【11】6日目(木)

 目が覚めたと当時に出勤の準備を開始し、まだ寝ていると思しき彼女を起こさないよう静かに玄関を開けて家を出た。

 いつもより一本早い電車に乗り、駅のコンビニで朝食を調達してオフィスに向かう。

 既に出社していた幾人かの同僚に挨拶をしながらデスクに着くと、パソコンを起ち上げながら先ほど入手した惣菜パンをぱくつきつつ社内の共有スケジュールを確認する。

 記憶していた通り、今週はもう大した案件は入っていなかった。


 始業時刻になるとすぐに、上司に今日の午後の半休と明日の有給を申請する。

 土日と合わせて三日半もの連休を突然に申し込まれた上司は、当然のことながら眉をひそめた。

 小言の一つや二つ言われる事は覚悟していたが、意外にもあっさりと申請書に判を押してくれる。

 普段は逆に有給の消化を急かされていたくらいだったことが幸いしたのかもしれない。

『また山登りにでも行くの?』と聞かれたので「まあ、そんなもんです」と曖昧に答える。


 昨日わざと残しておいた仕事をやっつけていると、あっという間に昼休憩の時間になった。

 退社する前にもう一度上司の席へ赴き、急な申し出に対する謝罪とそれを快諾してくれたことへの感謝を述べた。

「そんなことはいいから安全に楽しんできなさい」

 部下思いな上司にもう一度礼をすると、若干の後ろめたさを背負いながらそそくさとオフィスを後にした。


 昼休みの勤労者達に紛れていつも利用しているファストフード店へと向かうと、適当に二人分のメニューをテイクアウトする。

 茶色の紙袋を受け取ると同時に、競歩選手のスピードで駅へと急ぐ。

 感覚的にはほんのさっき乗ったばかりの電車にまた揺られ、十五分後には自宅の最寄り駅に到着した。

 普段ならここから十五分も歩いて帰宅するのだが、今日は駅前で客待ちをしていたタクシーを利用した。

「お客さん、いつもは日暮れの後に帰ってくるのに今日がばかに早いですね」

「……え? 人違いじゃないですか? 私、ここでタクシーを利用したことはないですよ」

「あ、いや。ワタシ等も一応客商売ですから。ここでお客さんを待ってる時に、駅から出てくる人の顔を見るんですよ。この人は乗ってくれるかな、ってね」

「ああ、なるほど」

 自分の知らないところで自分のことを認識してくれていた人がいるということが、何だか照れくさいような気がした。

「今日はこのあとデートか何かですか?」

「え?」

「あ、すいません。なんかお客さん、すごく楽しそうな顔をされてたもんで」

「……まあ、ええ。そんなところです」

 この運転手がすごいのか、それとも客商売をする人達が自然に身につけるスキルなのか。

 とにかくその推察眼にはただただ感心するばかりだった。

 いや? 俺がわかり易過ぎるだけなのだろうか?


 玄関を開けた音で気づいたのかリビングの方から沙百合がぱたぱたとやってくる。

「おかえりなさい」

 ご飯にしますか? それともお風呂にしますか? とでも言い出しそうな自然さで出迎えられてしまった。

 頼んでもいないのに鞄を持ってくれようとするので余計にそんな感じだ。


 ダイニングテーブルに向かい合って座るとファストフード店の紙袋の中身をテーブルの上に広げる。

 少し冷めてしまっていたが、フニャフニャになったポテトはそれはそれでアリだったし、やはり誰かと食べる食事というのはそれだけでも美味しいものだ。

 沙百合が最後の一口を食べ終えるのを待ち、今日の午後からの予定を発表する。

 彼女は最初、何のことだかわからないといった風だったが、話の内容を理解すると途端に色めき立った。

 脱兎の如くに自室に戻るその背中に向かい「そんなに急がなくてもいいよ」と声を掛けたが、どうやら耳にまで届かなかったようだ。

 自分も支度をするために自室へと戻ると、スーツとスラックスをハンガーに掛けて普段着に着替え、財布とスマホと車のキーをポケットに突っ込む。

 部屋を出たと同時に隣の部屋のドアが開き、彼女が顔だけひょこっと出して「着替えっていります?」と聞いてきた。

 答える代わりに首を横に振ってみせる。

 五分もすると彼女はリビングに戻ってきた。

 初めてうちに来た時と同じ、キャメルのコートとワンピースタイプのTシャツ姿は、彼女にとてもよく似合っている。



 三十分も車を走らせると『目的地周辺です』の音声と共に、カーナビはその役目を自ずと終了し沈黙する。

 駐車場に止めた車から降りるとすぐに、潮の匂いのする柔らかな風が頬を撫でた。

「あれって観覧車ですか?」

「そうだね。観覧車だね」

「じゃあ、あっちにあるのはジェットコースターですか?」

「そうだね。遊園地だからね」


 湖の湖畔にあるこの遊園地は、基本的には子連れのファミリー向けではあったが、近年ではローラーコースターなどの絶叫系にも力を入れ始めており、夏休みの時期などになればそこそこの盛況ぶりだと聞いていた。

 ただ、今日は平日の午後ということもあり、客の姿はまばらを通り越してほとんど貸し切り状態といってもいいかもしれない。

 もしかしたら、客の人数よりも従業員の方が多いのではないだろうか。

 入口を入ってすぐのところには、敷地の二〇パーセントは占めていそうな巨大なジェットコースターが蛇のようにのたくっている。

「とりあえず、これ行っとく?」

 居酒屋でビールを注文するようなカジュアルさで促す。

 俺はこの手のアトラクションはとんと苦手であったが、今日この場所にやってきたのは沙百合を全力で接待するためだ。

「はい!」

 優等生の返事をした彼女と共に待ち時間なしのそれに乗り込んだ。


 係員がベルトと安全バーが正しく装着しているかを確認し終わると、やがてけたまましいベルの音が鳴り響く。

 それに数秒遅れ、俺と沙百合だけを乗せた車両が不気味な振動を伴って動き出した。

 極太のチェーンによって駆動された車両が、位置エネルギーを蓄えるためだけに上へ上へと昇っていく。

 やがて視界の全てが水色に支配されると同時に、ついにその時が訪れた。


 ほとんど自由落下のような角度と速度で地面に向かって一直線に落下して行く車両の手すりを握りつぶさんばかりの力で必死に掴む俺を尻目に「かずきさん!手!!あげて!!!」と遥か遠くから沙百合の声が聞こえた気がした。(むーーーーーーーりーーーーーーーー!!!)手を離すどころか息をすることすら忘れていた。車両は地面スレスレで再び急上昇を始めるや否や次の瞬間には天地が逆転する。グルングルングルンと三回転するとその勢いを利用して今度は錐揉みの横回転。飽き足らずに更に縦に一回転二回転三回転。どこかから彼女の黄色い声が聞こえ続けていたが俺は俺で心の中でずっと絶叫していた。

(死っ! ぬっ!)


 時間にすればニ分足らずだったろうが、やっとのことで乗降場に戻った頃には俺は三年分くらいは老けていた。

 興奮冷めやらぬといった風の彼女の腕を引っ張ると、近くのベンチに浅く腰掛け下を向く。

「もしかして……苦手でした?」

 聞かなくても明らかな事はいちいち聞かないで欲しかったが、ほんの五分前に「行っとく?」とか言っていた人間がこのザマであれば、彼女としても聞きたくもなるだろうよ。


 しばし休ませてもらい、なんとか歩けるレベルにまで回復した俺は、ヨロヨロと覚束ない足取りで園内を進むも、色とりどりの装飾が施されたメリーゴーラウンドの前で再び力尽き掛けていた。

 もう一度休憩を申し入れようと沙百合の方に目を遣ると、彼女はキラキラとした目で観覧車を見つめていた。

 だが、俺のことを気遣ってか乗りたいとは言ってこなかった。

「沙百合ちゃん、ごめん、俺、もう少し、休みたいから、あれ、ひとりで、乗ってきて」

 彼女は顔をぱあっと輝かせると、すごい勢いで搭乗口に駆けていく。

 俺は再び近くにあったベンチに腰を掛けてると、透明の翼を生やしたその背中を見送った。


 ジェットコースターの時よりも幾らか優しい音のベルが鳴ると、果たしてメリーゴーラウンドはゆっくりと動き出した。

「かずきさ~ん」

 彼女は馬ではなく、なぜかバンビにまたがってこちらに手を振っていた。

 沙百合は俺の目の前に来るたびに「かずきさ~ん」と俺の名を呼んでアクションを求めてくる。

 誰が見ているわけでもないので俺も振り返すが、正直なところ見ているだけで目が回ってしまうので、視線は密かにそのすぐ手前にある自動券売機に合わせていた。

 何周かして回転が止まると彼女が小走りで戻ってくる。

「なんで馬じゃなくてバンビに乗ってたの?」

「え、シカさんのほうがかわいかったからですけど?」

「ああ……」

 愚問であった。


 次に俺たちが向かったのは幽霊屋敷だった。

 おどろおどろしいフォントを用いた『旅館 賽の河原』との看板を掲げたそこは、実際に廃業した旅館を移築改装して作られたもので、今年の夏のオープン以来ネットでも恐いと評判のようだった。

 確かに建物の外観は他の遊園地にある幽霊屋敷とは違い、細部の意匠にそこはかとない格調の高さを感じる。

「次はあれ――」

 横にいたはずの彼女が居なくなっていた。

 振り返ると十メートルも向こうで、自販機の影から俺のことをじっと見ていた。

 手招きをすると、怯えた野良猫のようにゆっくりゆっくりと近づいてくる。

 彼女は彼女でこの手のものが苦手なのだろう。

「沙百合ちゃんが苦手なら他のにしよっか?」

 彼女は俺の顔とお化け屋敷を交互に見ると小さな声で「いこ」と言い、旅館に向かって歩き出した。

 少し心配ではあったが、トロッコに乗って進むタイプなので腰が抜けて動けなくなるというような事はないだろうから、まあなんとかなるか。


 入口に到着すると同時に、建物の影から番頭の格好をした係員が唐突に現れた。

「っっっ」

 沙百合は声にならない悲鳴を上げると俺の背中の後ろに隠れてしまい、その様子に係員も俺も苦笑いする。


 コトコトと小刻みな振動と音を立てながら、トロッコは旅館の廊下と思しき通路をゆっくりと進む。

 元は本物の旅館というだけあって、子供の頃に家族で行った老舗の温泉旅館と作りがそっくりだった。

 沙百合はというと、端から恐怖を楽しむという雰囲気ではなく、俺の肩に顔を埋めたまま小さく震えていた。

「沙百合ちゃん。せっかくだから楽しまないと」

「むりです!」

 即答されてしまう。

 血溜まりの客室を通り抜け、亡者達が宴会をする大広間に差し掛かったその時、突然目の前に髪を振り乱した女の幽霊が落ちてきた。

 これには俺も思わず「うおっ!」と声を上げてしまう。

 俺の声に驚いた彼女も「キャーーーーー!!」と絶叫した。

 試しに何もないところで「うおっ!」と言うと、やはり隣からは「キャー!」と返ってくる。

(これはこれで、楽しんでくれている……のか?)


 程なくして入口まで戻ってきた頃には、彼女は既に自分で立ち上がることも出来ないような有様だった。

 それは十数分前の自分の姿を見ているようで若干心苦しくもあった。

 抱きかかえてトロッコから下ろし、幽霊屋敷を出てすぐのところに設置されていたベンチに腰掛けさせる。

「ごめんね。まさかここまで苦手だって思わなかったから」

 反省の弁を述べる俺の顔を見上げた彼女は首を小さく横に振る。

「恐かったけど、楽しかったです」

 あの恐がりっぷりで楽しいはずはなかったので、多分俺のことを気遣ってくれているのだろう。

「それに、かずきさんがずっと、頭をなでててくれたから」

「え?」

 俺の右腕はずっと沙百合が抱きついていた。

 左手は確か、トロッコのグリップを握っていた……と、思う。

「沙百合ちゃん。そろそろ別の乗り物に行こうか?」

 半ば強引に彼女を引っ張り幽霊屋敷が見えなくなるところまでエスケープする。

「沙百合ちゃんってさ。幽霊って、本当にいると思う?」

「……そういう体験ってしたことないからわかんないです」


 その後も細々としたアトラクションを楽しみ、気がつけばあと三十分で閉園という時間になっていた。

 ついさっきまでオレンジ色だった空も群青色へと変貌を遂げ、園内に疎らに生えた街路灯にも灯が点っている。

「そろそろ帰ろっか?」

「はい」

 出口へと向かい歩いていると沙百合が突然立ち止まる。

「あの、かずきさん。もうひとつだけ乗ってもいいですか?」

「ひとつだけなら、うん」

 彼女に連れられてやってきたのは大観覧車だった。

 係員は時計を一瞥すると小さく頷きゴンドラの扉を開いてくれた。

 四人掛けの席の対角に向かい合って座ると、ゴンドラはみるみるうちに地面から遠ざかる。

 そして、その高度に比例しながらどんどんと景色が拓けていく。

 西の空の地平線に僅かばかりに緋色が残ってはいたが、すでに闇夜の勝利が決定的であった。

 沙百合はというと、俺とは真逆の方角に目を向けていた。

 あっちは多分、数百キロメートルも離れた彼女の家の方角だ。

「……昨日の朝のこと、お話してもいいですか」

 元よりそのつもりで最後に観覧車を選んだのだろうと、薄々ではあったが感づいていた。

 視線は窓の外に向けられたままだったが、彼女は粛々と昨日の朝の出来事を教えてくれた。

 俺も彼女の目線の先を追うように、ほとんど陸と空の区別のつかなくなった山並に目を向け、その話に耳を傾ける。


「お母さんは、ほんとはお母さんじゃないんです」


 出だしから意味がわからなかった。

 絵梨花が本当の母親ではない?

 それは有り得ないと思った。

 沙百合と絵梨花は顔も表情も、他人の空似だなどということは絶対にない程に瓜二つだったからだ。


「お母さんのお姉さんが、わたしのほんとのお母さんで」

 

 ああそういうことかと、すぐに納得した。

 沙百合の実母は娘を産むとすぐに実家の両親の元に残し失踪した。

 父親はどこの誰ともわからないらしい。

 初めは沙百合の祖父母が彼女を引き取って育てていたのだが、彼女が一歳になる頃に祖父が事故で他界すると、時期を同じくして祖母も体調を崩してしまった。

 育児もままならない程に弱った祖母は沙百合を手放す覚悟をしたそうだが、事情を知っていた絵梨花がそれを良しとしなかった。

 それは丁度、絵梨花が大学をやめて俺の元からも去った時期と一致していた。


「中学に入る前の日に、お母さんが全部教えてくれました」


 当然だが沙百合は大変なショックを受け、部屋に閉じこもって泣き続けた。

 そのまま泣きつかれていつの間にか寝てしまい、目が覚めると朝になっていたそうだ。

 トイレに行こうと部屋を出ると、いつもの朝と同じように味噌汁の匂いがした。

 キッチンに行くと絵梨花がコンロの前に立っており、沙百合の存在に気付くと「おはよう。ご飯もう出来るから顔洗っておいで」と、やはりいつものように言った。

 その瞬間、彼女は悩んでいた事の全てがどうでもよくなったのだという。

 自分のお母さんは今、目の前にいるこの人だけだと気づいたからだった。


「だから昨日の朝も、お母さんから電話が掛かってきた時、普通に出たんです」


 俺はてっきり沙百合が電話をして絵梨花がそれを取ったのだと思っていたが、どうやら逆だったらしい。

 沙百合は絵梨花を責めるようなことはせずに、普段の口調で「どこにいるの?」と聞いたそうだ。

 絵梨花の返答を聞いて、沙百合は初めて母親に強い怒りを覚えた。

 

「お母さん、北海道にいるみたいです」

 

 そこには、絵梨花と沙百合の家族がかつて住んでいた。

 沙百合の祖母は何年か前に他界しており、それより以前に鬼籍に入っていた祖父と一緒に今は沙百合の家の近くの墓地に眠っているが、そこは北海道ではない。

 

「お母さんが北海道にいるって聞いて、すぐにわかりました」


 娘のことを騙してまで一人で北海道に行く理由など、ひとつしかなかった。

 姉に会いに行ったのだろう。

 それにどんな理由があるのかはわからないが、沙百合にとっては許しがたい行為であった。


「初めてです。お母さんを相手にあんなに怒ったのって」


 沙百合は絵梨花を問い詰めるが、絵梨花は何も答えようとしなかった。

 業を煮やした沙百合が更に責め立てると、それまではあくまで静かな口調だった絵梨花が、声を荒らげて『おまえは何も知らないのに』と言い放った。


 それだけ話すと沙百合は俺の横に移ってきた。

「こっち、向いてください」

 言われれるがままに上半身を沙百合の方に向けると、彼女は俺の胸に顔をうずめて泣き出した。

 小さな子供をあやすように右手で彼女の小さな頭を上から下へと優しく撫で、左手はその背中に回す。

 やがて彼女の両腕も俺の背中に回され、互いの身体の隙間が完全に無くなる。

  

 五分ほどもそのまま抱き合っていたのだが、ゴンドラが地上に近づくと沙百合は静かに離れていった。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにした彼女を見て係員は怪訝な顔をしていたが、そんな事はもうどうでもよかった。

 彼女の手を引いて遊園地の出口ゲートに着いた頃には、閉園を知らせる音楽もすでに鳴り止んでいた。


 駐車場に戻り車を発進させようとした、その時だった。

「かずきさん」

 ずっと顔を伏せたままでいた彼女が弱々しく俺の名前を呼ぶ。

 シフトポジションをドライブからパーキングに戻し、彼女の方に向き直る。

「今日はありがとうございました」

 妙にかしこまったその物言いに面食らってしまう。

「あの。もうひとつだけお願いしてもいいですか?」

 車内は暗く表情は読み取れないが、その口調から先ほどの出来事が思い出される。

「いいよ。沙百合ちゃんが元気になってくれるなら」

 その言葉に嘘偽りはなかった。

 もし仮に『目の前の湖で泳いでください』とでも言われたら、すぐにでも飛ぶこむ程度の覚悟はしていたつもりだ。

「……どこかにお泊りしたいです」

 耳に入ってきた言葉を脳で処理するのに時間が掛かる。

 少しして意味が理解出来ると、今度は返答に困ってしまう。

 どんなことでもと言った手前、生半可な言葉で断ることが出来なかった。

「元気、出しますから」

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