俺の数学ノート。あれがないと今日の課題が……。


「でも、有馬くんは林さんとお付き合いしてるみたいだから……」


 その通りだ、中田さん。

 申し訳ないが、俺は楓以外の女子に興味なんてないのだ。


 ……って、いやいや。俺は何を立ち聞きしてるんだ。まったく悪趣味な。


 仕方ない。この場は一旦去って、また後で取りに来るか……。


 そう考えて踵を返そうとしたとき――――


「じゃあさぁ……奪っちゃえばいいじゃん!」

「きゃー! 過っ激ぃー!」

「きゃはははははっ!」


 聞き捨てならない言葉と、下衆な笑い声が聞こえてきた。


 ――――だが、今思い返せば。ここで俺が冷静になっていれば。

 ――――教室のドアを開けてさえいなければ。


 ほぼ無意識に体が動き、俺は教室のドアを叩き付けるように開け放っていた。四人の女子の視線がこちらへ向く。


「……今、奪っちゃえばとか言った奴は誰だ」


 俺は完全に頭に血が上り、我を忘れていた。


「有馬じゃん。なに? もしかして聞いてたの?」

「うわぁー、趣味悪ぅー」

「ばか、千恵に失礼でしょ! きゃはは!」


 四人の中で、俺の怒りに気がついているのは中田さんだけだった。そんな彼女は俺に対して怯えてるような、あるいは申し訳なさそうな表情をしていた。


「俺と楓のことは、おまえたちには関係ないだろ。放っておいてくれよ」


 その俺の態度が気に食わなかったのか、グループのボス格である女生徒がこちらを睨んできた。


「はぁ? 有馬、あんたちょっとチョーシに乗りすぎじゃない? あたしがその気になれば、あんたらなんか簡単に別れさせられるのよ?」


「言ってろ」


 ふざけるな。俺と楓の絆がこんな奴らに壊せるものか。

 これ以上、こいつらと話すのもバカらしい。俺は自分の机から忘れ物のノートを取り出すと、教室を去ろうとした。


「ふーん。……あ、そういえば思い出した。うちの妹と林の妹ってぇ、同じ学校で同じ学年なのよねぇ。で、うちの妹ってあたしが言うのも何だけど結構な問題児でさぁ。この前も、クラスの子をイジめたとかで親が呼び出されてたわけよ」


 その言葉に、思わず足が止まった。


「たしか林の家ってぇ、妹と二人暮らしらしいじゃない? その大事な妹がさぁ……あんたと別れないとイジメの標的にされるってなったら……どうすると思う?」


 その瞬間。俺の頭は沸騰し、理性が弾け飛んだ。

 俺は気がつくと、その女生徒の胸ぐらを掴んで拳を振りかぶっていた。


「あ、有馬くんっ……!」


 中田さんが俺の腕にしがみつき、必死に俺を止めようとする。それで、ほんの少しだけ冷静になることができた。


 ……そうだ。ここでこいつを殴ったところで、何にもならない。俺に胸ぐらを掴まれてもなお、こちらを挑発するようにニヤついている女生徒から手を離す。


「……そのときは、おまえもタダで済むと思うなよ」


 俺はニヤニヤといやらしく笑う女生徒たちをひと睨みし、教室を後にした。


「ほんと、明日が楽しみねぇ有馬くん? きゃはははは!」


 そいつらの甲高い下卑た笑い声だけが、延々と俺の耳に残った。


 ――――大丈夫だ、俺と楓なら。

 ――――こんな俺を選んでくれた、楓となら。

 ――――あんな奴らに何をされようが、俺たちの関係は絶対に壊れたりなんかしない。

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