【12】6日目(木)
先週の土曜日の午後に彼女が俺の前に現れた時から、俺の日常は非日常へと変貌した。
見知らぬ少女と食事を取り、同じソファーでテレビを観て、壁を一枚隔てた部屋で寝起きをした。
ショッピングセンターのフードコートで向かい合い、お互いのクレープを食べ比べた。
夜の公園で一緒に遊び、手を繋いで家に帰った。
そして今日は恋人のように遊園地で遊び、そして今、二人で泊まるホテルを探している。
遊園地のあるこの場所は、我が県内屈指の観光地でもあった。
故に無数の観光ホテルや旅館が存在している。
それらに片っ端から電話を掛けてみるも――案の定ではあったが――
一軒だけ、素泊まりであればと言ってくれた旅館があったが、十代の子と二人だと言うと、やはり『申し訳ありませんが』と電話を切られた。
「……やっぱり駄目だった」
スマホを車のセンターコンソールボックスに仕舞いながら彼女にそう告げる。
もし”一泊”を諦めてくれるのであれば、何か美味しいものでも食べてからドライブでもして、帰宅は日付が変わってからでもいい。
そんな妥協案を提示しようとした、その時だった。
「あそこは?」
彼女が指差した方角を見ると、確かにそこにはホテルが存在していた。
「いや、あそこは……」
この期に及んでも超えたくない一線というものが自分の中にあった。
別にどこのホテルであろうと”不味いこと”には変わりはなかったし、当然”不味いこと”をするつもりもなかったのだが、それでもだ。
「あそこがいいです」
先ほど思いついた妥協案に、更に今だけ特別な魅力的なオプションでも追加してみたらどうだろうか?
そんな通販番組のような事を考えていると突然、彼女が車のドアを開けて外に飛び出した。
急いで追いかけようとしたのだが、シートベルトを着けたままだったので不格好な形で車内に引き戻されてしまう。
そうこうしているうちに彼女の姿は闇の中に溶け込み、やがて見えなくなってしまった。
これは不味い、と思った。
シートベルトを外し全力で彼女の消えていった方角へと走る。
彼女の足の速さが如何ほどかは知らないが、少なくとも
一旦戻って車で追いかけようかと考えたが、結局はその決断を下すことが出来ずに走り続ける。
登山を趣味とする人間からすれば、立ち止まるでもなく引き返すでもないそれは愚策でしかないのだが、ここは山ではないのだ。
そうこうしていると、暗闇の中に見覚えのある小さなシルエットが立ち止まっているのが見えた。
「沙百合……ちゃん!」
すぐに追いつき彼女の両肩を後ろから捕まえる。
「……コンビニで、ご飯とか買って、それから、行こう」
肩で息をしながらそう言うと、彼女の肩から手を離して膝に両手をついて呼吸を整える。
くるりと振り返った彼女は「コンビニ、あそこにありますよ」と言うと、さも平然とした様子で俺の手を取り歩き出す。
三十秒ほどして酸欠状態だった脳がようやく活動を再開すると、すぐにあることに気づいた。
(もしかして俺、嵌められたんじゃ?)
コンビニで食料品や飲み物を購入してから車に戻る道中、彼女はまるで今の出来事などなかったかのように、手に持ったビニール袋を前後に振りながら俺の前を楽しそうに歩いていた。
時折振り返ると、湖面に映るホテルの明かりが綺麗だとか昼間だったらスワンボートに乗りたかったとか、とにかく上機嫌且つ多弁であった。
駐車場に戻ったところでエンジンが掛かったままだったことに気づく。
充分に暖機運転が行われていた車に乗り込んで道路に出ると、彼女が先ほど指を差したホテルの横を走り抜ける。
驚いた顔で俺の方を見る彼女に、進行方向を直視したまま「どうせならもっと綺麗なところにしよう」と事後提案してから、脳内の地図を使って代替候補を探し始めた。
ちなみに今通り過ぎたホテルはといえば、その外観は中世ヨーロッパの砦のような石――を模した
鏡張りの寝室の回転するベッドで寝るなどまっぴら御免だ。
二十分も車を走らせると高速道路のインターチェンジに到着する。
もっとも高速道路に乗りたかったわけではなく、目的地はそのすぐ裏手にあるホテル街だった。
色とりどりのネオンサインを掲げた建物はどれもが高い塀の中に建っており、外から中の様子を窺い知ることは出来なかった。
だが、この界隈であれば所狭しと軒を連ねてしのぎを削り合っているだけあり、所謂ハズレというものは存在しないはずだ。
「あそこは? ダメですか?」
彼女の視線の先にあったのは、豪華客船を模したような外観をしたホテルであった。
名前もあの有名な船舶を彷彿とさせものだったが、ここには氷山はないし、そもそも陸地なので沈没を懸念する必要もない。
平日の二十時台ではあったが八割ほどの部屋がもう埋まっていた。
俺達以外の客はその関係性こそ様々ではあろうが皆同じ目的で訪れているはずであり、今更に強い後ろめたさを感じてしまう。
手近な駐車スペースに車を止めると自動でシャッターが降りてくる。
格子状のシャッターがゆっくり閉まるのを見ていると、罠にかかった哀れな獣のイメージが頭に浮かんできた。
駐車スペースの後方には金属製の重いドアがあり、それを開けると雑居ビルを思わせるような狭く急な階段が上へと続いている。
コンビニ袋を揺らしながら階段を上る俺の後ろを、彼女は恐る恐るといった風についてきている。
階段を上り切るとそこにはまたしても重そうなスチールの扉があり、そこをくぐるとようやく客室へと到着する。
距離にすれば十メートルにも満たないが、俺には随分と長い道のりのように感じた。
「……すごい」
彼女がそう言うのも無理はない。
間接照明がふんだんに使われた高い天井に、紫色の毛足の長い絨毯。
部屋の隅にはリビングセットが置かれており、スキップフロアの上段には巨大のベッドが鎮座している。
これで窓さえあれば自分の家にしたいくらいだ。
彼女は荷物を早々に放り出すと、ぱたぱたと部屋の中を歩き回って「すごい」を連発していた。
俺はテーブルの上にコンビニで買ってきたもの広げると、飲み物だけ一旦冷蔵庫に仕舞い込む。
部屋の奥から戻って来た沙百合が「お風呂がすごい」と言って、また奥へと消えていった。
毒を食らわば皿までとは言うが、沙百合のはしゃぎようを見ているとここを選んだのは正解だったと思い始めていた。
「沙百合ちゃん。探索の続きはご飯食べてからでもいいかな?」
「あ、ごめんなさい」
彼女をソファーに呼び寄せると俺はサラダ軍艦を、彼女はまたしてもサンドイッチを食べながら、昼間の遊園地での出来事を面白おかしく話しあった。
「かずきさん、ジェットコースターのあと顔が真っ青でしたよ」
「今日が命日になるんじゃないかと思ったよ」
「わたし、小さい頃にメリーゴーランドで酔っちゃったことがあって」
「俺は今でも見ているだけで酔うよ」
ちなみに幽霊屋敷での出来事は黙っておくことにした。
食事を終えて探検を再開した彼女は、テレビの下に置いてあったマイクに興味を持った様子だった。
「もしかしてカラオケもできるんですか?」
「出来るよ。しかも歌い放題」
試しにリモコンを操作して今年流行った曲を流してみる。
彼女はマイクを使わず身体を左右に小さく揺さぶりながら、画面のテロップに合わせて歌い出した。
まるで川辺の鳥のさえずりのような、そんな綺麗な声だった。
その後互いに何曲か歌ってみたのだが、その結果はといえばジェネレーションギャップを痛感する羽目になっただけだった。
「お風呂にお湯ってはってもいいですか?」
「どうぞご自由に」
とは言ったもののきっと張り方がわからないかと思い様子を見に行くと、彼女は案の定水栓の扱いに四苦八苦していた。
「このボタンみたいなので栓を閉じて、次にこっちの蛇口からお湯を出す」
将来的にも全く役に立たないであろう、一昔前の湯張りの知識をレクチャーする。
「詳しいんですね」
彼女はそう言うと、俺の顔を真っ直ぐに見据えてこう付け加えた。
「お母さんともこういうところ、来たことあるんですか?」
「……」
俺は沙百合の質問には答えずにソファーに戻ると、冷蔵庫の中で冷やしておいた発泡酒を煽った。
彼女はしばらくの間、浴室から戻ってこなかった。
「わきました」
五分ほどして戻ってきた彼女はそう言うと、少しだけ暗い顔をしていた。
「どうした?」
何か良からぬことでもあったのかと心配したが、それはある意味的中していた。
「お風呂……めっちゃガラス張りだから」
ああ。
まあ確かにめっちゃガラス張りではあったが、それはうちの風呂だって同じようなものだ。
「こっちの部屋からは見えないし、それでも気になるようなら電気を消してジェットバスにしちゃえば?」
俺の言葉に沙百合は顔を上げると、目を丸くしながら聞き返してくる。
「え、ジェットバスついてるんですか?」
「ついてるはずだけど」
彼女を引き連れて再び浴室に行き、それっぽいボタンを見つけてプッシュする。
途端、湯船の中に猛烈といっていい勢いでが気泡が噴出される。
それを見た沙百合はまた「すごい」と言って大はしゃぎする。
ジェットバスの効力だろうか。
結局沙百合はるんるん気分で風呂に入っている。
時折風呂の方から「かずきさんこれすごい」などと声が上がっていたが、聞こえないふりをしてテレビをつけた。
丁度二十二時の報道番組が始まったところで、もうそんな時間になっていたことに驚く。
よく見知った顔のアナウンサーが、政治家の失言問題だったり北海道で観測史上最速で冠雪があったなどと、興味のないニュースばかりが読み上げていた。
今日の特集は野菜価格の高騰についてらしかったが、ニュースでいくら取り上げたところで野菜の価格が下がるわけもなく、只々不安感を煽るだけの内容に嫌気がさしてチャンネルを替えた。
適当にリモコンのボタンを押し、一番毒にも薬にもならなそうな音楽番組を垂れ流しながら二本目の発泡酒のプルタブを起こす。
「でました」
沙百合の声が思いの外すぐ近くから聞こえて驚いてしまった。
一瞬ではあるが寝てしまっていたのかもしれない。
顔を少し上げるとテーブルを挟んですぐ正面には、ホテル備え付けのガウンを着て少し恥ずかしそうな顔をした彼女の姿があった。
白いタオル地のガウンは、せいぜい男性物のMサイズのTシャツくらいの丈しかなく、彼女の細く長い太ももが九割方露出していた。
元々それ程大きくない目を眼球が落ちんばかりに見開いていたことで悟られたのだろう。
彼女は「だって、かずきさんが。着替えいらないって言ったんじゃないですか」としれっとした顔で言い放った。
それはそうだが、そもそも今日こんな事になるなんて家を出る前に知る由もなかったのだ。
「それに、この前もう……わたしの裸、みたじゃないですか」
反論を許されないどころか、完全に無言のままで完膚なきまでに論破された俺は、地につくほどに肩を落としながら風呂へと向かった。
汽水湖の畔の遊園地に半日も居たせいだろう。
自分では気がついてはいなかったのだが、シャワーを浴びる時に髪から潮の香りが漂ってきた。
やけにアーバンな容器の備え付けのシャンプーやボディソープは、その見た目に反して泡立ちがあまり良くなかった。
建物と同じで見た目は豪華でも中身は安物なのだろう。
全身をよく洗ってから浴槽に腰まで浸かりジェットバスのスイッチを入れると、くぐもったようなポンプの作動音と共に浴槽内に大量の気泡が発生する。
(あー。沙百合ちゃんじゃないけど、これはすごく……あー。いいものだ)
もし将来家を建てるようなことがあれば、多少高くてもジェットバスは導入してもいいかもしれない。
そんなどうでもいいことを考えていると、洗面所兼脱衣所の方から肉食獣の視線を感じた。
浴槽の縁に乗せたままで首をそちらに向ける。
「お湯加減はいかがですか?」
ジェットバスの作動音にかき消されてはいたが、沙百合の口は確かにそう言っていた。
「……はい。すごく気持ちいいです」
今日はいろいろな事が有りすぎた。
もう、彼女に入浴を監視されるくらいのことでは俺の心には泡一つ立たなかった。
彼女の監視を放置したまましばらくジェットバスを楽しんでいたのだが、いい加減に湯からあがりたくなってきた。
ジェットバスのスイッチを切り、おもむろに湯船の縁に手を掛け腰を浮かせる――ような素振りをする。
沙百合は「きゃー!」と声を上げて洗面所兼脱衣所から飛び出していった。
さっきの仕返しのつもりだったのだが、彼女の『きゃー』がとても楽しげだったことで俺の目論見は失敗に終わったことを悟った。
監視者の居なくなった洗面所で身体を拭いていた時、比較的重要なことを思い出す。
(俺の分のバスローブもあの丈なんだろうか?)
女の子であのサイズなら、平均身長を超える俺が着たら太ももどころではない部位まで露出しかねない。
恐る恐る洗面台の下のカゴに畳まれて置かれていたバスローブを手に取ると、男性サイズのそれは幸いにも普通に膝丈だった。
沙百合はソファーに座ってスマホを弄っていた。
「でたよ」
彼女を真似てテーブルの前に立ち、入浴を終えた旨をいちいち報告した。
沙百合はスマホを見ていた顔をゆっくりと上げると「おかえりなさい」と言ってくれたのだが、その目からは明らかに光が失われつつあり、電池切れが間近であることを如実に物語っていた。
ほんのさっきまではあんなに元気だったのに、まるで小さな子供のようだ。
時計は見ていなかったが、もう二十三時は回っているだろう。
「沙百合ちゃん。そろそろ寝よっか」
彼女はこくりとうなずくが、一向にソファーから立ち上がろうとしない。
うなずいた以上は聞こえていないはずはないのだが、念の為にもう一度同じ意味合いの言葉を繰り返した。
「もうそろそろ消灯だよ」
今度はうなずきもせず、すぐ前に立っている俺の顔を見上げながら口を開く。
「足がしびれて動けないから運んでください」
そんな素振りは全く無かったのですぐに嘘だとわかったが、彼女の意図は瞬時に読めた。
これは俺がさっきした仕返しの、更に仕返しのつもりだろう。
「いいよ」
書類のコピーを頼まれた時のような気軽さでそう言い放つと、彼女の横に移動し腰を屈め、その小さな胴体と膝の裏に腕を差し込む――ふりをする。
慌てふためく様を見てやろうと彼女の顔を覗き込むも、僅か三十センチの至近から俺の顔をじっと見つめていた。
その瞳の輝きには、俺の浅はかな考えなど全て見透かしているかのような聡明さが見て取れた。
結果論をいえば、彼女の憶測は間違ってはいなかった。
『俺の負けです。自分で歩いてください』と彼女にわびを入れてこの遊びは終わるはずだった。
だが、俺は目論見が見透かされていた事を悟った瞬間、即座に立案したプランBを発動する。
なぜかといえば、自分の半分にも満たないような年齢の女の子にいいようにされるのが悔しいと思ってしまったからだ。
プランBがどんなものかといえば。
『マジで運ぶ』
たったそれだけだった。
一度止めた動きを再開して彼女の身体の下に腕を入れる。
次に腕に力を込めて屈めていた腰を真っ直ぐに立て直す。
以前、寝ていた彼女を運んだ時と同様に大した重みを感じることもなく簡単にその身体は持ち上がった。
再度狼狽えている彼女を見てやろうと視線を向けると、先ほどと何一つ変わらない涼し気な顔でこちらを見ていた。
「……」
「……」
スキップフロアのステップを五段ほど昇り、ベッドの横に辿り着くと彼女をその上にゴロリと転がした。
二回転半してうつ伏せになった彼女のバスローブの裾が捲れて、薄紫色の下着とその下にある小ぶりだが形の良い臀部が
彼女はすぐに両手でバスローブを直すと、顔だけを俺の方に向けて静かに口を開いた。
「いま、見ましたよね?」
(……こっわ)
俺はその質問には答えずに枕元にあるコントロールパネルを操作して照明の照度を下げて、彼女をもう半回転させ仰向けにした。
「このまえ買ったやつです」
沈黙を肯定とみなしたのだろうか、聞いてもいない下着の入手経路を教えてくれた。
俺はそれすらも無視してベッドに腰を下ろすと、上半身を彼女の上に覆い被せた。
突然のことに目を大きく見開いた彼女だったが、次の瞬間には長い睫毛の生えた瞼をギュっと閉じる。
胸の前で握られた両手は細かく震えていた。
「……ごめん。ちょっとやりすぎた」
彼女の上から身体を起こしベッドから離れようとした俺の腕を、小さな手が掴んで自分の方へと引き寄せる。
「よい子は寝る時間ですよ」
そう言うと、空いている方の手で自分の横のマットレスをぽんぽんと叩いた。
ここに寝ろという事だろう。
一瞬躊躇したが、まるで母親のように優しく微笑む彼女の顔を見て、俺は大人しくそれに従うことにした。
二人で並んで天井を見る。
照度の落とされた間接照明に仄かに照らされるそれは、丁度今の季節の夕方の空のようだった。
「……お母さん今、何してるのかな」
それは俺にはわからなかったが、沙百合も答えを求めて聞いたわけではないだろう。
「きっと沙百合ちゃんの事を考えてると思うよ」
反論されるのを覚悟して言ったのだが、意外にも彼女は何も言わなかった。
ベッドの上に投げ出していた俺の手に彼女の指がそっと触れ、次の瞬間には手を強く握られた。
「お母さんがなんで、わたしのことをかずきさんのところに預けたのかわかりました」
沙百合が言うように、もし絵梨花が俺のことを信用してそうしたのであれば、今のこの状況は大変に申し訳なかった。
ただ俺も、十数年来欠けていた心のパズルのピースが沙百合によって埋められたような気もしていた。
「俺はきっと――」
言い終わる前に横にいる少女が寝息を立てていることに気が付いた。
起こさないようにそっと布団を掛けると、一度だけ彼女の頭を軽く撫でて、俺もその横で静かに目を閉じた。
※ ※ ※
ここまでお読みいただきありがとうございました。
次章『沙百合』は本章を沙百合の視点から描いた物語になります。
次次章『絵梨花』まで読み飛ばしてくださっても全体のストーリーを理解する上で大きな影響はありません。
勿論、お読みいただいた方が物語の解像度は向上しますので、もしお時間があればぜひお付き合いください。
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