第八話 悪魔の契約Ⅴ
俺は布団から抜け出して、身を起こす。
そして、すぐ近くにいる香苗と目が合った。
「ねえ、暁。どうして、そんなに泣いてるの? 理由、聞かせてほしいな……?」
そう香苗に言われた俺は、初めて自分が涙を流していたことに気がつく。
再び香苗が俺の涙を拭おうと手を伸ばしてきたが、それを今度は拒絶することができなかった。
「……」
香苗に、楓とのことを話していいものかと悩む。
そのことを話せば、香苗に嫌われてしまうかもしれない。
俺は、それが怖かった。
もう人と深く関わらないと決めたくせに、それでも嫌われることが怖い。俺は、そんな半端な人間だった。
「……あたしもね、あったよ。つらいこと」
俺が何も言えずにいると、香苗の方から話をし始めた。
「付き合ってた人がいたんだ。中学の三年間、ずーっとね。でも、その人は此処じゃないところ……寮付きで頭のいい人たちが入る学校に行ったんだ」
話の展開は何となく読めたが、俺はただ黙って香苗の話を聞いていた。
「そしたらさ、どんどん会う時間が少なくなっちゃって……結局最後はフラれちゃった。勉強が忙しいってさ。あー、あたしって、彼にとっては勉強以下の存在なんだなーって。……すごく、悲しかった」
「……そうか」
「……でもね。それが本当の理由なら、まだ良かったんだ。自分の未来のために頑張ろうとしてるんだなぁって、思ったから。あたしは悲しかったんだよ。でも、応援しようと……しようとした、んだよ……?」
香苗の声が震え出す。
目にいっぱい涙を溜め、呼吸は浅くなっていく。
「でもっ……! あたし見ちゃったんだよぉっ……! どうしても寂しくなって、せめて話せなくても、彼の姿だけでも見たいって思ってぇっ……! でも彼の学校に行ったらさ……知らない女の子と、仲良く手を繋いでたっ……! なんでっ!? どうしてなのよぉっ!?」
当時の光景を思い出したのだろう。
香苗の感情は決壊して、ボロボロと涙を零しながら嗚咽混じりの叫び声をあげた。
「なんで? どうして、あたしじゃダメだったのっ……? なんで、嘘ついたのっ……? なんで、なんでっ……どうしてあたしを一人にするの……?」
――――ああ、こいつは俺に似てるのかもしれない。
ただ純粋に、そう思った。
だからこそ、まずいと思いながらも――――俺は香苗を抱きしめずにはいられなかった。
「暁……?」
「……辛かったな、香苗」
香苗を抱きしめる腕に、自然と力がこもる。
同類を見つけたという喜びにも似た感情と、香苗の苦しみを少しでも取り除きたいという気持ちと――――決して触れてはならない禁忌に触れる、甘美な背徳感。
多くのものがない交ぜになり、自分でも何が何だか分からなくなる。
だけど今はただ、この腕の中にある香苗の温もりだけが全てだと――――この時は、そう思えた。
「……俺は、汚い人間だ」
俺が発した言葉。それは懺悔だったのかもしれない。
香苗が自分のことを打ち明けてくれたからだろうか。
俺も素直に、
もしかすると、心の底では誰かに聞いてほしいと思っていたのかもしれない。
楓との馴れ初めから、別れることになった経緯。そして、女を刃物と言葉を使って脅迫したことまで全て話した。
一度でも話し出すと、言葉と感情が止まらなくなる。最後に俺は、情けなく蹲りながら泣いてしまっていた。
「平気で人を傷つける、そんな薄汚れた人間なんだよ、俺は……!」
嗚咽が混じる、俺の声。
「……そっか。暁も、大変だったね……」
「……違う。俺のは、自業自得だ……」
「ねぇ、暁。あたしのことは、傷つけてもいいんだよ……?」
「……は?」
香苗が何を言っているのか、最初は理解ができなかった。
「どんなに傷つけられても、あたしのことを暁が求めてくれるならいいの。一人ぼっちよりは、その方があたしはずっと幸せだから」
そう言うと香苗は俺の背中に手を回し、今度は彼女が俺を抱きしめてくれた。
「暁、あたしは暁の全部を受け入れてあげるよ。暁の綺麗なところも、暁の汚いところも全部」
香苗は、俺の全部を受け入れてくれる……?
今の話を聞いた上で、そう言ってくれるのか……?
「だから……暁も……」
香苗から慈しむように頭を撫でられる。
「あたしの全部を受け入れて――――くれるよね?」
そう香苗は俺の耳元で囁くと、そのまま俺の体をベッドに押し倒した。
俺には、もはや抵抗する意味も気力もない。
「……ああ」
これは、お互いの全てを受け入れて許し合う契り。そんな悪魔の契約だ。
この先きっと俺は、己の歪んだ心のせいで香苗を傷つけるだろう。だが、それを香苗は許すと言う。
こんな関係は正常ではない。
お互い幸せになど、なれる筈がないのは分かりきっていた。
――――でももう、それでいいんじゃないか?
俺のような人でなしが、人並みの幸せを求めること自体が間違っていたんだ。
それならばいっそ、香苗を巻き添えにして堕ちるところまで堕ちるのも悪くない。
俺の上に跨っている香苗が上着のボタンを外して、衣服を脱いでいく。そして、少しずつ彼女の白い素肌と下着が露わになる。その姿を見ただけで、あらゆる俺の感情は劣情へと塗り潰されていく。
やはり、俺は所詮その程度の人間だ。
どんなに悩んだふりをしたところで、その場の快楽だけを求める刹那的な生き方しかできない。そう俺は、このときに悟った。
香苗と唇を重ね、肌を合わせる。そして、二人の影は一つとなった。
それから俺たちは、お互いの寂しさだとか虚しさだとかを埋めるために何度も何度も求め合った。
だけど、やっぱり俺はどうかしているみたいだ。
行為の最中にも、頭に浮かぶのは楓のことばかりだった。
楓と香苗は似ても似つかない筈なのに、俺は香苗の乱れる様子に楓の姿を重ねて幻視していた。
◇
◇
◇
――――我ながら反吐が出る。
事後、冷静になった途端に心が圧し潰されそうなほどの強烈な自己嫌悪が俺を苛んだ。
俺は結局のところ、ただ自分の欲情を満たすためだけに香苗を抱いたのだ。
俺は香苗を受け入れると言ったそばから、楓のことを想いながら行為に耽っていた。これでは、香苗のことを利用して自慰行為に耽っていたのと変わらない。
自分のことしか考えることができない人間。
自分以外の誰にも優しくできない人間。
それが、俺だ。
◇◆◇
それ以降、香苗とは何とも言いがたい関係となった。
あれからも香苗はしきりに体の関係を求めてきたが、それを俺は断り続けて今に至る。
香苗は言った。
誰かと繋がっていないと、不安で仕方がないと。
人と人は心では繋がれないから、体だけでも誰かと繋がっていたいのだと。
人は心でも繋がることができるはずだと、俺は答えた。それを証明するために、もう香苗とは肉体関係を持たないと宣言した。そんなものがなくても、俺たちは心のどこかで繋がっているのだと言って聞かせた。
――――ひどい虚言だ。
本当は、そんなことなど微塵も考えていないくせに。
俺はただ、嫌なだけだった。
もう二度と、あの事後の罪悪感と自己嫌悪を味わいたくないがために香苗を拒絶したのだ。
思い返しただけでも自分の薄汚さに吐きそうになる。だが、これから数ヶ月ぶりに香苗と二人きりで会うのだ。だから、自分への戒めだけはしておかなければならない。
もう二度と同じことはしないと己の胸に深く刻み込め。
あの強烈な自己嫌悪を決して忘れるな。
刹那的にしか生きられない俺は、そうでもしなければいとも容易く場の空気に流されてしまうのだから。
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