【8】4日目(火)
三時間以上はパソコンと向かい合っていただろうか。
トイレに立ったついでに沙百合の様子を伺う。
夕食までにはまだいくらか時間があるはずだが、彼女は既にキッチンに立っていた。
リビングには玉ねぎの焦げるいい匂いが漂っており腹が減ってくる。
ダイニングテーブルの上には戦場さながらに物が置かれていたが、散らかっているというよりは作業効率を考えた配置で並べられているように見えた。
「……やるな」
彼女の邪魔をしないようそっとその場を離れると、夕食の時間までに仕事を終わらせるため、気合を入れ直して再びパソコンと向き合った。
世の企業の多くが終業時刻となる十七時を一時間ばかり過ぎた頃になり、俺の仕事もようやく終了と相成った。
パソコンの電源を落とすと同時に、椅子に座ったまま思いきり背伸びをする。
全身の関節から出たボキボキという乾いた音が部屋の中に響き渡る。
そう言えば今日はまだ絵梨花に電話を掛けていなかった。
心のどこかで、彼女はもう電話には出てくれないだろうと、そう決めつけていたのかもしれない。
実際のところ、もし彼女に連絡を取る気があるのであればとっくに折返し電話を掛けてきてるだろう。
それでも、例えそれが儀式的なものであったとしても夕食のあとに一度掛けてみようと思う。
理由はどうあれ、俺は絵梨花が一番大切にしている
夕食は肉じゃがと味噌汁だった。
「普通のものでごめんなさい」
そう言いつつも彼女の顔はどこか得意げであった。
きっと自信があるのだろう。
「いただきます」
肉じゃがの皿に箸を伸ばす俺の事を、向かいに座る彼女がじっと見ている。
……食べにくい。
一旦箸を止め、負けじと彼女を見返す。
目を逸らしてくれる事を期待してそうしたのだが、彼女の大きな瞳は瞬きもせずに俺を見据え続けた。
「食べてくれないんですか?」
「……いただきます」
負けを認めて視線を肉じゃがに戻すと、気恥ずかしさを悟られぬよう何事もなかった風にそれを口に運んだ。
「どうですか?」
美味い。
「美味い」
心の中で一回、口に出して一回、合計二回褒める。
そのくらい彼女の作った肉じゃがは美味しかった。
「ほんとに?」
「本当に、お世辞じゃなくて。これなら毎日食べても飽きないと思う」
それを聞くと満足したのか、彼女も自分の作った肉じゃがに箸をつける。
「ほんとだ。おいしいです」
彼女は箸を動かしながら肉じゃが作りの秘訣を俺に伝授してくれた。
じゃがいもは蒸してから皮を剥くだとか、味付けのタイミングはこうだとか、それは兎に角仔細であり企業秘密などあったものではなかった。
そして、最後に「お母さんの直伝なんです。でも、ちょっとだけアレンジを加えてますけど」とも言った。
確かに俺は、この肉じゃがの味を以前から知っている。
「沙百合ちゃん、お母さんには内緒にしてね」
「はい? なにがお母さんにナイショなんですか?」
「絵梨花が作ってくれたのも美味しかったけど、俺、こっちの味付けのほうが好みかも」
箸を持っていない左手の親指を立てる。
「それは……はい。お母さんには言わないようにします」
夕食が済むとすぐに彼女が風呂に入りたいというので湯を張る。
まだ十七時を少し回ったばかりだったのでいつもよりも一時間ばかり早かったのだが、何やら髪に肉じゃがの匂いがついたのが気になるのだそうだ。
俺が「それだったらいい匂いなんだから気にしなくてもいいのに」と言うと「たまねぎの匂い、付いてませんか?」と言って、頭を俺の方へと向けてくる。
恐らくは嗅いでみてくれ、ということなのだろう。
一瞬躊躇したが、彼女の髪に顔をそっと押しあてると静かに息を吸い込んだ。
「どうですか?」
肉じゃがを食べた時と同じように感想を求められる。
「……沙百合ちゃん、美味しそう」
俺がそう言うと、彼女は「もう!」と言って脱衣所に駆け込んでいってしまった。
本当の事を言えば彼女の髪からは肉じゃがの匂いなどはしておらず、シャンプーとコンディショナーのいい匂いがしていただけだった。
彼女が風呂に入っている間に洗い物を片付けてしまおうとキッチンへと向かった。
人工大理石のカウンターやシンクには野菜くずのひとつも落ちておらず、彼女は本当の意味で料理が得意なのだと納得し、そして感心もさせられた。
簡単に下洗いをした食器を食洗機の中に並べてスイッチを入れると、あっという間に片付けが終わってしまう。
リビングのソファーに寝転がり、彼女が風呂から出てきたら帰り際にコンビニで買ったロールケーキを一緒に食べようと、そんなようなことを考えながら目を閉じる。
脱衣所から微かに聞こえてくるユニットバスの床を叩くシャワーの音は、高速道路を走行する車のタイヤノイズのようで、とても心地よ――。
「……い?」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
気がついた時には時計の長針が一周近く進んでいた。
彼女はまだ風呂だろうか。
飲み物を取りに行こうとソファーから起き上がった、その時だった。
ふいにチャイムの音がリビングに鳴り響く。
こんな時間に俺を訪ねてくる人がいるとすれば、それはほぼ間違いなく――。
宅配便の配達員に受け取った荷物を開封するのに五分程掛かってしまった上に、足元に同心円状に散らばった梱包材の量が尋常ではない。
とりあえず床をなんとかしなければと、ゴミ袋をとりにダイニングに向かったところで脱衣所から出てきた沙百合と鉢合わせる。
彼女はリビングのど真ん中に置かれた超巨大なそれにすぐに気がついたようだった。
「……あ」
彼女は小さく息を吐くと、ゆっくりと首を廻して俺の方を見る。
「うん」
さっき彼女がしたのを真似て少しだけ得意げな顔をしてみせた。
次の瞬間、彼女が胸に飛び込んでくる。
その予想外の行動にどうすれば良いのかわからずに、両手をバンザイしたまま固まってしまった。
そのまま一分ほどしても彼女が離れるような気配がなかったので、そっと肩に手を置いて優しく引き離す。
顔を上げた彼女は、泣いているような笑っているような不思議な表情をしていた。
「……とりあえず頭、乾かしといで」
髪を乾かしてリビングに戻ってきた彼女と肩を並べてソファーに座り、目の前に鎮座する巨大な球体を眺める。
「ちゅん太」
早速名前をつけたらしい。
巨大な段ボール箱にものすごく圧縮されて入っていたため、まだ本調子ではないはずのちゅん太だったが、それでこの存在感は半端ではない。
広々としたショッピングセンターで見た時も巨大だったが、マンションのリビングで見るそれはちょっとした軽自動車くらいに感じられ、実際に十四帖のリビングの三割ほどを専有していた。
一昨日ショッピングセンターで彼女と別行動になった後、すぐに雑貨店に戻ると店員にぬいぐるみの購入を申し出た。
あれを地上に下ろすのには、いったい何人くらいの人手が必要だろうか。
もし今で良ければ俺も手を貸す覚悟は決めていた。
しかし、それは杞憂に終わったのだった。
なぜかといえば、あのスズメのぬいぐるみは倉庫に在庫があると言うのだ。
しかも色違いも含めて、三体も。
『……これってよく出るんですか?』
興味本位から聞くと、月にニ体くらいは売れているとのことだった。
現代日本に於いては人々の嗜好が細分化されて久しかったが、まさかこんな巨大なぬいぐるみにそんなにも多くの需要がある事を知り、俺は自身の見識の狭さに絶望感を覚えた。
宅配の手配をしてもらっている時に、これは宅配便だと何サイズになるのだろうだとか、マンションのエレベーターに乗るのだろうかとか、とにかく次々と疑問が湧いてきたが、こんな大それた物のユーザーになる人間がそんな些細なことを気にしても仕方がないと思い、俺は考えることを完全にやめた。
ちゅん太が家族の一員に加わり僅か三十分後。
沙百合はすっかり彼に身も心も預けると一緒になってテレビのバラエティ番組を観ていた。
(同じ画角にいると沙百合ちゃん十人分くらいはありそうだな)
と、いつまでもちゅん太をこすっている場合ではなかった。
「ちょっと絵梨花に電話掛けてみるね」
数秒後、呼び出し音すら鳴らずに機械音声のアナウンスが聞こえてきた。
『お掛けになった電話は、電波の届かない場所にあるか、または電源が入っていないため、お呼び出しできません』
何も言わずにスマホをテーブルの上に置く。
彼女も何も聞いてはこなかった。
「ロールケーキ食べる人は挙手」
わざと
少し価格の張ったそれはお値段以上の味がした……気がする。
満足げな表情でちゅん太の元に戻る沙百合を見届けてから風呂に向かうことにした。
風呂から戻ると沙百合は尚、ちゅん太のお腹にもたれた姿勢でスマホを弄っていた。
テレビの右下に表示されている時計を見ると、二十二時になるところだった。
いつも寝る時間まではまだ一時間ほどあったので、部屋に戻って明日の仕事の準備をすることにする。
今の勤務形態だとある程度なら翌日の仕事を前倒しでやることも出来てしまうので、時間がある時はそうすることが多い。
日中に動ける時間を作っておけば何かがあった時に融通も利く。
「沙百合ちゃん、俺ちょっと部屋で仕事してるから。眠くなったら先に寝てて」
彼女にそう言い残し、冷蔵庫からボトルコーヒーを取り出して部屋に向かう。
今やっている資料の作制は顧客に向けたそれではなく、社内向けのものだったので丁寧さはあまり問われない。
その代わり沢山の表や数字を扱わないといけないので、つまらない割に頭を使わなければいけない。
サブモニターに必要な情報を表示し、手元の紙の資料と統合させつつメインモニターにまとめていく。
以降、その繰り返し。
一時間という時間の割には、それなり以上の成果が出たように思う。
うっかり次の作業に手を付けてしまうと、また同じくらいの時間パソコンに向き合うことになってしまうだろう。
そうならないよう、今日はこの辺りにしてパソコンの電源を落とした。
トイレに行ってから寝ようとリビングに戻ると、沙百合はまだちゅん太に埋もれてそこにいた。
傍らには彼女のスマホが落ちている。
背中を向けた格好なので顔は見えないのだが、恐らくは寝ているのだろう。
「沙百合ちゃん」
耳元で呼びかけるが起きる気配はない。
俺は小さくため息を吐くと、一旦彼女の部屋に行きベッドの上の掛布団を捲ってからリビングに戻ってくる。
起こさないようにそっと抱き上げる。
「……っと」
彼女は想像していた以上に軽く、うっかり天井まで放り投げてしまうところだった。
すぐ眼前にある顔は起きている時よりも更に幼く、なんならまるで女児のようにすら見える。
頭を壁やドア枠にぶつけないように注意して廊下を運び、抱き上げた時よりも慎重にベッドの上へと下ろす。
ちゅん太も運んでこようか悩んだが、十四帖であれだけの空間を専有しているものを六帖のこの部屋に置くのは無謀だと思いやめた。
それ以前の問題として、圧縮が解かれた彼はこの家のドアを通り抜けることが出来そうにない。
肩まで布団を掛け、電気を消して部屋を後にする。
「おやすみ沙百合ちゃん。また明日」
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