【10】5日目(水)
先に部屋を出ていった沙百合の姿をリビングで見つけることができなかった。
冷蔵庫から出したものを温めていると、前髪をヘアクリップで留めた彼女が洗面所から現れる。
顔色こそ優れないように見えるが、その表情は先ほどよりもよほど明るく感じられた。
テーブルに置かれた食料から各々に好きなものを選ぶ。
俺の予想した通り、彼女はハムとチーズのサンドイッチを手に取った。
「あの。もしかして昨夜って、かずきさんがお部屋まで運んでくれました?」
沙百合がサンドイッチを両手に持ったまま聞いてくる。
すっかり忘れていたが言われてみれば確かにそんなことがあった。
「ちゅん太に埋もれてたよ」
当時の状況を説明し肯定に代える。
「重くなかったですか?」
重かったよ、と答えたらどんな反応が返ってくるだろう。
若干興味はあったが、真に受けられてダイエットでも始められたら困ったことになる。
「軽かったよ。仔犬みたいに」
沙百合はきょとんとした顔でこちらを見るが、俺は気づかないふりをして粉末カップスープに湯を入れ彼女に渡す。
彼女はそれをスプーンでかき混ぜながら「こいぬ」と呟く。
「それとさっき、起き上がる時にパンツみえたよ」
スープに渦を作っていた手の動きがぴたっと止まる。
「うそだ」
断定的な口調とは裏腹に、その表情には自信のなさが見て取れた。
「水色」
俺は手短に証拠を提示した。
彼女はスプーンを握っていた手を素早く離すと、自分の襟元をぐいっと引っ張り中を覗き込み、そして見る見るうちに顔を紅く染める。
一足先に食事を終えた俺は何事もなかったかのように立ち上がると、
「仕事に戻るよ。洗い物よろしくね」
根本的には大きな問題が発生したままであった。
が、目の前に迫っていた懸念が払拭されたせいか、午後の仕事は捗りに捗った。
十五時を少し過ぎた頃には、既に翌日分のタスクまでもが半分近く処理されていた。
もっとも明日は別件で出社しなければいけなかったので、意図的に作業の効率を落とすことにした。
会社でやる分の仕事は残しておくためだ。
本日も十七時ピッタリに仕事を終えることが出来た。
パソコンの電源を落としデスクライトを消灯すと、帰宅に要する労を伴わずにアフターファイブが開始された。
ワークチェアから立ち上がり、真後ろにあるベッドに身体を捻りながら倒れ込む。
仰向けになって天井を見上げると疲れが押し寄せてきた。
それは言うまでもなく仕事疲れではなく、それ以外で発生したものだった。
カーテンが開け放たれたままの窓に目を向けると、まるで色見本のパネルのように一面が綺麗な瑠璃色に染まってる。
沙百合は何をしているのだろうか。
普段の彼女に戻ったように見えていたが、それは俺の前だったからだろう。
もしかしたら俺がいなくなった直後には、もう沈み込んでいたのかもしれない。
俺は彼女に何をしてあげればいいのだろうか。
俺は彼女に何をしてあげることが出来るだろうか。
俺は彼女に何をしてあげたいのだろうか――。
いつの間にか視界の全てが真っ黒に塗りつぶされていた。
もし太陽が爆発したのだとすれば、暗闇が訪れる前に目が潰れる程に光が溢れるだろうが、覚えている限りそんなことはなかった。
俺はまた、気づかないうちに眠ってしまっていたらしい。
室内の闇の濃さから察するに、それが五分や十分ではないことは明らかだった。
それはそうと……。
先ほどから首の後ろと膝の裏に、何か細い棒状の物が差し込まれているような感覚があった。
上腕には何か柔らかなものが当たっているし、顔も蜘蛛の巣を突っ切った時のようにこそばゆい。
ポケットからスマホを取り出し画面を点灯させる。
「うおっ!」
「……おはようございます」
スマホのホーム画面の明かりにボンヤリと浮かび上がった沙百合が、至近距離で俺の顔を覗き込んでいた。
「え? 何してんの?」
彼女は俺の質問を完全にスルーし、代わりに「よいしょ」とか「せーの」と掛け声をあげた。
どうやら俺の事を抱き上げようとしているらしい。
努力も虚しく俺の身体はシーツから一ミリメートルすらも離れていなかったのだが、そのあまりの必死さに免じてしばらくはされるがままにしていた。
彼女が満足するまで付き合った後、ベッドから起き上がって壁の時計に目をやる。
既に十九時を大きく回っていた。
ほとんど熟睡していたらしい。
「あ、かずきさん。ぱんつ見えてますよ」
「嘘だ」
おそらくはさっきのあれのお返しのつもりなのだろうが嘘はよくない。
「しまうま柄」
「全っ然違う。って、それよりごめん。お腹すいたよね」
彼女はこくりと首を縦に振る。
「ご飯、もうできてますよ」
廊下に出ると美味しそうな匂いが充満していた。
「座ってまっててください」
言われるままにダイニングの椅子に腰を下ろす。
テ-ブルの中央には大皿のサラダが置かれた。
しばらくすると目の前にカレーが運ばれてくる。
「手抜き料理ですいません」
手作りカレーなんて、手抜きどころかご馳走といってもいい。
「「いただきます」」
声を揃えてそう言うと、シャベルで土をすくうようにカレーを口に放り込む。
それは想像以上に甘口だったが、疲れに疲れ切っていた脳に活力を与えてくれるような気がして、流れ作業をするように二口三口と次々に口に運んだ。
「おいしいですか?」
昨夜と同じ顔と台詞で彼女は俺にそう尋ねる。
「沙百合ちゃんは将来カレー屋になるといい」
少し大袈裟に言いはしたが、沙百合謹製のカレーはそのくらい美味しかった。
彼女も自分で作ったカレーがお気に入りらしく、何度も「おいしい」と言いながらスプーンを動かしていた。
腹八分目を信条としていたのだが、昨日に引き続き腹いっぱい食べてしまったようだ。
今にも腹がパンクしそうになっていた俺は、行儀が悪いのは承知の上でリビングのソファーに横たわる。
「……沙百合ちゃん。動けそうにないから、悪いけど先にお風呂入って」
洗い物を終えた彼女がタオルで手を拭きながら、俺の顔の前まで近づいてくる。
「わかりました。お風呂でたら起こしますから、寝ててくれてですよ」
俺は彼女の言葉に甘え、そのまま目を閉じた。
「起きてください」
優しく身体を揺すられ目が覚める。
彼女の普段の入浴時間から考えれば、一時間以上は寝てしまったのだろう。
横になったまま思い切り背伸びをすると、彼女に促されるままに脱衣所に向かった。
「ひとりで入れますか?」
背後から聞こえた声に、振り向きもせずに答える。
「多分ね」
湯船に肩まで浸かりながら天井を仰ぐ。
彼女は無理に明るく振る舞っているように見えた。
未だにもって母娘の間でどういったやり取りがあったのかは知らぬままだったが、今朝の沙百合の激昂振りを考えれば余程のことがあったのは間違いない。
もし俺がその間に割って入るにしても、それにはまだもう少し時間が必要に思えた。
(いま俺が彼女にしてあげられること……)
(いま俺が彼女にしてあげたいこと……)
すぐに思いつくような選択肢はなかったが、先日ショッピングセンターに連れていってあげた時の喜びようを思い出し”多分これだ”という回答を導き出す。
「……よし」とわざと声に出すと、湯船から勢いよく立ち上がり風呂を出た。
「おかえりなさい」
案の定、沙百合はまだ起きていた。
テーブルの上にテキストのような物が置いてあるので勉強をしていたのだろう。
「沙百合ちゃん。俺、明日は朝から仕事で出掛けるけど、昼過ぎには帰ってくるから」
昼食は何か適当に買ってくるから一緒に食べようというと、彼女は小さく拍手までして喜んでくれた。
しかしその姿はやはり無理をしているように見える。
就寝の挨拶をするとリビングから互いの部屋に戻る。
開けたままだったカーテンを閉める前に部屋の空気を入れ替えようと思い一旦窓を全開にする。
夜空には沢山の星が瞬いているのが見えたが、俺にわかるのは月と金星と木星、あとは土星くらいのものだった。
今日はニ回も昼寝をしてしまったのでなかなか寝れないのではないかと心配していたのだが、それは全くの杞憂であった。
布団に潜り込んで明かりを消した途端に眠気が襲ってくる。
こうして激動の一日はようやく幕を閉じた。
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