【5】3日目(月)
カーテンの隙間から漏れる朝日で目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
寝室にも窓が設けられている角部屋の特権である。
もっとも、早起きをする必要のない日にはそのメリットは完全に裏返り、今日も正直なところもう少しだけ寝ていたかった。
二度寝を試みるもあえなく失敗し、止む無くベッドから起き上がると本日の活動を開始する。
身支度を整えるために脱衣所に一歩踏み込む。
すると、真っ暗なはずの浴室には灯りが灯っており、水が床を叩くバシャバシャという音までもが聞こえ、反射的にそちらに顔を向ける。
直後、心の中で『しまった!』と叫んだが、その時には完全に後の祭りであった。
脱衣所と浴室を仕切るガラス戸越しに、立ったままシャワーを浴びる人影が見えた。
湯気でガラスが曇っていたお陰でシルエット程度ではあったが、その輪郭にははっきりと女性の特徴が見て取れる。
幸いにも先方はこちらに背を向ける形でシャワーを浴びていたので、
素早くそして静かに脱衣所の扉を閉めると、息を殺してリビングへ逃げ帰った。
危なかった。
もし、もう数分脱衣所に向かうのが遅れていたら。
そうしたら、身体を拭いてる最中の彼女と鉢合わせていたかもしれないし、逆に数分早ければ脱衣の途中だったかもしれない。
最悪の事態を免れることが出来た幸運に、信じてもいない神に感謝を捧げようと思った――のだが、本当に俺は難を逃れられたのだろうか?
シャワーを浴びていた彼女はこちらに背を向けていたが、浴室の奥の壁には鏡がはめ込まれている。
もし、そこに俺の姿が映っていたとしたら。
その事実に気付いた瞬間、引きかけていた冷や汗が再び滝のように流れ始めた。
疑心に駆られヤキモキしていると、脱衣所からドライヤーを使う音が聞こえてくる。
俺は慌てて、
やがてドライヤーの音が止むと、果たして脱衣所からゆっくりと彼女が登場する。
「すいません。昨日、お風呂に入らないで寝ちゃったみたいで。シャワーお借りしました」
そう言いながら近づいてきた彼女は、そのままストンと俺の横の席に腰を下ろした。
昨日買ったシャンプーかボディーソープの匂いだろうか。
すぐ隣からはフルーツとも花とも知れない、甘く良い香りが漂ってきて鼻孔をくすぐる。
すぐにでもこの場を立ち去りたい気持ちを抑えつけ、俺はテレビの画面を凝視したまま固まっていた。
すると。
「かずきさん「はいっ!」」
ノータイムで、しかも卒業式で生徒代表として名前を呼ばれたと時のような、とんでもなく良い返事をしてしまう。
ほんの数十センチしか離れていない場所から、沙百合が俺の顔を凝視しているのがわかる。
――やはりバレていたのだろう。
だとすればもう、謝る他はないのだろう。
覚悟を決めて上半身ごと彼女の方に向き直ると、謝罪の言葉を伝えるために口を開いた。
しかし、俺の喉から言葉が出るよりも一瞬だけ早く「かずきさんって何座ですか?」と、思いもよらぬ質問をされる。
「俺は……牡羊座」
それに続いてテレビから『ごめんなさい! 今日のアンラッキー星座は――』と申し訳無さそうなアナウンサーの声が聞こえてきた。
今は星座占いなどどうでもいいし、何よりそれどころではない。
『牡羊座の人です。隠し事でトラブルが起きそう。告白する勇気を!』
トーストとサラダで朝食を済ませると仕事をする為に自室に戻る。
去年からテレワークが中心の勤務形態になり、出勤するのは週にニ回か三回ほど。
今日がその内の一回なのだが、時差出勤の為に昼前までは家での勤務となる。
必要なやり取りは基本的にチャットで行うので寝間着のままでもいいのだが、出社日は朝からスーツを着るというのが自分の中での決め事だった。
スーツを着てパソコンに向かっていると、ここ数日の非日常から日常へと戻ってきたような気分になり、それはどことなく夏休み明けの始業式の日を思い出させた。
仕事としては有り触れた資料の作成なので、何ら気負う事なくサクサクと熟すことが出来た。
集中して作業をしていると、いつの間にか出勤の時間が目前に迫っていた。
パソコンの電源を落とすと、机の上の諸々を鞄に突っ込み部屋を後にする。
リビングに沙百合の姿を求めたのだが、どうやら彼女も自室にいるようだった。
部屋の前に行ってノックをしようとするも、先刻の出来事を思い出して手が止まる。
結局あの後、ぐうの音も出ない程の正しさを振りかざすテレビの占いのアドバイスに従い沙百合に事の顛末を話し、そして謝罪した。
飼い主に叱られた仔犬宜しくしょんぼりと頭を垂れ、彼女から下される叱責や処罰を待った。
しかし、彼女の口から放たれた言葉は罵倒でも無ければ赦免でも無く、それが逆に俺を困惑させた。
「どうでしたか?」
予想だにしなかった言葉に思わず顔を上げると、驚くほど穏やかな顔をした彼女がこちらを真っ直ぐに見据えていた。
俺が答えあぐねていると、更に具体性を追加して同じ質問が繰り返される。
「わたしの裸……どうでしたか?」
有無を言わせないその迫力に、答えなければ逃れられないのだという事を悟った。
「……すごく……です」
「すごく、なんですか?」
「……きれいだった……です」
一瞬、彼女は驚いたような表情をし、次の瞬間には見る見るうちにその顔全体が赤く染まる。
そして、先ほどとは逆に今度は彼女が下を向いてしまった。
「……だったら、いいです」
よくわからないが、どうやら俺は赦されたようだった。
そんなやり取りがあり、その後の朝食の時間は針の
俺は自室に戻るとメモを書き、リビングのテーブルの上に玄関の鍵とそれを置くと家を出た。
通勤には車は使わない。
理由は単純で、うちの会社には駐車場がないからだ。
駅まで十五分歩き、更に電車に十五分揺られる。
会社のオフィスは俺が住んでいる田舎の町とは違い、昼間の人口が夜間のそれよりもだいぶ多い都市の、その始発駅の前のビルの三階にある。
業種は
直接接客をするような部署でもないので、休みも基本的には土日となっている。
出勤をしたところでやることはといえば、テレワーク時のそれと大差はない。
だが、他部署とのやり取りは顔を合わせての方が効率がいいので、そういう仕事は出社日に合わせてスケジュールを組んでいた。
社員が二十一人、アルバイトを含めても三十人にも満たない小さな会社ではあったが、逆に言えば小回りの利くサイズ感であるが故に、大手では取り扱いづらい小規模なプロモーションを手掛けることを得意としており、リピートのクライアントも多かった。
今取り扱っている案件も小規模なプロジェクトだったこともあり、一時間と掛からずに会議を終了させると、再び自分のデスクに戻ってパソコンに向かい合っていた。
更に二時間程の作業をして満足の行く成果を出せたところで、遅めの昼食を取るために外に出掛ける。
オフィスの周りにはいくつもの飲食店が軒を並べているが、俺は大体いつもファストフード店で済ませていた。
理由はオフィスからもっとも近いという、非常に怠惰なものだ。
いつものメニューを注文し二人掛けのテーブル席でそれを食していると、一人で食事するのが何だか久しぶりなように感じた。
沙百合はもう飯は食べたのだろうか。
一瞬、電話をしてみようとスマホを取り出したが、電話口の彼女に「ご飯はもう食べた?」となど聞いている間抜けな自分を想像して思いとどまる。
スマホをポケットに仕舞うと、包装紙や空の紙コップの載ったトレイを持って席を立った。
オフィスに戻る前にビルの一階に設置されている自販機の前で足を止め、三段に分けられて陳列されているドリンクの中から新発売のポップが貼られているレモン飲料を購入した。
先週まではコールド飲料ばかりだったはずの自販機のラインナップだが、いつの間にかその半分近くがホットに置き換えられており、すごく身近な案件で季節の移ろいを感じてしまった。
オフィスに戻るとすぐに残りの仕事に取り掛かる。
右から来たものを左に移すような半ば流れ作業的な業務だったが、週の始め《あたま》から神経を使わないで済むことはありがたかった。
今日はうちの部署も半分くらいの人員は出勤しているが、残りの半分はリモ―トで作業を共有している。
両隣のデスクを使っている同僚が自宅勤務組だったこともあって、今日は会議が終わってからは誰とも口を利いていない。
今に始まったことではないのだが、何故だかそれが少しさみしいような気がした。
就業時間を過ぎ、殆どの社員が帰宅をしたあとも俺は残業をしていた。
特に急ぎの仕事があったわけではないのだが、これだけ片付けてしまえば今週はあと一回の出勤で済みそうだったからだ。
自分の頭上だけにダウンライトが灯った薄暗いオフィスにキーボードを叩く音が響き渡る。
「よし、終わり!」
文章データの最後の一文を打ち終え、これでもかというくらい高らかにエンターキーを打ち鳴らす。
データで渡す分は社内メールで送信し、紙で必要な分は背後に置かれたコピー機で印刷する。
コピー機から勢いよく紙が排出されるのを何をするわけでもなく眺めていると、机の上に置いてあったスマホからバイブレーションの音と光が発せられた。
手に取って画面を覗き込むと、それはアドレス帳に登録されていない番号からだった。
未登録の番号から電話が掛かってくるとすれば、心当たりは一人しかいない。
『かずきさん?』
果たしてそれは沙百合からであった。
ほんの半日前には向かい合って朝食を食べていたというのに、久しぶりに彼女の声を聞いたような気がした。
「どうしたの?」
声色から緊急事態が発生したわけでもない事はわかったが、電話を掛けてくる程度には困りごとがあったのだろうか。
『今日、何時ころ帰ってきますか?』
「えっと。もう仕事はそろそろ終わりだけど、電車に乗って駅からは歩きだから、一時間くらいは掛かるかもしれない」
食事だったら一人で済ませてくれればいい、と言おうとしたが、俺が口を開くより先に彼女が言葉を発する。
『駅まで迎え行ってもいいですか?』
その意外な申し出に面食らう。
「それはいいけど、駅までの道ってわかる?」
『はい。あの、アプリで』
デジタルネイティブ世代に向かって道がどうこうとは、我ながら愚問であった。
遅い時間ではないにせよ、女の子が一人で出歩くのは感心できないが、電話を掛けてまで来た彼女の意思は尊重したかった。
「わかった。じゃあ今が――七時だから、七時半くらいになるけど」
『わかりました』
「あ! 待って! 玄関のシューズボックスの横に懐中電灯が掛かってるから」
それだけ言って電話を切ると、俺は
オフィスの電気を消し、ビルの守衛さんに帰宅する旨を報告してから時刻表を確認すると、次の電車まではあと六分ほどしかなかった。
いくら駅前の職場とはいえ、改札から地下通路を通ってホームに至るには歩きで八分は掛かる。
(……走るか)
時間ピッタリにホームに滑り込んできた電車に飛び乗ると、扉のすぐ横の席に腰を下ろして呼吸を整える。
今の会社に勤め始めて十二年になるが、駅と会社の間をこれだけ全力で走ったのは初めての経験だった。
趣味で山をやっている関係で体力には自信があったのだが、そもそも山と短距離走では使う筋肉が全く異なるらしく、情けないことに先ほどから膝が笑っていた。
それにしても、沙百合は何故急に迎えに来ると言い出したんだろうか。
一人で留守番しているのが不安だった?
まさか絵梨花から連絡があったとか?
いくら考えたところで、答えは沙百合しか知らないのだから意味はない。
俺はスマホも取り出さずに、向かいの車窓を流れる景色をただ眺めて電車に運ばれた。
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