雨宿り

 雨が降っていた。宵も過ぎ黒ずんだノルン村に強くのしかかる様な。空と同じ色の整地されたばかりの道はランプの規則正しく揺れる光を受けて主張の激しい煤と油だらけの水溜まりを踊る様に煌めかせている。そんな中、クリフトは独り歩いていた。

 夕暮れが終わる頃には息子は帰ってくるはずだった。作業を終え戻った仮住まいの天幕には誰も居ない。この時間迄待ってもつゆとも音沙汰も無い。今日は帰らないのだろうか? サナウ様と一緒にいるはずなのだから心配はいらないだろう。昼過ぎから続く雨は今なお強いまま、天幕では寝る事もできないだろうから丁度良かったのかもしれない。詰所はどうも息子には居心地の良い所とは言えないだろうから…… 。と、滴る滑り気を帯びた雨粒が幾重と肌を伝うのも気にせず父親は詰所へと歩いていった。


………… どうも騒がしい。詰所は炭の様に赤黒く光を漏らし時折、人影が炭を割って飛び出す火の粉の様にランプを揺らしながら飛び出していく。クリフトは明日も朝早くから動くだろうにと神妙面で大人達がざわざわと狭い室内で蠢く中を掻き分けて奥へと進むと、丁度一つの塊が一人の男へ縋る様に取り囲んでいた。


「これは我輩が解決する問題では無い」


 厳粛な声が食堂の奥に座る男、食堂の一番奥がもう定位置となって数日となるカリフが鷹の様に鋭い目で目の前に集まった村人達の代表である一人の青年に言い放つ。


「ジェイフ君。これは村長たる君の務めなのだ。君が為さなければならぬ事だ」

「すみません。ただ、これには魔王が絡んでいるのかもという話があがっておりまして………… 」

「それは憶測であろう? 確固たる根拠があるのかね?」


 うろたえるジェイフと領主の息子の会話はそれで終わり、結局クリフトは何が起きているのかもわからず、ただ『 魔王 』という単語が胸を掴む。

 クリフトはなにはともわれ、ジェイフへ話を聞こうと彼らが詰まる一角に中心に向かって飛び込もうと片手を直前の男の方へ触れようとした—— その時、クリフトの濡れた肩が縋り付かれる様に何者かに引っ張られた。

 

「アンナが居ないんだよ」


 声の主は先ほどまで外に居たのだろうか、節くれだって腰の曲がった枯れ木の様な体からぼたぼたと水を落としていた。隣に住む婆さんの乾涸びた声がクリフトにすがった。



▲▲▲▲▲▲



(喉が乾いたなぁ)


 アンナはふと思った。幼く奔放に創造された物質から色だけ抽出した様な世界が少女自身の境界すら霞が纏わりつく様に覆いかぶさっていく。彼女のあやふやな心には『 乾涸びたパンがようやく湖を見つけた 』渇望にも似た救われた気持ちが羽ばたく様に流れ込んできた。

――妙な感覚。何も知らない故に何もかも素直に飲み込んでゆく幼いアンナですらハテナを浮かべる程に不思議な感覚が少女を取り込んでゆく。少女を成す臓器からでなく表皮よりも外から、いや誰のお下がりかも分からない子供服の擦り切れて色褪せたボロ布よりもなおより外から潜り込んで刺激する様な感覚だったからだ。

 ぼんやりとした脳で少女はその渇きの正体を探る様に朧げな世界しか映さないオレンジの様なまん丸の目をその渇きの源流を探る様にきょろきょろと動かす。喉へ―― 胸へ―― 腹へ。


――ぱちぱち

 遠くから弾ける様に楽しい音が鳴った。呼応する様に腹部の前で包む様に丸めた両手の中から先ほどから感じる渇望がより高まった。


(――そうだった)


 少女ははっと思い出す、抱いていた小鳥を、そもそも自身に腕が在った事を――

 この世界は彼女の物だ。創造主に許された事で少女の世界で自身の両腕が朧げな原色の様な世界で体現されると共に、渇きの権現たる小鳥の鳴き声が響いた。


「サルマドーレ!」


 これまた可笑しい。

「おかしな小鳥。君はちゅんちゅんって鳴くべきなのに 」


 流れ込む喉の渇きの渦が強まる中、アンナは嗜める様に手の中に収まった小鳥に言った。小鳥は変わらず人名を叫ぶ様な鳴き声で囀りアンナは意識する毎に形作られていく自身の眉を顰めてみせた。

 小鳥は意にも介せずに鳴き喚いていたが埒があかないと気がついたのだろう、自身を囲った柔らかく小さな籠を啄みこじ開けようと暴れた。

 アンナはケラケラと笑った。おかしかったのだ。夢の中だとしてもあまりにも滑稽すぎる。小鳥のへんてこな鳴き声もそれを叱る自分自身も——

 笑う度に世界が飲み込もうとする力が弱まっていく。霞がうすまって自身をしめす境界が明確になっていく。そして終いにはその奇妙な渇望の共鳴も薄まり感じ得なくなり小鳥と少女も明確に分けられていった。



――――――



―― ぱちぱち、ぽた―― 。

 彼女の想像した世界がどこからか聞こえる弾ける音に柔らかくかき消されていく。音を発するは一つの火。火は産声をあげる赤ん坊みたいに弾けて踊り、母親の様によりそった影も釣られる様に火と共に踊る。闇と火と影の明覚に分け隔たれたコントラストの中で影の主の緑髪が強調され朧気な彼女の橙色の瞳は否応なく釘付けとなる。


「なんで、サナウ様? 」

「……あら?起きたのね。貴女こそどうしてここに? 」

「だってここは私たちの秘密基地だもの——— 」


 寝床としていた岩を降りながらサナウの焚べる火へととてとてと近づきながら段々と橙色の瞳が現実を捉えていく…… 「しまった」という感情が煌めいた。とっさに口を抑えようとお腹の前で壺の様に組んだ両手を小さな口へ持っていく。バタバタ、ピーピーと騒がしい音が彼女の顔を覆った—— 「 しまった 」 彼女の瞳にまた感情が煌めいた。窄めた両手を口から離して閉じた柔らかい親指同士の隙間を開けて橙色の瞳で覗き込む。

——光明の一筋、小鳥にはそう思えたのだろう。一層激しく暴れ、少女の太陽の様な瞳が登った空へ羽ばたく、反射的にのけぞる少女の「っあ」と発した声と共に彼女の小さな両手が驚いた拍子、より一層広がった隙間から赤い小鳥は飛び出した。


「コマドリ? あざやかな色ね」


 とてとてと歩む足がとと止まり寝起きの少女の瞳は憂いを宿し洞窟の天井へ放たれた赤い小鳥を追う。そのまま何処へとも逃げ出していってしまうだろう…… と少女は思って追っていたのだが不思議なことにその小さなロビンは深緑肥えた鳥たちの安息地と勘違いしてしまったかの様に水を滴らせるサナウの頭上へと降り立って満足そうに尾羽も嘴も全て丸める様に緑髪に蹲り猫の様に喉を鳴らす。その様に再びアンナはとてとて、とてちてと歩んで頭一つ高いサナウの頭上を背伸びして興味深く心地良さそうな小鳥を爛々と篝火の様な二つの瞳で見つめた。

 緑髪の少女は困った様にキョトンとした隻眼の紅い瞳で彼女に寄り添う様に背伸びしたアンナを見つめ、取り繕う様にため息を一つ、手を頭上に伸ばし小鳥を覆う様に捕まえる。

 ロビンは迫り来る人の手に一瞬他白くそぶりを見せたが誰の手か認識した様ですぐに身を委ねる様に羽音も立てず留まり木の主の手に委ねる様に収まった。


「大変懐いているのね、この子。

 貴女が飼っているの? 」

「さっきあそこで捕まえたばっかりよ」


 ノルン村の誰よりも生きてきた。村人以上に沢山の経験を冒険者稼業で蓄えてきた彼女であるにも関わらず目の前の自身の何分のいや十何分幾つ程度しか生きてきていない少女の言葉に隻眼を困惑させながらサナウは奇妙な生物を包む両手をアンナに差し出した。

 アンナは受け継ぐ様に小鳥を自身の小さな手一杯に抱く、途端、小鳥は静寂を破られたとバタバタと流民が語り継ぐ約束された大地にまた舞い戻ろうとする様に暴れだす。


「お前はやっぱり変な鳥ね—— 」


抑え込む様に力を込めて、だけど潰さない様に用心しながら橙色の瞳を無邪気に細めアンナはボソッとため息の様に吐いた。


「……アンナ?」


 既に湿気は無くなりて煌々と周りの空気の湿気を脅かす様に踊る篝火の向こう側から不思議そうな声音が崩れかけた洞窟に響く。

 今しがたたどり着いた事を示す様にびしょ濡れの体に火が纏わりつき朦々と立ち込める湿気が声の主の華奢な少年の体を際立たせる。少年はサナウの側へ、その手は洞窟前の紅い水たまりで事を成した為に魔王の残骸に塗れポタポタとしたたっていた。


「クーリン?」


 背筋が凍った。昨日の出来事からくるバツの悪さからだったのかもしれない。だけど少年の、その滴らせる紅い液体の様にドス黒い嫌悪感がアンナを包んだ。

 同時に少女の手の中の赤い毛玉がさっきとはまた違う様に暴れ出し、背筋を冷やされた反動でついアンナのこの小さな奇妙な小鳥への枷が外れ、勢いついた小鳥が砲弾の様に少年の足元に刺さった。


「この鳥…………」


 足元に飛び出た小鳥に目をやる少年はアンナの機微も気にも留めず不思議そうに目をぱちくりと瞬かせる。

 独り父親を諦める様に待っていた時に見た小鳥に似ている。と、少年は思う。

——笑い声が響く。忌々しい嘲笑する様な—— 、少年の感情に応える様に小鳥はあの日と同じ事をしてみせる。魔王の血を舐る様に啜った。


 少年の灰色の瞳、紅い瞳、橙色の瞳、それぞれがそれぞれとも不思議そうに地面に突き刺さった小さな赤いロビンを見た。

 ロビンは答える様に突如声を上げる。小鳥としてはあまりにも風変わり、人の言葉と言っても差し支えない発声で、ただ、橙色の瞳の少女はその言葉を知っていた。夢の中で聞いた一つの単語をはっしていたのだ。


「サルマドーレ!」


 釘付けとなった5つの瞳は皆その言葉に恐怖の色に覆われたのだった 。

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