【9】5日目(水)
いつもより三十分早くセットしてあったスマホのアラームの音で目が覚める。
カーテンの隙間から漏れる朝日の色と強さで、ベッドから出ることすらなく天候が回復したことがわかった。
週の真ん中の水曜日に天気が良いというだけで、少し得をしたような気分になるのは俺だけだろうか。
洗顔と歯磨きだけ済ませ、リビングの中央に安置されているちゅん太を迂回して家を出る。
行き先はマンションの目と鼻の先にあるコンビニなので、車を出す必要もない。
昨日と一昨日の朝食はトーストだったので、今朝は少し違ったものにしようと考えてのことだった。
平日の朝ということもあり、コンビニの店内は出勤前の客で大いに賑わっていた。
部屋着にコートを羽織っただけの俺は、この
商品がビッシリと詰まったオープンケースを前にして、何を買えばいいのか思案する。
沙百合がうちに来た日の夜はサンドイッチを美味しそうに食べていたので、とりあえずそれは買うとして。
他にも弁当とアイスクリーム、それに久しく買っていなかった店頭調理の唐揚げも購入する。
朝のコンビニでカゴいっぱいの商品を買うという経験は人生初だった。
部屋のある五階に到着してエレベーターのドアが開いたと同時に、地上よりも冷たい空気が入り込んでくる。
流石に息が白くなる程ではなかったが、今が十月だということを踏まえて考えれば今年は本当に異常なのかもしれない。
この辺りは全国的に見ても冬季の気候は温暖で、雪も数年に一度降るか降らないかといった地域なのだが、今冬に限っては少しくらいは覚悟しておいたほうがよさそうだ。
玄関のドアを開けるとリビングから沙百合の声が聞こえた。
それは普段の彼女のものとは異なり、その相手が誰なのかの察しはすぐについた。
脱いだ靴も揃えずにリビングへと駆け込むと、スマホを耳に当てた彼女がこちらににちらりと目を向ける。
「かずきさん帰ってきたから、代わるから」
恐る恐る渡されたスマホに耳をつける。
しかしスピーカーからは、プープーとビジートーンが繰り返し聞こえるばかりだった。
「……切れたみたい」
そう言って彼女にスマホを返すと、受け取った途端に壁に投げつけようとする。
咄嗟に腕を伸ばしたが、ほんの僅かに間に合わない。
彼女が投げたそれは部屋の中央で待ち構えていたちゅん太の腹にメコリとめり込むと、次の瞬間にはゴトリと音を立てて床の上に落ちた。
彼女は
先ほどよりも沙百合との間合いが詰まっていたこともあり、今度は何とか彼女の両手首を掴むことに成功した。
彼女はその小さな身体からは信じられないような力で逃れようとした。
だが男の腕力には敵うはずはなく、しばらくすると腕の力を抜きか弱く「いたい」と呟く。
「あ。……ごめん」
掴んでいた手を離すと彼女は何も言わずに背を向け、小走りで自室に消えていってしまった。
たった今、沙百合と絵梨花との間でどんなやり取りがあったのかは知らないが、今はそっとしておいた方がいいだろう。
コンビニで買ってきた物を冷蔵庫にしまい込み力なくリビングに戻ると、窓から差し込む朝日を受けたちゅん太がつぶらな瞳でこちらを見ていた。
「ちゅん太、ナイスプレイ」
先ほどのホームラン級のファインプレイを褒めつつその巨躯にもたれ掛かると、身体の半分くらいがちゅん太の中にめり込んでしまい、このまま体内に取り込まれてしまわないか少しだけ心配になった。
その時、ふと手に何かが触れた。
それは存在していたことにすら気づかないほど極小なちゅん太の足だった。
そこに縫い付けられたタグに書かれている文字に目を通す。
『
(え? シリーズ? こんなのが他にもあんの? てか、ちゅん太……お前)
ちゅん太ではなくて、ホオジロ太だったのか。
何かあった時にすぐに気づく事が出来るように、部屋のドアは開けたままにすることにした。
作業には全く身が入らなかったのだが、幸いにも昨夜の自主的な作業のおかげで今日のノルマ分は昼前にほとんど上がっていた。
昼食どころか朝食もまだだったが、一人で食べる気にもならないのでコーヒーで空腹を誤魔化す。
残り僅かだった仕事も片付け、いい加減沙百合の部屋を訪ねてみようとした、その時だった。
隣の部屋のドアが開く音が聞こえたと思うと、視界の隅のドアの向こうを通り過ぎる彼女の姿が見えた。
またすぐにドアを開ける音が聞こえ、トイレに行ったのだとわかった。
程なくして、ドアの開閉音に続き小さな足音が廊下の向こうから近づいてくる。
俺は咄嗟に――なぜそうしたのかはわからないが――パソコンに向き直すと、今し方上がったばかりのファイルを開き、更にキーボードの上に手を乗せた。
足音は奥の部屋には向かわずに手前にある俺の部屋に入ってくると、やや遅れて背後から軽いものがベッドに乗る『ぽふ』という音が聞こえた。
ワークチェアを回転させて後ろを向く。
果たしてそこにいた彼女は、膝丈のもこもことした部屋着でベッドの上に座り、視線の先は自身の爪先にあるようだった。
しばらくの沈黙のあと彼女は静かに口を開いた。
「お母さんから電話があって、ケンカになって」
やはり、と言うべきですらないだろう。
あの電話のやり取りから察するに、絵梨花以外が相手であろうはずがなかった。
少しの間を置いて彼女は続けた。
「おまえは何も知らないくせにって」
きつく握られ膝の上に置かれた小さな手の甲に、大きな涙の粒が落ちる。
「何も教えてくれなかったの……お母さんなのに」
それだけ言うと、下ろしていた足をベッドの上に上げ、両腿を両腕で抱え込むと膝に額をつける。
彼女の話では絵梨花との間にどんなやり取りがあったかは部分的にしかわからなかったが、間違いないのはいま彼女は深く傷ついているという事であり、俺にとって一番重要なのもそこだった。
俺はワークチェアから立ち上がると沙百合の隣に移動して腰を下ろす。
二人分の荷重が掛かったベッドフレームから僅かに軋み音が聞こえた。
考えなしにした事だったので次手を考案していると、丸まったままの彼女がすっと手のひらをこちらに差し出す。
その上にそっと手を置くと、びっくりするくらい強い力で握られる。
少しだけ力を込めて握り返すと、今度はこちらに身体ごともたれ掛かってきた。
重みはほとんど感じられなかったが、互いの身体と触れている部分から彼女の悲しみが伝わってくる。
五分くらいそうしていただろうか。
俺から離れた彼女はベッドの上に仰向けに倒れ込む。
天井を見上げるその横顔には、幾筋もの涙の跡があった。
絵梨花との間に何が起きたのかを聞くのは今晩以降にしよう。
何なら彼女が自分から話してくれるまで待ってもいい。
今は兎に角、彼女を元気付けたかった。
更に数分後。
彼女は体操選手さながらに「えいっ」と声を出すと、高く振り上げた両足を振り下ろし立ち上がった。
「おなか、減りました」
俺の方を振り返って腹を押さえるジェスチャーをする。
「朝ご飯にしようか」
時計の針は既に十三時を回っていた。
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