悪夢

「これ程とは……」


 十分すぎるほどに充満していた苔の臭いが一層増した洞窟は灰色と緑色の世界となっていた。

 クーリンが放った力はあまりにも強大だった。 先の魔王共により穴だらけになっていた洞窟は今ではカリフたちの座っている方の面のみを残し覆っていた小山も、茂っていた草木と共に粉々と神の鉄槌が落とされたように抉れた大地に谷間の霞の様に厚く留まる。

 だんだんと霞は薄れていき降雪の様に5人の肩に積もってゆく。


「これほどの力は戦場でも見た事は無いぞクーリン君!

 ……が、たしかにこれではおいそれと行使するのは憚られるな。

 ノーラン!君は事の仔細を父上に報告しに行っておくれ」


 ノーランは短く返事を返し颯爽と村の方へ駆けて行く、ただ少し気掛かりそうに主人と同じ様にお腹を抑え、脂汗を滴らせ意識朦朧と死相を浮かべるクーリンを見ながら——— 。


 医者が筒を患者の胸に当てて微弱な鼓動を増幅させて確認する様に掌から魔力を紡ぎ患者の胸へ垂らし魔力を確認しているサナウ。

 気が気じゃなく水差しを息子の口に付けていつでも魁の魔王の血を飲ませられる体勢で待機するクリフト。


「魔力を全部使ってますわ。クリフトさん、ちょっとづつ飲ませてやって下さい」

「与えらえた力を制御するのは難しい物だな」


 一滴も溢さない様にゆっくりと命の水を飲ませ始めたクリフトの側で、カリフは意味ありげな視線をサナウへ投げる。


「お忘れかもしれませんが—— 。

 王様からの命令はあくまでカリフ様の治癒だけとなっています?

 ここに居るのも仕事明けの休暇を使っているだけで、もうそれも後わずか……

 この子に教えるなんて出来ませんわ」

「そこは解っておる。ただどうしたものか…… 」


 水差しを大いに傾けて最後の一滴まで息子に飲ませ終えたクリフトはそそくさとまた満たす為に水たまりの方へ駆けて行った。

 苦悶の表情も薄氷の様に薄くなっていく中、少年囲む3人の大人はさもこの子がこの世に残された最後の灯であると言わんばかりに案じていた————



——————

「 …………ウゲッ、誰かと思えばアレはアヤツか。

 ……なぁ、少年? 」


—— あの少女の声が聞こえた気がした。

 暗い夜より尚も漆黒。星も雲の輪郭も無い。ランプなんてましてなく建物も大地すらも見えない世界。ただ、遠く、はるか遠く微かに穏やかに燃える赤い線がスーッと縦に上へと伸びている。その生糸の様な線を見ると穏やかな気配となる。ただそれだけしかない世界に僕は立っていた。


—— 空気が渦巻くのを見た気がした。

ふと、小さな影も見えた。

 影の方へ近づいていくと、小さな影の形状が見えてきた。それはスライムの様に液体が自身の意思で漸く形を留目ている様な不安定な物だった。決められた形などはなから無い様で、ぷるぷると無理やり半球体に体を留めている様だった。

 不思議な事に、遠近感が壊れた様に、先ほどはるか遠くに伸びていた赤い線はこのスライムの様な物に規則的に滴る様に落ちている。スライムの様な物は雨を貯める水瓶の様に一線に滴る赤い水を受け止めている。


—— このスライムは何なんだろう。

と、僕は確かめる様に手を伸ばす。

 後、髪の毛1本の隙間しか無かった所でスライムが振り返った。振り返るという言葉が正しいのかは解らない、どっちが前か後ろかも、そもそも前後という物があるのか疑問だけど、確かに振り返った様な気がした。 ————そして、スライムが笑った。

 僕は見た、あの魔人達と同じ様に自己中心的な傲慢な笑い。慄く手は引っ込める暇も無く笑うスライムに触れる。感触はあの日から感じる腹の奥で虫が蠢く感覚。と、同時にスライムが貯めていた赤い線の一滴が跳ねて僕の腕に触れた。


「ファーハッハッハッハ!! 」


ドロッとした無理やり感情を滾らせる感覚と共に、聞きたくも無いその笑い声。反響に反響を重ねながら響き渡る。

笑い声が包み込む少年の世界を——



——————

「——後は、少年がどうするか、であるな」

「そうで——」

「やめてよ!」


 少年の悲鳴と、水差しが割れる甲高い音。淡々とした空気だった元洞窟に響いた。

 カリフとサナウは少年を見る。そして少年が怯える様にしがみ付くクリフトへと視線を変える。

 息子が錯乱し水差しを払い除けた拍子にクリフトの顔には一線の切り傷。クリフトは息子を抱き抱えながら息子の怯えた姿にどうしたものかとサナウに縋る様な目を向ける。

 サナウはとりあえずと自身を包むマントを分け腰元に括った袋から器を取り出して水瓶から水を掬い、少年の口へ運ぶ。

 口元の器を見る少年、差し出すサナウの赤い目が緑色の前髪の隙間から少年の目と交わる。器を払い除ける少年、元洞窟に響き渡る悲しい音。

 少し寂しそうに笑ったサナウは改めて水を汲みクリフトへ渡した。畏まりながらクリフトは器を受け取って少年の口元へ充てがう。

 1口すする事に怯えが解けていく少年、すべて飲み終える頃には漸く治まった。


「……ごめんなさい」

「気にしないで。私も寝起きは機嫌が悪くなるわ」

「…………声が聞こえたんだ。魔王の笑い声が」


 父親の胸から聞こえる鼓動に身を委ねながらさっきみた悪夢をポツリポツリとまだ不安定な声で少年は大人達に話す。

サナウは少し節目がちながら、安らぎを与える穏やかな柔らかい声音で見解を述べる。


「聞いた事が無い事なので憶測となりますが、そのスライムというのは君の使っている力だと思いますわ、そして赤い線というのは水に残る魔王の残滓かと思います」

「……これを飲む度に、あいつの声が聞こえるの? 」

「だと思いますわ。けれど、最初に飲んだ時は聞こえなかったのでしょう?

 であれば起きている状態、しっかりと意識がある時は大丈夫だと思いますわ」

「 ……飲みたくない」


 少年自身も幼すぎると自覚出来るわがままな言葉を少年はつい漏らしてしまった。少女はそれを咎める事もなく、少年自体も理解している事を優しく、ただ諭す様に続ける。


「飲みたく無いのは分かります。

 けれど、今はきちんと飲まないと倒れてしまいます。

 そして、またあいつの声が聞こえてしまいますわ」


 少年は耳を赤くしながら頷いた。一生あの水を飲まなければいけない事実、ふとした時にあいつの声が聞こえるかもしれない不安に少年は俯く首を上げずに父の胸に留まっていた。

 サナウはあまりにも暗い雰囲気に一石を投じる様に、自身が憶測する一縷の望みともなる言葉を発した。


「もしもの話ですが、明星の魔王に会えれば飲まなくても済む様になれるかもしれませんわ」

「 ……どういう事? 」

「水を飲まないといけないのは、力が与えられているから。

 力が無くなれば飲む必要も無くなりますわ」


 少年は顔を上げた。彼女が何を言いたのか理解した。少女の魔王に会って、お願いをすればいいのだと、『渡した力を返したい』 、と。

与える事が出来るのなら逆も出来るだろう。父の胸へ身を委ねていた自身の上半身に力が入り微かに聞こえていた父の鼓動が聞こえなくなった。

 ただ、その体の力もすぐに抜けていく。


「……魔王にどうやって会えばいいの?

 旅なんてした事ないんです。そもそもどこに彼女をどうやって探したらいいのか解らないのです」


 一筋の見出された光明もかき消されていく。先ほどより一層塞ぎ込む少年に少女は優しく消えゆく光を後押しする様に言葉を添えた。


「これは提案ですけど、

 クーリン君。冒険者になりませんか?」

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