浄化

「 ……」


 父が去った後、少年はそこに居た。

 洞窟の空気は陽日に温められ蒸されて、だんだんと湿気を帯びて上昇と共に苔の臭いが増してゆく。むせ返りそうな程に濃厚な臭いにも気付かぬ程になれた少年はただ何をするでもなくそこに居た。

 先日開いた大穴から鮮やかな羽を持った小鳥のツガイが踊る様に洞窟へ降りてはピョンピョンと少年の周りを歩く。洞窟の装飾の一部としか少年を見ていないかの様に小鳥はひとしきり戯れて父が通った穴へ飛んで消えた。

 

「……母さん」


 小鳥を追った目が洞窟の入り口にある水たまりを視界に入れる。陽に照らされ、テラテラと赤く煌めくその水は不思議と2日も快晴が続いているのに一向に堆積を減らさない。そしてもっと不思議とその憎らしい水たまりを見ると喉の渇きを少年は覚えてしまう。

 森に隣接された洞窟だから水には困らず、実際に少年はやることもなしと頻繁に水差しから水を注いでは喉を潤してはいた。けど乾いてしまう焼ける様に、赤い水がさも少年が好きな母さんご自慢だった蜂蜜入りミルクの様に焦がれてしまう。

 いつの間にか赤いミルクを凝視していた少年の前で先ほどの小鳥が赤い波紋を作った。喉を鳴らし美味しそうに目を細め飲んでいる様な小鳥。ひとしきり飲み終えて飛び立つ。少年は小鳥からあの憎らしい笑い声を聞いた。

 目をしばたたかせて気持ち悪いその欲望を振り払い、少年は洞窟の奥にひかれた薄い寝床へ向かった。


 薄いシーツにくるまって眠くもない瞳を閉じる。夕方には父さんが来る事を期待して少年はまた夢の中へ………………


—— お腹が熱い。

 ふと、妙な違和感を覚えて目を開け ——っ、汗が目に入り顰める少年。

 拭って改めて目を開けてみると水桶がひっくり返った程の寝汗でドブネズミの様にグショグショに濡れていた。首をもたげると髪からポタポタと水滴が垂れる。

『居心地が悪かったのはこいつのせいなのかな? 』日は大きく動いていたがまだ夕方には程遠い。父さんが来るのはまだ当分先だろうと、また少年は目を閉じて寝る事を試みた。


 お腹が痛い。焼ける様にだ。寝汗で冷えたからでは無さそうだ。何かが蠢く様に腹の底が熱い。それはだんだんと力を増していく。目を閉じれば感じられていた痛みは、閉じぬとも感じる様になり、手で押さえれば我慢できる程度となり、最後に身を捩って意識を朦朧させる程に強くなっていた。

 少年は身悶え、呼吸も浅く、脂汗がビュービューとヘドロの様に垂れていく。腹の底で蠢く感覚はのたまう感覚へ変わり、四方八方へ暴発を繰り返す程に昇格していた。

 生まれて初めてと言える苦痛に少年は掠れて暗闇に落ちてゆく——

 父の声を聞いた。そして、反射的に動いた目の先、画質の荒い視界の中に父の影、その後ろに複数の影、その一つ、牢に囚われた魔王と曰う少女に似た影が優しく微笑んだ様な気がした———— 。



▲▲▲▲▲▲



—— お腹が暖かい。

 少年は微睡の中、翠雨の様にしとしと染み渡る温もりを感じていた。

 先刻の恐ろしい腹の底の蠢きも乾きも無くなり、そういえば粗末なシーツに包まっていたはずが妙に柔らかい心地を覚える。

 寝起きの朦朧とした脳が疑問を拍子にダンダンと冴えていく、苦しみの中の最後に見た—— 自身に力を授けた魔王の影…………


 跳ね起きる少年。言葉成らざる声。少年は頭を抑えもんどり打ち、粗末なシーツの上でのたまう、刹那、馴染みある抱擁に覆われて、さらに馴染みある声が少年の名前を呼んだ。

 抱きしめる父さんの胸は細かく上気している。少年は頭を抑える形だったものだから窮屈な体勢。

 ついもがいた少年に気がつき父親は腕を解いた。

 少年の目に父の大きな胸板の間から頭を抑える緑髪の少女、エメラルドの様に透き通った長い髪が少女の顔を隠し、髪に埋もれる様に青白く細くて長い指が額を覆っていた。頭が上がり腕と髪の間から少年が見た彼女の赤い瞳。

 どこまでも深く抉られそうな半眼に構えた赤い隻眼に少年の背筋は凍った。ついこの間、村を襲ったアイツ、洞窟の奥に潜んでいたアイツと同じ匂いがしたから—— 。

 少女はその冷たい少年の視線に、微笑みを返す。ただ、少しだけ寂しそうに穏やかさをはらんで———— 、


「ありがとうございます」


 頭上から響く声と共に少年に近づき通り過ぎていく父親の顔。先刻、少年の後ろへ回っていた手は地を付き、土下座じみた礼を少女へ向ける父さんを見て、少年はどうなっているのかも解らず一層の困惑を示す。


「クーリン、お前も礼をしなさい。悶えてたお前をサナウ様が助けてくれたのだ」


 頭上に砂の雨が舞う、父さんの五指が霰の様に少年の頭上を地へ臥させようと襲う。理解が出来ない少年が無意識の内の微かな抵抗を試みるが、それも虚しく、なし崩しに顔が地面へと近づいてゆく。

 その様が滑稽だったのか、サナウは可笑しさを含んだ笑いを浮かべクリフトを制する様に言葉を紡ぐ。

 少年は、その笑顔にドギマギと今まで感じた事の無い不思議な気持ちを覚えた、それはあの魔物達の嘲笑とは程遠く、暖かさを覚える感情だった。


「 私は私の為すべき事を成しただけで、そこまで畏まらなくてよろしいのですよ」

「……父さん、この子はなんなの? 」


 言葉足らずの少年の言葉に父親は重い一撃を返す。もんどり打つ少年。つい吹き出してしまったこの子、少年は頭を改めて抑えながら涙を浮かべた目で父親を見上げた。

 クリフトはそもそも説明をしていなかった事を思い出し、サナウの事、領主様の息子が助けに来ている事を少年へかいつまんで説明した。

 少年は説明の節々で少女の方を見やる。歳の頃は少年より2つ3つ上程度に見える。村の人々を治癒したり、あまつさえ自分を治癒したという話は眉唾だった。だが、エルドラドを倒した自分を思い出す。あの魔王のギラギラした目と乱杭歯を大きく広げて笑う顔を思い出しふと気が滅入る。

 そんな少年と父親を遠い昔を思い出す様なうすら暗く乾いた笑みで見守るサナウの顔は彼女の少女らしい造形からあまりにもかけ離れていた。


「——クーリン君かね?

 サナウ殿の治療も無事に終わったようでなにより」


 響くは厳格さを孕んだ男の声。洞窟の奥から現れた屈強な体を武装で身を包み威厳高々と近づいてくる男、そしてそれに従う同じく屈強な兵士1人に少年は背筋を伸ばした。

 戸惑う息子にクリフトは小声で『カリフ様とノーラン殿だ』と、助け舟を出す。


「カリフ様、助けてくれてありがとうでございます」

「畏まらずとも良い、君は勇者なのだから。

 ところで、少し質問させてくれんかね? 」


 カリフは鷹の様に鋭い目に穏やかな色を灯しながら、声に敬愛に似た温かみを乗せながら少年に問う。

 少年の頬にふと涙が垂れた。その雫に気づき戸惑う少年。一生この洞窟で暮らすものだと諦めていた、助けなど来ないと知らず知らずの内にやさぐれていた少年の心が『勇者』と呼ばれたその言葉を以ってして真に救われたのだと、少年自身は理解出来ずともその心だけが理解した証だった。

 心の浄化の証を見たカリフの目はより一入の穏やかさを産み、少年が合意した証だと話を進めた。


「奥のあの部屋について何か知らないかね?

 牢屋の様に見えるが、だれかが捉えられていたのかね?」


 カリフが示すのは、あの日突如にして現れた一角、大男の魔王が目指した先、少女の魔王が捉えられていた部屋。彼女が力を見せる為に、少年が彼女を解放し、彼女が瓦礫とさせたノルン村に悪夢を生んだ元凶。


「大男の魔王が『はざまの牢獄』と呼んでいましたです。

 あと、そこにはサルマドーレという魔王が捕まってましたです」


 『ハザマの牢獄』の単語にカリフは忌々しそうに眉を顰める。

 『サルマドーレ』という名詞にサナウはピクリを眉を動かした。


 2人の反応など気にも留めず、クーリンはあの日あった悪夢の様な出来事をすべて吐き出したい衝動に身を任せて、幼子の様に脈絡も朧な文章で、洞窟に逃げ込んだ事、少女が突如と牢屋と共に現れた事、喉に腕を突っ込まれた事、大男が大口開けて愉快そうに暴れていた事を関が切れた様に話し出した。

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