【7】4日目(火)

「本当にごめんなさい」


 そう言った彼女の表情が、いつも通りだったせいもあるだろう。

 いったい何がごめんなさいなのか全く以て理解することが出来ずに、これ以上ない間抜けな返事をしてしまう。

「冷蔵庫のプリンのこと? だったらもう怒ってないよ」

 少しだけ間を置いて、彼女の薄く形の良い唇が再び開く。


「ごめんなさい。別れましょう」


 意味がわからない。

 俺達は今まで上手くやってきていた。

 先週だって一緒に行った雑貨店で、お揃いのキーホルダーを買ったばかりだ。

 もちろんたまにはケンカをすることもあったが、五年も付き合っていればそういうことだってあるだろう。

 彼女は何も言えずにただ立ち尽くすだけの俺の返事を待つことなく、さよならさえ言わずにその場を去ろうとする。

「あ……待って! 絵梨花!」



 ――。

 生々しい絶望感と共に目が覚める。

 それは以前から何度も何度も見ていた夢であり、実際過去に起きた現実でもあった。

 仰向けのまま手探りで探し当てたスマホで時間を確認する。

 まだ六時を少し回ったばかりだった。

 アラームは七時にセットしてあったが、かといって二度寝をする気にもなれない。

 冬眠明けのクマのように怠惰な動作でベッドから起き上がるとカーテンを開けた。

 空から無数に降り注ぐ銀色の粒が、マンションの窓ガラスを強かに打ち付けている。

 そう言えば昨日寝る前にみた天気予報で、今日は全国的に天気が荒れるようなことを言っていたのを思い出す。

 寝間着のままリビングへと向かうと、いつものように電気ポットのスイッチを入れ、湯が沸く間に身支度を整える。

 昨日と同じてつを踏まぬよう、脱衣所に人気配がないことを確認してから扉を開け、先ほどの悪夢を洗い流すようにゆっくりと顔を洗った。


 窓ガラスを時折強く打ち付ける雨粒の音を聞きながら、リビングのソファーでコーヒーを飲み時間を潰す。

 そういえば今年は秋雨前線の活動が怠慢だそうで、季節外れの渇水が問題となっていたのだった。

 今日のこの雨で、少しは大地が潤ってくれるといいのだが。



 一時間ものんびり過ごしてから、そろそろ朝飯の準備をしようとソファーから立ち上がる。

 と、丁度同じタイミングで脱衣所から洗濯機のブザーの音が聞こえてきた。

 乾燥が終わったばかりの洗濯物は温かくて心地が良く、俺は家事の中では洗濯物を畳むのが一番好きだった。

 真四角に成形された衣類やタオルの山がどんどん標高を上げていく様は、ものを作るというわけではない今の仕事では得られにくい、わかりやすい達成感を与えてくれる。

 洗濯物の山から無造作に衣類と取り出し一枚二枚と畳んでいくと、山の奥から見慣れぬ色と形のものが姿を現した。

 昨日の朝も全く同じような経験をしていた俺は、それが何なのかにすぐに気づくことが出来た。

 彼女の――容姿や言動から推定した――年齢には不似合いな紐パ……それは、恐らく一昨日に行ったショッピングセンターで購入したものだろう。

 俺は既に畳み終わっていた洗濯物とそれを再び洗濯機の中へ押し込むとドアを閉めた。

 今日から洗濯物を畳むのは彼女の仕事ということにしよう。


 朝飯の準備を終え、そろそろ沙百合を起こそうかと思っていた矢先に、廊下の奥から扉の開く音が聞こえた。

「……おはようございます」

 彼女は少し寝癖のついた髪の毛を気にしながら、小さくぺこりと頭を下げる。

「ご飯出来てるよ」

「……いただきます」

 彼女に合わせてゆっくり箸を動かしながら、先ほどの洗濯物の件をお願いする。

「……わかりました」


 部屋に戻るとすぐに仕事モードに頭を切り替える。

 パソコンを起ち上げつつデスクの上に資料を広げると、まずは本日中に片付けなければいけない作業をリストアップした。

 とはいえ、やることといえば昨日会社でしていた事とほとんど同じなのだが、うちの場合は成果物さえ上げてしまえばある程度自由に時間が使える。

 一昨年の前社長の引退に伴い、彼の娘婿だった現社長が会社を引き継いだ。

 彼は社長職に就く以前は同じ部署で苦楽を共にした上司でもあり、仕事の上でもバランス感覚に優れた人物だった。

『生き生きとした働きやすい職場』などといったスローガンを掲げなくとも”各々が互いを尊重すれば、自ずと理想的な職場環境が形成される”という信条の持ち主で、実際のところ彼が社長になってからは現場の士気は以前よりも高くなったように思う。

 俺に言わせれば、それがもはやスローガンのようなものではないかとも思ったが、朝礼で声を揃えて読み上げさせられたり、壁に張り出されたりしないのは有り難かった。

 テレワークを中心とした勤務形態への移行も新社長の発案だった。

 古い社員を中心に少なからず反対する声もあったが、今の所は成功しているといって良い結果が出ている。

 以前は主に足を使って行っていた新規開拓も、今ではネットがその主戦場となっている。

 こちらは逆に前社長時代の功績によるもので、客が客を呼ぶ良い流れは、ひとえに前社長の人柄と人脈の賜であると言えた。


 閑話休題。

 午前中は沙百合も勉強をすると言っていた。

 過去の授業のいくつかは学校のサイトで動画配信されているそうだ。

 俺たちは別々の部屋で各々画面に向かって目的を遂行している。

 これが新時代の幕開けかとも思ったが、そこには少なからず寂しさもあるような気がした。

 アナログとデジタルの狭間の世代の俺にとって自分の部屋だけで完結してしまうそれは、社会性のある生き物としてはむしろ退化をしているようにすら思えてならない。



 集中して作業をしているうちに、時計の針はいつの間にか昼を少し回ってしまっていた。

 先ほどからドアの向こうのリビングで人の動く気配がしていた。

 彼女の勉強しごとはもう終わったのだろうか。

 自分のそれが一段落ついたところで部屋を出ることにした。


 沙百合は使い捨てシート式のモップで床を掃除してくれていた。

「あ、ごめんなさい。うるさかったですか?」

 物音が気になって出てきたのは間違いなかったが、別に五月蝿かったわけではない。

 そろそろ昼飯にしようと思ったのと、彼女の動向が気になっていたからだ。

 キッチンに行き冷蔵庫の中を覗く。

 あれほどあった食料はいつの間にか底をつき、あとは冷凍食品くらいしか残っていない。

 ここのところ毎日コンビニやスーパーで買った弁当や惣菜ばかり食べていたので、今日はもう少し人間らしい食生活を送りたかった。

「ご飯、食べ行こっか。ついでに買い物も」

 沙百合は嬉しそうな顔をすると「支度してきます」と言って部屋に戻って行く。

 チャットツールのステータスを退席に変更すし、財布とスマホと小さな猫のキーホルダーの付いた車のキーをポケットに突っ込む。

 たったそれだけで出掛ける準備が整ってしまった。

 リビングで沙百合と合流してから玄関を出ると、朝から降り続けていた雨は幸いにも雨脚を弱めてくれていた。


 十分ほど車を走らせ、目的地と決めていた店舗の駐車場で車に車を停める。

 ここはローカル展開しかしていないハンバーグ専門店なのだが、近年ネットで紹介されたことで県外からも来訪者があるそうだ。

 平日の昼間だったこともありほとんど待つこともなく席に通される。

 定番メニューのハンバーグを二つと飲み物を注文して彼女の方に目を向ける。

 家を出る時にも増してニコニコ顔で、テーブルの上に上半身を乗り出さんばかりの勢いでこちらを覗き込みながら「ここ、すごく来たかったんです!」と、ただでさえ大きな瞳を爛々と輝かせていた。

 実のところ、俺も彼女そう言ってもらえる事を期待してここに連れてきたのだ。


 熱せられたプレートに載せられ運ばれてきたハンバーグは目の前で半分に切られると、さらにその場で断面を灼かれてジュージューと音を立てている。

 時折跳ねる油に怯える彼女が見ていて可笑しかった。

 十数年振りに食べるそれは、記憶の中にあったままに非常に美味しく、そして懐かしい味がした。

 向かいの席では沙百合がスマホでハンバーグの写真を撮っていた。

 角度を変えながら数回シャッターを切り満足をしたようで、満を持してといった風にシルバーを手にすると「いただきます」と言いながらナイフで肉を切り分け、恐る恐るといった感じでハンバーグを口に運んだ。

 その瞬間、彼女の長いまつ毛が細かく震え、ゆっくりと顔を上げると目で何かを訴えてくる。

「どう? おいしい?」

 その表情からして答えは一目瞭然ではあったのだが、彼女の口からそれを聞きたかった。

「すごく……おいしいです」

 その昔、当時付き合っていた彼女をここに初めて連れてきた時も、今とまったく同じようなやり取りをしたことを思い出す。

 もっともその時、絵梨花の口から出た感想は「すごくジューシー」だったとも記憶していた。


 食事を終えてハンバーグ店から出ると、雨は先ほどよりも更に小降りになっていた。

「ここの近くにスーパーがあるから、ついでに買い物も済ませて帰ろうか」

 家から距離があるので滅多に来ない店だが、品揃えは近所のスーパーよりは遥かにいい。

「今晩のご飯、わたしが作ってもいいですか?」

「え? あ、うん。じゃあお願いしてもいい?」

「はい!」

 お世辞にも料理のスキルが高いとは言えない俺にとって、彼女の申し出はまさに渡りに船だった。


 楽しそうに食材を品定めをする後ろ姿を眺めながら、ショッピングカートに半分体重を預けて追従する。

 母親と二人暮らしだったからだろうか。

 彼女の品物の選び方はとても熟れていた。

 日持ちするものや汎用性の高いもの、冷凍保存が利くものは量が多くともお得な値段のものを選び、そうでないものは必要な分量だけをカゴの中に放り込んでいく。

 調味料は一通り揃っている事を伝えたが、醤油だけはこだわりがあるらしく、見たことも聞いたこともないメーカーの物を選んでいた。

 見る見るうちにカートの上に商品の山が築かれ、最終的にはカゴふたつ分もの食料を購入して帰宅の途に就くことになった。

 沙百合は帰りの車内でハンバーグの感想を事細かく話した。

 娘ほども年の離れた女の子との共通の話題は多くないが、俺も最近食べて美味しかったコンビニスイーツの話をすると、彼女はとても楽しそうに聞いてくれた。


 マンションの駐車場に戻った頃には止み掛けていた雨が再び強くなってくる。

 両手に荷物を持つ俺に、沙百合が傘を差し掛けてくれる。

 もしマンションの住人が今の俺たちを見たらどのように映るのだろうか?

 仲の良い親子にでも見えるのだろうか。

 それとも、年の離れた兄妹に――というのは流石に無理がある。

 夫婦に――これはもっと無理がある。

 では、恋人同士ならどうだろう?

「……今のは我ながらキモいな」

「かずきさん、どうかしました?」

「いや。なんでもない」


 そんなどうでもいい事を考えながら部屋に戻ると、リビングのソファーに腰を下ろして買ってきた物を冷蔵庫やパントリーへと仕舞い込む沙百合の後ろ姿をぼーっと眺めていた。

 今し方の買い物の手法といい、いま目の前で行われている仕分けといい、俺が今朝まで持っていた彼女に対する印象に変化が起こる。

 俺はそろそろ仕事に戻らないといけないのだが、あとの事は総じて彼女にお願いしても大丈夫だろう。

「てわけだから、あとのことはよろしく。俺は仕事に戻ります」

「あ、はい。いってらっしゃい」


 留守中に回されてきていたいくつかの案件を処理しながら、もともと抱えていたタスクも同時にこなしていく。

 今日は終業の時間までずっとこの繰り返しになるだろう。

 窓ガラスを叩く雨音は強くなる一方だったが、単調な作業にはそれが心地よく聞こえ、いつもより仕事が捗るような気すらした。

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