沙百合
【13】1日目(土)
「ちょっと先に済ませないといけない用事があるから、悪いけど先にここに行っててくれる?」
お母さんに渡された紙には、知らない町の知らない住所が書かれていた。
もう一枚渡されたのは、白くて何も書いていない封筒だった。
「そこに行ってそれを渡せば大丈夫だから」
お母さんはそれだけ言うと、駅前のロータリーに止まっていたタクシーに私を乗せた。
タクシーの後部座席から振り返ると、いままで一度も見たことのないような表情をしたお母さんがどんどんと遠ざかっていく。
家を出る前からお母さんの様子がおかしかった事には気づいていた。
海外旅行に行く時のような大きなキャリーバッグに何日分もの着替えを押し込む姿は、とても急いでいるようにも見えた。
私には小さなリュックに財布とスマホだけを入れて持たせ、学校には来週一週間は丸々休むと連絡を入れていた。
何か良くない事が起きているということは薄々気づいていたのだけど、だから逆にそれが何なのかを聞く勇気が出なかった。
それは何となくだったが、私自身に関係する事のような気がしていたから。
タクシーが止まりドアが開く。
五階建ての立派なマンションが建っていた。
お母さんに渡された紙に書いてあったのはここの事なのだろう。
エントランスのすぐ前にある小さな植え込みのブロックの囲いに座ってスマホを覗き込んだ。
お母さんからの着信はない。
電話を掛けても繋がらない。
スマホのアプリで漫画を読みながらお母さんからの連絡を待ち、気がつけばもう三時間も経っていた。
辺りは少しだけ暗くなってきていたし、スマホの残充電も赤い文字で表示されている。
ポケットから紙を取り出し、そこに書かれていた文字をもう一度読んでみる。
アプリで場所を確かめると、確かにこのマンションで合っている。
504号室だから五階なのだろう。
ブロック囲いから腰を上げると、覚悟を決めてマンションのエントランスに向かって歩き出す。
オートロックではなさそうなので、部屋のある階まではエレベーターで向かうことが出来そうだった。
エレベーターを求めてあたりを見ると、奥の方にそれっぽい広場があることに気づき向かう。
思っていた通りで、そこはエレベーターホールだった。
一台しかないそれの扉が、今まさに目の前で閉まりかけていた。
エレベーターが戻ってくるまで待とうと足を止めようとした時、ほとんど閉じかかっていたドアが左右に開く。
乗っていた男の人が開けてくれたようだった。
急いで乗り込むとお礼を言い、続けて行き先を告げる。
お母さんと同じくらい年齢だろうか。
私よりも頭ひとつ半くらい背が高い。
私が乗るのがわかって待ってくれたのだからきっと良い人なんだろうが、男の人と二人でエレベーターに乗るのは、やっぱり少しだけ恐かった。
五階に到着してエレベーターのドアが開くと、男の人はドアを手で押さえて私を先に降ろしてくれた。
会釈をしながらお礼を言って廊下に出ると、下にいた時よりも風が冷たくて余計に不安になる。
エレベーターを降りてすぐのところにある部屋の表札には501と書いてあった。
その向こうが502だから504は一番奥になるはずだ。
少しだけ足早に廊下を歩いていくと、後ろからさっきの男の人がついてくる。
502の前を通り過ぎ、503……504の前に到着した。
インターホンのボタンを押す前に少しだけ深呼吸をする。
覚悟を決めてボタンを押すと、ドアの向こうからわずかにチャイムの音が聞こえてきた。
「あの。そこは僕の部屋だけど、何か御用ですか?」
真横から声を掛けられそちらに顔を向けると、それはさっきのエレベーターの男の人だった。
エレベーターに乗っている時から少しだけそんな予感がしていたのであまり驚きはしなかったし、彼の物言いは非常に紳士的で少しだけ安心出来た。
彼は私が渡した封筒の中身を読むと真っ直ぐに――私よりもだいぶ身長が高いから見下ろしてはいたのだが――私の顔をみてくる。
三十代くらいに見えるその人は冬なのに少しだけ日焼けしていて、何かスポーツでもしているように見えた。
「えっと、君は絵梨花の……」
やはりこの人はお母さんの事を知っていた。
お母さんのことや私のことを色々と聞かれたので、私にわかっているわずかな事を全て答える。
代わりに彼も、自分がお母さんの知り合いであることと、お母さんとはだいぶ昔に疎遠になっていたことを教えてくれた。
「……お母さん、親戚いないって昔から言ってたから、嘘だってわかってました」
それでも私には、お母さんに言われた通りにすること以外に出来ることがなかった。
どうすればいいのかわからなくなり、思わず俯いてしまう。
その時、廊下の突き当りにあるエレベーターホールの方に人の気配を感じた。
この階の住人の人だろうか。
彼は急に辺りをキョロキョロと見回すと、少し申し訳無さそうに私にこう言った。
「……とりあえず、中に入ってもらってもいい?」
すぐに事情を察することが出来たので、私は彼に言われるままに玄関へと上がった。
部屋の中は想像していたよりも全然綺麗で、置いてあるものからは家族の人はいないように見えた。
彼は私をリビングに案内すると、そのままキッチンの方へと行ってしまった。
ソファーの正面にある掃き出し窓の向こうには少し大きな川が流れているようで、その向こうは田んぼが広がっている。
空の色はすでに濃い瑠璃色へと変わり、夜の帳が下りかけていた。
「そこのソファーにでも座って」
いつの間にかリビングに戻ってきていた彼に促されるままに、荷物を下ろすとソファーに腰掛ける。
出されたペットボトルのお茶を少しだけ口をつける。
私が一息ついたのを見て取ったのか、彼はゆっくりとした口調で今考えたのであろう今後のプランを聞かせてくれた。
確かにひとりで家に帰って母の帰りを待つのが一番現実的だとは思うし、それなら誰の迷惑にもならないだろう。
でも、だったら何故お母さんは最初から私にそう言って留守番をさせなかったのだろうか。
私がひとり家に帰ってお母さんの帰りを待っても、お母さんは帰ってきてくれないんじゃないか。
そんな根拠のない恐怖で、私の頭の中はいっぱいになってしまう。
「……ここでお母さんを待っていたら、迷惑ですか?」
咄嗟に口から出た言葉に私自身も驚いたが、彼はもっと驚いたのだと思う。
ビックリした顔で私の事を見る彼の顔は――こんな事を言ったら申し訳ないのだが――さっきまでは恐そうに見えていたのに、ちょっとだけかわいいと思ってしまった。
「……お母さんと連絡が取れるまでなら」
彼はそう言ってから「ちょっとコンビニに行ってくるから待ってて」と言い残して家を出ていってしまった。
少なくとも今夜の私はここに泊めてもらう事が出来るのだろう。
自分で言い出したことなのに、なんだか現実味が乏しかった。
それに、着替えも何も持ってきていないのにどうしよう。
いろいろな不安はあったが、それよりも知らない町でたった一人で夜を越すことにならずに済んだという安心感もあった。
もし彼が冷たい人だったら、私は今晩どこに泊まって明日からはどうしていたんだろう。
ソファーに座ったまま窓ガラスに映っている自分の姿を見ていた。
こんな事になってしまった今、一番のお気に入りのワンピTを着て家を出てきた今朝の自分が滑稽で惨めに思える。
手持ち無沙汰でポケットからスマホを取り出すと、充電がもう残りわずかだった事を思い出した。
もしかしたらお母さんから連絡があるかもしれない。
事後報告にはなってしまうが、とりあえず充電をさせてもらうことにした。
壁にコンセントを見つけたのだが既に何かのコードが刺さっていて、抜いていいものなのかの判断が出来ない。
リビングと繋がっているダイニングに目を向けると、電子レンジの横にひとつコンセントが空いていたので、そこに充電器を繋げてスマホを接続した。
スマホ本体は電子レンジの上にでも置かせてもらおうと思ったのだが、色々と物が置いてあるのでダイニングテーブルにその場所を求めることにする。
壁のコンセントから伸びたコードを空中に浮かせたまま、スマホ本体はダイニングテーブルの上に置く。
テーブルの上にはいくつかの調味料と、やたらとカラフルな封筒が一通置いてあった。
無意識に、ダイレクトメールであろうそれに書かれている文字を読んでしまう。
そこには聞いたことがない信用金庫の名前が書いてあったのだが、その宛先の名前に私は心当たりがあった。
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