魔人の血
崩壊した洞窟に揺蕩う焚き火の鮮やかな赤い芯の袂に幾重の筋が草の根と岩の間を伝って食指の様にトクトクと鼓動の様に波打ながら近づいてくる赤い血潮、源流は小さな皮袋。赤いシミだらけの使い古した皮袋は少年自身の心臓であるかの様で目の前の光景から流れ込む困惑と驚愕の為に少年の足元に滑り落ちていた。
落ちて数秒程、少年の静止された時間とは真逆に皮袋を中心とした空間は異様な速さで伸びていく緑、青、黄。元々、洞窟の袂から流れる香りだけでこの辺り一体を岩とカビだけだった世界から若芽芽吹く地と変えていたのだから原液を垂らせばより一層茂るのは白明であるが、目の当たりにすればそれは異様としか言いようが無い。ゴクゴク、バキバキ、ギシギシと種から芽へ、芽から種へ枯れて洞窟に響く繁茂の音――
「サルマドーレ!サルマドーレ!サルマドーレ!」
少年に寄り添う、いや落とされた皮袋に覆いかぶさる様に小さな赤いロビンが豆粒の様な嘴を皮袋に突き刺して虫食い穴を広げる様に3度キーキー高い声音で叫ぶ。
少年の足に触れていたロビンの毛の感触が変わっていく…… 濡れた糸束の纏わりつく感覚が太く、固くなっていく。踝あたりにペタペタ感じていたのが太ももの付け根、少年の腹、少年の顔へと登って、触るが刺さるにそして押しのける様に力強くなっていく…… 終いに少年がその場に佇む事も出来なくなってサナウが立つ焚き火の対岸へと突き飛ばされてしまった。
放り出された拍子に焚き火の灰が少年を覆う。少年の鼻腔に感じるのはあの日の夜。途方もない不安感に苛まれ怯えた目を放り出した小さなロビンだった赤い物体に向けた――――
「サルマドーレ!サルマドーレ!サルマドーレ!」
小鳥とは思えない重く地を這う咆哮が響く―― 呼応して嘲笑が少年の内から少年自身を覆う。
(あぁ、笑い声が響く―――― )
飽和した少年の目から涙が垂れた。さっきまで立っていた場所に目を向ける。皮袋は萎みきって傍目にはボロキレが水辺に打ち上げられた様にただそこにある。少年を跳ね除けた小鳥の姿はもう無く、変わりに火箸でこねくりまわされた様に赤黒く爛れた巨大な肉の塊。全身を覆っていたであろう毛は至る所が禿げて見るに醜悪な風態。
「サルマドーレ!」
小鳥だった一抹の名残の様な黄色い嘴が血と炎をもって邪悪にテラつかせて叫んだ。怪物の咆哮に呼応する様に炎が揺らめき、瑞々しく茂った草を舐め回す。瓦解しかけている壁がパラパラと土を落とし耐えきれなくなった岩が一つ二つと轟音と共に転げ落ちた。怪物の小さな眼球を地をトクトクと流れる魔王の血から焚き火の先、少年の少し先、怪訝に沈む隻眼を湛える少女へ向ける。
少年の今にも血管が千切れそうなほどに充血した瞳が怪物視線に追従する。彼女は深いため息に混じる様に一言つぶやいた。
「不思議な小鳥ね」
不協和音が共鳴する如く神経を震わされた少年の頬にまた一筋の涙が流れる。雫が地へぽたり、感情と嘲笑と咆哮が警報の様に頭を殴打される衝撃をそのまま少年はさらりと立つサナウへと向ける。
「なんなんだよ、これ」
「魔力の飲み過ぎね。暴走しているわ」
「—— 、
さっき言っていたのと違うじゃないか。獣は怖がるっていったじゃないか」
「だから不思議なのよ 」
雨の中を飛ぶ鳥を見た程度の趣で応えたサナウの一言が少年の心に薄ら寒い風を流す。内外から苛ませる喧騒がモヤの様に一瞬包み込まれて飽和した少年の感覚に作られる少しの隙間。潜り込む様に少年の脳裏に浮かんだ在りし日に描いた地面の落書き——— 少年は泥に塗れた顔を拭い未だ事の次第を把握出来ず青ざめた顔で立ちすくんだままの少女を見た。少年は歯を食いしばり自身に潜り込もうともがく悪感情に堪えながら起き上がった。まるで表皮が剥がれた様に見える魔王の血に塗れた少年の手がポケットにある宝物に触れようともがく。父から貰ったペンダントのレリーフを指でなぞる。
「あぁ。笑い声が響く——— 何がそんなに面白いんだよ———」
ぼそっと悪態が漏れる。不思議とスッキリした様な気持ち。クーリンの口角がふと上がる。膿を吹く様に炎を撒き散らす醜く肥大化した怪物を見据えた少年の金色の瞳が鷹の様に輝く。そんな視線に関せずとでもいう様に怪物の未だ小さな赤い瞳の縦に割れた瞳孔はサナウのみを映し、鳴り止まぬサイレンの様に魔王の名前を呼ぶ。
「なんでこいつは魔王の名前を叫ぶんだ?」
「飲んだ血に溜まった残留思念でしょう。どれだけ執着していたのかしら、エルドラドってよっぽどの変人だったのね」
未だに気怠そうな瞳のまま答えるサナウに先ほどの冷ややかさは感じなくなったクーリン。訳もわからず地面を轟かせる様に笑う乱杭歯の顔を思い出し納得してしまった。
鬼灯の様にパンパンに赤く腫れた小さな真っ赤な瞳がギラリと瞬いた。より一層の咆哮をサナウに向けて怪物と成り果てたコマドリは体躯を収縮させてサナウに飛びかかる。まるで紐で繋がれている様な程の一直線。体内を巡り凝縮されてしまった魔王の血と炎が飛び散る。辺りの草木が茂る。炎が瞬時に燃やす。生わせて燃やす。攻防は火がはるかに優勢で辺り一面は炎の海と化してゆく。
近づく怪物—— サナウのうねった緑色の髪の一束に触れた刹那—— 体から赤い管状の魔力を放出し拒絶する様に怪物を跳ね除けた。鳥に戻ったかの様に遠くへ飛んでゆく怪物。クーリンは轟々と燃える暗幕に遮られて見失う。しばし後に響く洞窟を瓦解させる様な振動は先刻跳ばされたクーリンの何倍もの飛距離、洞窟の入り口まで飛ばされたのではないかと想像させる。
疎んじている様なサナウの態度とは裏腹に自身から発された赤い管はヤマアラシの棘の様に飛んでいった怪物の方角を刺したままだ。
「……やっつけたの? 」
胸の奥でなお警鐘の様に笑う声を押さえ込みながらクーリンはおおよそ答えなど分かりきった質問をサナウへ投げる。当たり前ともいう様にサナウの首は横に振り普段その当り前を表すのと変わらない声音で『いいえ』が添えられた。
「アンナ! 」
「…… いや! 」
茫然自失だった少女の悲鳴の様な言葉が洞窟へ響く。ビクッと引きつる様に小走りになっていたクーリンの足が止まる。少女は幼なじみの声に安堵の色を見せたのも束の間、あからさまな嫌悪と憎悪が渦巻いた様な表情へと変わった。と思えば昨日見せた以上にグシャグシャに顔を歪ませて盛大に泣きだした。
肩を引き攣らせ啜る音の合間に『わからない、わからない』と、ぼそぼそと声を漏らす少女に、おろおろと、ただあの怪物がいつ戻ってくるか判らない状況に恐れながら少年は少女に近づこうと足を運ぶ。と、少女はまた悲鳴の様に拒絶の言葉を発す。
立ち止まった少年は突如、青色に視界を奪われた。少年は驚いたが直様その正体を思い出す。それは青色の炎、浄化する様に少年を包み、優しく穏やかに消えていった—— 、それは以前サナウが少年を浄化した魔道具だった。
「アンナちゃん? もう、大丈夫よ。
もう怖く無いでしょう?」
少女はベソの合間に少年を恐る恐ると見てゆっくり、こっくりと首を振って意思を示した。
嫌悪の感情はまだ消えていないのだろうが、胸中を掻きむしる程では無くなった様で、ただ因果も原因も知識も無い少女はただその不思議な体験にポカーンと飽和した間抜けな顔で少年を見る。
「まぁ、普通はこうなのよ 」
「…………そうだね」
穏やかな優しさの中にどこか寂しげな音を匂わせるサナウの言葉に少年は安らぎを覚えて一歩、少女へ向けて歩を詰めた。
ピクリと肩を震わせた少女。先ほどまでの圧迫は感じていない様子ではあるが何処か居心地が悪そうに俯いた。少年は清められて痒いはずもない頭をかいて、喉の奥から発する様に絞られた声で『ごめん』 。少女も釣られる様に『こっちこそ……ごめん』と、いつもの大きな声とは違う弱々しい声で返す。
怪物が吐き出した炎と血が轟々と激しく渦巻く洞窟の深部の中、幼馴染の二人の間に流れた穏やかな沈黙。一刻、二刻、見守っていたもののそろそろ終わらせようとサナウがピクリと動いた丁度その時——
アンナを呼ぶ声が憎悪に渦巻いた炎の音に埋もれない様に微かに響いた。声は一人の物という訳ではなく複数の大人達が方々で呼んでいる様に響く————
「そろそろ片付けちゃいましょう」
まるで遊んだ後片付けの様に簡単に言ったサナウに辺りを逆巻く炎に当てられながらクーリンは恐る恐る尋ねる。
「 ……倒せるの?」
「大丈夫よ。あなたなら倒せるわ」
「へ!?」
「私は攻撃型じゃあ無いもの」
目を点の様に見開いた少年に悪戯成功と言わんばかりに可笑そうに軽やかに笑う緑髪の少女は隻眼の赤い瞳を輝かせて言った。
少年はただ轟々と激る炎の中へ投げ込まれ酸欠を催す様な眩暈を感じサナウの中に確かに魔人の血があることを知ったのだった…………
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