【6】3日目(月)

 扉が開くと同時にホームに飛び出すと、線路の上に掛かる高架式の渡り廊下の階段を高校生さながらに一段飛ばしで上り下りする。

 改札を抜けてすぐのところにある駅前広場にまでたどり着き、ようやく足を止めることができた。


 駅の雑踏から少し離れた場所にあるモニュメントの前に彼女はいた。

 身に付けている格子縞のプリーツスカートは昨日買ったものだろうか。

 膝上丈のそれは少し寒そうにも思えるが、彼女にとても良く似合っていた。

「ごめん、おまたせ」

 肩で息をしながらした俺の『おまたせ』に、沙百合は「走ってきてくれたんですか?」と元より大きな目をさらに丸くする。

「いや……待たせたら悪いと思って」

 我ながら滑稽な事をしまったと思ったが、無事に彼女と合流出来た以上そんなことはどうでもよかった。

 俺の顔を見上げるその表情からは、彼女がいま何を考えているのかを推し量ることは出来ない。

「おかえりなさい」

 彼女が小さな手をこちらに差し出してくる。

 俺は少し躊躇った後、そのかわいらしい手の上にそっと自分の手を置いた。

「行こうか」

 客待ちのタクシーが一台だけポツンと止まっているロータリーを、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩き出す。


 賑わいを見せる大通りを避け、ほとんど人通りのない堤防を歩く。

 昨日までのように風こそ吹いてはいなかったが、川沿いの空気は冬のそれと大差がないような冷気を帯びており、それが余計に繋いだ手の温かさを強く意識させる。

 沙百合の手はもみじのように薄く小さく、何だか子供の手を引いて歩いているような気分になってくる。

 実際、俺と彼女の年齢差はほぼ親子のそれだった。


 しばらく歩いていると、少し向こうに最終目的地のマンションが見えてくる。

 マンションの裏手には幅三十メートルほどの川が流れており、そこはちょうど隣の市との境界にもなっていた。

 河川敷にはちょっとした公園も整備されており、暖かい季節であればこの時間であってもジョギングをする人や犬の散歩をする人の姿がまばらにあるのだが、流石に今の季節だと人っ子一人いなかった。

「あっ、そうだ」

 急に思いついたせいで思わず大きな声を出してしまう。

 沙百合が”はてなマーク”を出して俺の顔を見上げてくる。

「そこの公園にちょっとした迷路があるんだ。木の壁で作られたヤツなんだけど」

「迷路?」

「そう、迷路。ちょっとやってみない?」

 ちょっとした、とは言っても遊園地などにあればお金をとっても文句が出ないくらいには立派なもので、休みの日などにはそれを目当てに隣の市からも親子連れがやってきていた。

 なんでも市内の大企業から寄贈されたものらしいのだが、下手な大型遊具よりも大勢の子供が同時に楽しむことが出来る迷路それをチョイスしたセンスは、なかなかのやり手といってもいいのではないだろうか。

 入口は三箇所で、ゴールは一箇所だけ。

 迷路内に照明はないが、沙百合には懐中電灯をもたせ自分はスマホのライトを使えば大丈夫だろう。


「それじゃ俺はこっちの入口からはいるから」

 別に彼女よりも早くゴールしようという魂胆はなかったのだが、俺は自然と小走りになっていた。

 それは無意識に身体が疲れを求めていたのかもしれない。

 初めのうちは、木製のフェンスの間から沙百合の持っている懐中電灯の光がチラチラと見え隠れしていたが、少し進むと互いのルートは次第に離れ出し、そのうちにその気配すらも感じられなくなっていた。

 それでもたまに遠くから「かずきさーん」と俺を呼ぶ声が聞こえ、俺も「おーい」と返事をした。

 今日が平日だった事と、先日から急に冬めいた気候になった事が幸いして、公園には俺と沙百合しかいない。

 だから大きな声を出すことも出来たし、そもそも人がいたら迷路に入ることだってしなかっただろう。


 五分ほどして大した労もなくゴールに辿り着く。

 どこかに隠れでもしていないとすれば、沙百合はまだ中にいるのだろう。

 改めて人の気配がないことを確認したあと、ゴールのすぐ近くある滑り台に登り迷路を俯瞰で眺める。


(……あ、いた)


 迷路のちょうど真ん中くらいか。

 沙百合のものと思しき懐中電灯の光がフラフラと動いているのが見えた。

 進んでは来た道を戻り、また進んでは戻りを繰り返すその光は、やがてピタリと動かなくなってしまった。

 そして――。


「かずきさーん……」


 その声の弱々しさたるや、山行中に遭難しかけて三日も山中を彷徨い歩いた数年前の自分の姿を思い出す。

 迷路のフェンスの下には屈めば人間が通れるだけの高さが確保されている。

 それは迷路内で迷子になった人が抜け出すためのものなのだが、どうやら彼女はそれを知らなかったらしかった。

 滑り台の上から大声で教えようとも思ったが、もし近くに人でもいたらと思い留まる。

 俺としても、夜の公園で滑り台の上で叫ぶ不審人物として、自治体の不審者目撃情報に掲載される事だけは避けたい。

「……救助に行くか」


 滑り台を滑り降りると手近な位置にあった壁の下を四つん這いになりながら、光が見えていた方向へと真っ直ぐに進んでいく。

 何枚か壁を潜り抜けると、すぐ向こうから仔猫のような小さな声が聞こえた。

「かずきさーん……」

 更にニ枚壁を潜り、そこでようやくしゃがみ込んでいた要救者を発見する。

「おまたせ。助けに来たよ」

「……おいてかれたと思いました」

 そう言ってちょこちょこと近づいてきてた沙百合は再び手を握ってくる。

 彼女をエスコートしながらゴールがあると思わしき方向へと進むと、ほんの五、六回角を曲がっただけですぐに公園の広場に出てくることが出来た。

「それじゃ帰ろっか」

 握った手を離すタイミングを見失ったままでマンションのエレベーターの前までくると、どちらかというでもなくそっと手を解いた。

 部屋につくまでのしばらくの間、彼女の小さな手がまだ自分の手のひらの中にあるような感覚があった。


 家に戻ると沙百合はすぐに部屋に消えていった。

 恐らく部屋着に着替えるのだろう。

 俺は買い置きしてあった弁当や惣菜を冷蔵庫から出すと、オーブンレンジで順番に温めていく。

 せっかく彼女が駅まで迎えに来てくれたのだから、どこかで夕食を食べてから帰ってくればよかったのかもしれない。

 そんなことにも気づけない程に、さっきまでの俺は待ち合わせ場所へと急ぎ、彼女と合流出来たことに満足していたのだろう。


 昨夜と同じように観もしないテレビをつけると、温めたばかりで湯気の上がる弁当に各々箸をつける。

 スーパーの弁当や惣菜の味に不満はなかったのだが、誰かと食卓を共にするのであれば、もう少し華やかなテーブルにしたいと思った。

 明日の夜はもう少しマシな夕食にしよう。

 また、彼女を連れて買い物に行くのもいいかもしれない。


 食事が終わるとすぐにすることがなくなってしまった。

「沙百合ちゃん。特になにもなければお風呂入っておいで」

「はい。じゃあ、お先に失礼します」

「あ。絵梨花おかあさんに電話してみたいんだけど、スマホ触ってもいいかな?」

「はい。見られて困るものはないので、いつでも勝手に使ってもらっていいです」

 いくら本人がそう言ってくれたとて、十代の女の子のスマホを本人が居ないところで黙って触るのは気が引ける。

 絵梨花の番号を控えさせてもらって、明日からは自分のスマホで掛けたほうがいいだろう。


 沙百合が風呂場に行くのを見送りながら、彼女のスマホで絵梨花を呼び出す。

 電話をするには些か遅い時間ではあるが、これに関しては失礼も何もあったものではないし、そもそもこれは急用だ。

 昨日と同じく呼び出し音は鳴るのだが、何度かのコールのあとに留守電に切り替わってしまう。

 こうなることは半ば想像していたのでそれ程は落胆はしなかった。

 留守録に連絡を乞う旨と、沙百合むすめが心配していることを添えて吹き込み、通話終了ボタンを押してスマホをテーブルの上に置く。

 俺は明日も仕事だが、何か特別なことでも起きない限りはリモートで済ませられるだろう。

 昼休みを長く取れるように調整して、昼は沙百合を連れて外で食べようか。

 その帰りに買い物も済ませればいい。


 翌日に向けて漠然とした目標設定をしたところで、ちょうど洗面室から沙百合が出てきた。

 彼女はするするとすぐ目の前までやってくると、何故だか顔を赤らめながら小鳥のような声でつぶやいた。

「……あの、昨日。……下着、洗濯してくれて、ありがとうございました……」

 ああ、そういえばそんなこともあったな。

 何と返事をすればいいかと考えあぐねていると、彼女は死にかけのセミのような声量で「洗濯機の横に忘れちゃってて……」と付け足す。

 どうやらあれは落とし物ではなく忘れ物だったようだ。

「洗濯物があったら洗濯機の中に入れておいてくれれば一緒に洗っちゃうから」

 沙百合は俯いたままこくんと小さく首を縦に動かす。

「じゃあ俺も、お風呂行ってくるかな」

 わざと声に出して言うとようやく風呂場へと向かった。



 湯船に浸かったまま船を漕ぐという普段はまずやらないことをしてしまった。

 数日ぶりの出勤や公園での出来事で少し疲れていたのかもしれない。

 時計を見ると日付が明日に変わってしまっていた。


 俺がリビングに戻ると同時に彼女はソファーから立ち上がり「おやすみなさい」と言って自室に消えて行った。

 その足取りからは、もう半分以上夢の中にいたことが見て取れる。

 就寝の挨拶を言うためだけに、俺が風呂から出るのを待っていてくれたのかもしれない。

 そういうところは絵梨花の娘らしく感じる。

 彼女の母も折々の挨拶はやたらとしっかりしていて、俺もそれに倣う内に普段使いの礼節だけは人に褒められるようになっていた。

 もし明日も俺が後に風呂に入るようばならば、彼女におやすみの挨拶をするのを忘れないようにしなければ。

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