逢瀬
赤い血がとぎれながら落ちていく。ここからなら両腕を広げれば隠せる程度の森を越え、シルエットだけでも明確な険しい山を越えてはるか遠くに在る様に見える赤い線なのだからあまりにも巨大だとは十分に証明されているにもかかわらず、落ちていくのに轟音も地のどよめきも後を追う様な突風も無く、ただ落ちていく―― 、
変わりに、笑い声が聞こえる。朗らかに響き春の訪れを告げるロビンのコロコロとした音がとめどなく届けられる。涼やかな湖面が主の訪れを歓迎するたおやかに踊る。
僕は立っていた。体が軽く雲に包まれている。童話の中で聞くドラゴンの様な紫色で爪の伸び切り節が目立った4本指。とても自身の手では無い造形なのに自身の四肢だとしっかりと自覚する汚らしい手に大事と知る高級な箱を握りしめていた。中身は ……… なんだ?。これを渡した時のあの方の顔を考えると………あの方ってだれだ?虫に喰われた果実の様に何故か思い出せない。が、恍惚にも似た喜びがお腹の底から競り上がる。
月光が深緑に煌めきどこからかコマドリがアサガオを持って足元に降り立った。どこか寂しい匂いを帯びた紅いアサガオの蕾、意味は知らない、いや……… 。
パサ、パサと飛沫で彩られる湖面。強まる風、優しい匂いが近付く。僕はいよいよだと収まりきらぬ高揚をなんとか抑え、古の――である自身として真っ当な立ち振る舞いを思い描いて跳ね回りたい四肢の衝動を抑え込み握りしめた箱から埃を払う。
刺す赤い血が告げる。あいつの毛先程だが我輩は爪が甘い所がある。渡す前にちゃんと中身が収まっているか見ないとなと、僕は月光から隠れる様にしゃがみ細かく彫金された留め金を氷細工で作られているのかと思われるほどゆっくりと解いて木箱の蓋を開けた。
――コマドリの懐ききった囀り。はて?喉の奥の方から高揚とは違う苦い渇きを覚える。血の光の強さが弱まっていく。僕は改めて見直す―― そうだよな、これだよな。と、渇きはふぅと収まり開けた時と同じ様に蓋をゆっくりと締める。
緑が深まる。涼やかな褥の衣擦れがはらりとコマドリの声に混ざる。『待チ人来ラレリ』と胸が高鳴る。後ろに手を回し湖面へと身を向き直す。
蒼天に浮かぶ雲で編まれたと言えば信じそうな衣を柳の様にしなる体躯に纏った女。翡翠の様な透き通す緑の髪が風に歌う。瞳が穏やかに揺蕩いまるで双子の月みたいだ。自身がここに居る事自体が不潔だと思える程に清艶な佇まい。この場に居る事が許されている事だけで喜びを覚え鼓動が速まる。
自身の全てをもってしてもこれほどの人を思い描く事は出来ないだろう。誰かにその容姿を伝えられた事あれば忘れる事等、出来もしないだろう。まして一度出会えば—— 。ただ、どこかで見た事がある。そんな気がしてしまう。遠い昔、言葉も知らずただ生を授かっていただけの記憶すらあやふやな頃ではない。つい最近どこかで出会った様な、むしろ言葉を交わした様なよく見知った安心感を覚える。
—— 邪魔な音が聞こえる。どこかで僕を呼ぶ声が聞こえる。遠くの赤い血の落ちるのが止まって、薄れて、かき消えていく。目の前の女の人の姿もコマドリも湖畔も何もかも共にボヤえて散っていく。少年は追った。湖面に移る少年の四肢はいつもの手に戻っていた。霧散した残像の中を駆けて追うも追いつけず—— 少年は賭ける事をやめ立ち止まる。悲しく涙が頬を伝った。自身の手で目を擦る。と、汚らしいヤニに満ちた臭いが顔に張り付いた。
見渡すと毛布の海に崩れ込んだ様に座っていた。泥で練られた様な窓からはまだ太陽も光芒を伸ばし始めた頃の様で遠くの空が黄ばみ始めたばかり、せっかくの夢にと久しぶりに名残惜しむ中、起こした元凶がしきりに名前を呼ぶのに少し不機嫌そうに答えた。
悪臭になれていく様に頭がはっきりしていく中で少年は毛布に包んで寝ていたはずなのにと疑問が浮かぶ。
見渡す少年。少年を呼ぶアンナに目がいく。終わったはずなのに少女の瞳は昨夜と同じぐらいに怯えている。
何故怯えているのかと伝える様に少女はようやく合致した視線を沈める様に誘導させた。少女の視線が向かい先は少年の眼前の床に置かれた昨晩留め具まで掛けて小鳥を閉じ込めていたはずの木箱だった……… 。
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