洞窟の少女
――ぽたりと雫が落ちる。
いつもの様にお婆さんから御伽話を聞いた後 『お父さんが教えてくれたんだ』って、一緒に聞いていた男の子が連れていってくれた村はずれの洞窟。ゴツゴツした剥き出し岩の上に敷物の様な塵と埃、そこに小さな足跡だけ―― 私の一回り小さい足跡がその統一された足跡の輪を乱す。いつのまにか男の子だけの空間は私達の秘密基地となった―――― 。
―― ぽたぽたと雫の垂れる音が聞こえる。
秘密基地と呼んだ洞窟…… 何もかもが様変わりした洞窟…… 洞窟とはもう呼べなくなっちゃった。と、少女は呟く。くしゃくしゃな明るい橙色の髪の毛は遮るモノが無くなって直射する陽の光が当たって赤く燃えている。髪と同じ色の眼は陽の元に居てもくすんだまま下方へ視線を注ぐ。その様は洞窟とは言えぬ程に草が茂った地面に足を組みちょこんと座る少女の姿と相まってか年の頃には似つかぬ寂しさを漂わせている。
( …………クーリンはここに居たんだ)
様変わりした秘密基地は私達の居場所とはあまりにも言えなくなっていた。剥き出しだった岩は深緑の地の様に不揃いな草花に塗れ、壁も天井も無くなった。入り口あたりは大きく抉れ、なにより気色の悪い赤い池が出来ていた。
( お空がまっさお…… )
―― ぽとん。と、雫の垂れる音が聞こえる。
( そう言えばこの音はどこから来ているの? )
響く水滴の落ちる静寂に刻まれる音。見渡せば壁も天井も崩れてしまってもっと奥へ行かねば響く為の空洞なんて無くなった場所で不思議だなあと、幼稚な好奇心が落ち込んでいた少女の縮こまった体を強く膨らませる。少女は立ち上がり、奥の奥、かろうじて残っている洞窟とは言えない場所の瓦礫の山へ足をそろりそろりと運んでいく。水は高い所から落ちる。当たり前のことが起こり得そうな場所へと進んでゆく。心の奥では水源があからさまな赤い池の方が音の発信源としては有力な候補ではあるのだが、毒々しい赤を考える度に心の奥底から溢れる様に感じるあまりにも近寄りたく無い気持ち。だから、こちらが正解ならばと淡い期待も寄せながら少女は未だ見ていない洞窟だった残骸の奥へと足を運んでいく。
奥へ奥へと入り口と真反対の壁にとてちてと子犬がボールを追う様に少女は辿り着く。元々そこまで深い洞窟では無いので『辿り着く』という形容は仰々しい。彼女の歩幅で十数歩程度の所で少女は立ち止まった。
(こんな所だったっけ? )
雫の音を追ってきた場所は何度も訪れたことの有る洞窟の終わりの記憶には無い場所だった。入り口よりも幾分と小さくはあるが大岩が突っ込んできた様に瓦礫だらけのその場所は何十何百年と何かが寝床にしていた様に剥き出しの岩に少女位が丸まれば丁度収まる程度の円に擦り切れて窪んでいた。
少女は悪寒を感じビクッと身が膠着する。その窪みに赤い小鳥が居たから—— 、赤い小鳥なんて珍しくも無い、では何故だろうと少女は考えてみる。たじろき競り上がって頬にふれた肩をゆっくりと下ろしながら、なんとも奇妙なその小鳥を見つめて考えてみた。
( なんかクーリンみたい…… )
何故なのだろう。似ても似つかないその小鳥に昔馴染みの男の子があの日以来、醸し出し始めた雰囲気を覚えていたのだった。気持ちの悪い粘り気を持ったナニカが背筋を這う様な悪いモノだと全身が伝えている様な感覚を覚えてしまうのだ。
少女は一歩、小鳥へと足を運ぶ。その悪感情を振り払う様にとてとてと小鳥へ近づいて行く。小鳥まで半歩の所で少女の気持ちを鼓舞する様に地面が放つ音が変わった。硬い岩と柔らかい少女の靴の擦れる音から時折聞こえる水滴が響くぽたんと水面を打つ様な音に…… 、少女の周囲が奏でる音が変わった事に彼女自身は気づかなくなってしまっていた。ただ小鳥を見つめ、迫る様な悪感情を募らせる。
不思議と小鳥は微動だにしない。ただただ擦り切れたその窪みを寂しそうに見つめるのみで、野生であるにも関わらずすぐ後ろに迫った少女にすら気づいていない様だ。
少女はそろそろと手を伸ばす。小鳥のしっとりとした羽に少女の伸ばした指の先が触れた。未だに小鳥は動かない。
少女は小鳥を優しく包みこむ様に両手に小鳥を抱えていた。小鳥は遮られてしまった窪みから目を漸くそらして、その障害の主へと注意を向けた。
本当に不思議な小鳥だった。逃げるそぶりを全くしないのだ。ただ、少女はそれが良かった。幼い彼女の橙色の瞳に優しい光が過ぎった様に、幼い顔に似つかわしくない大人びた微笑みが浮かべた。
「やっぱり、そうなんだよね……」
少女はぺたりとその場に座り込む。悪寒は未だに体を巡るが、それにも勝る何か偉業を成し遂げた充実した感覚に包まれていた。少女にとっては満腹感の方がしっくりくる様で、ふと微睡を覚え座り込んだまま、小鳥を優しく抱いたまま、うとうとと睡りについていった。
▲▲▲▲▲▲
詰所への道を普段より1時間も早くクーリンは歩いてゆく。すれ違う村人達よりかは幾分と多少綺麗な程の少年のズボンのポケットは不器用に膨らんで歩む度にガチャと重い音を鳴らす。
赤いヤギの日以来サナウとの修行の内容はさして変わらず、飲み込みの早かった少年にとってマンネリ感を得る程になれてきた。ただその舐めた感情が湧き上がる度にクーリンの脳裏には初日の失態と悪夢の予言めいた映像が過ぎり、その年として至極妥当な油断を維持する事はどうしても出来なかった。
『常に赤い視界を維持しなさい』と昨日、別れ際にサナウが言った。が、どうしても躊躇いが勝り出来ずにいた。言付けも守れないのも合わさり足取りはどうしても重くなる。だがやらねばならぬと、今日も村は灼熱の様で、砂塵が火の粉の様にギラギラと輝いているのを理由に休みたい気持ちを抑えながら詰所へと進んでゆく。
今日は、やらねばならぬ事がもう一つある。これも気が重い事ではある。少年はキョロキョロと道すがらよぎってゆく村人達を捉え顔を盗み見てはまだ踏ん切りが付かない心の緊張が解けるのを何度も感じながら幾層の緩急に草臥れて詰所へ辿りつく。
「今日は見ていないよ」
お隣のお婆さんは詰所の掃除を担当している様で、ボロキレで大広間の床をゴシゴシと拭いていた。少年がオドオドと話かけると曲がった腰をトントンと叩きながらノビをしても伸びきらない様でよろよろと立ち上がる。目線はあまり変わらずそのまま表情も変えず震える手は振り上げる軌道をゆったりと描き少年の頭を撫でる。
「アンナに伝えておくよ」
と、一言言ってまたよろよろと仕事に戻っていく。
詰所にいてもやる事もないから。と、ぼんやりと大広間の奥の片隅で手持ち無沙汰に少年はポケットに手を突っ込んで宝物達を弄る。父の気持ちがわかる様な気がした。歪に欠けたボタンの優しい感触と指の腹でもわかる程細かく深く刻まれた紋様を纏った硬い感触。確かにある二つの物体が少年を不変と支えるかの様に、静かに寄り添っていた。
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