【14】1日目(土)
「一樹……カズキ、さん」
昔からお母さんが事ある毎にその名前を口にしていた。
『これはカズキに教わった』だとか『カズキもこれが好きだった』とか、そんな風に。
小さな頃はお母さんのお友達なのだと思っていたが、中学に入る頃にはお母さんにとって特別な存在だった人だという事を理解した。
あの人が
といっても、それは私が一方的に知っているだけだけれど。
玄関のほうから鍵を開ける音が聞こえた。
リビングと廊下を隔てているドアを開けると、彼が背中を向けて靴を脱いでいた。
「おかえりなさい」
自然と口から言葉が出たあと、他人の家でその家の人に『おかえりなさい』を言ったことがなんだかおかしかったのだが、彼は気にした様子も無いようで至って普通に「ただいま」と言ってくれた。
ダイニングのスマホを回収してからリビングのソファーへと戻る。
電池の残量は相変わらず心許なかったが、もう一度お母さんの携帯に電話を掛けてみる。
五回ほど呼び出し音が鳴った後、あえなく留守番電話に変わってしまう。
「やっぱり電話、繋がらなかったです」
椅子から身を乗り出してこちらを見ていた彼にそう報告する。
「……とりあえず、もう少ししたらご飯にしよう」
しょんぼりとうなだれている私のことを気遣ってくれているのだろうが、嬉しいのと同時に申し訳ない気持ちになる。
ダイニングテーブルを挟んで彼と向かい合う。
テーブルの上には山盛りの食べ物とペットボトルの飲み物が置かれていた。
食欲はあまりなかったので、その中から食べやすそうなサンドイッチを貰うことにした。
沢山の具が詰まったそれは想像に反して食べにくかったのだが、自分で思っていたよりも空腹だったのか、胃に染み渡るような美味しさを感じた。
彼はお弁当を食べながらお酒を飲んでいた。
もしかしたら意外とマイペースな人なのかもしれない。
何か話したほうがいいような気もしていたが、ここで急に学校の話をし始めても彼を困らせてしまうだけだろうし、かといってお母さんの事は今日はもう話したくなかった。
ご飯を食べ終わると彼がお風呂を勧めてくれた。
パジャマの代わりにと貸してくれたパーカーはとても大きなサイズで、前のところに可愛らしいチンアナゴのイラストが描いてある。
部屋もそうだったがお風呂もとても綺麗で、それは彼が几帳面な性格であることを物語っていた。
お母さんが『カズキは少し病的に神経質で几帳面で、尚且つマメ』と言っていた事を思い出す。
そういえば夕食の時もペットボトルの蓋を少しだけ緩めてから渡してくれた。
少し恐い顔だけどモテなさそうな感じでもない。
それにこんなにしっかりとした人なのに、なんで独身なんだろう?
それとも、もしかしたら単身赴任で一人暮らしをしているのだろうか?
だとしたら……ちょっとまずい気がする。
新品のバスタオルで身体を拭くと、貸してもらったチンアナゴのパーカーを着て鏡の前に立ってみる。
やっぱりだいぶ大きかったが、思っていた通りすごくかわいい。
下着の替えは持ってきていなかったが、大きく動かなければ多分大丈夫だと思う。
……たぶん。
ドライヤーを貸してもらい髪を乾かしてリビングに戻ると、私と入れ替わりで彼は洗面所に入っていった。
リビングのソファーに座ると、つけっぱなしになっていたテレビのチャンネルをザッピングする。
知らないアナウンサーが聞いたことのない地名のニュースを読み上げているのを見ていると、また少し不安になってくる。
もう一度チャンネルを替えてみると、今度は聞いたことのあるタイトルのドラマが放映されていた。
途中からなので話はよくわからないが、知っている顔の俳優さんを見ているといくらか心が落ち着いた気がする。
三十分くらいそうしていると、お風呂から上がった彼が洗面所から出てきた。
「まだ起きていたのか」
私の姿を見つけた彼が言ったその言葉が、なんだか今見ているドラマのお父さん役の人みたいで、少しだけ笑ってしまう。
それをそのまま彼に伝えたが、何ともいえない複雑な顔をされてしまった。
更に三十分ほどテレビを見ていると、さっきから自分が欠伸を何度もしている事に気がつく。
「俺、先に寝るよ。おやすみ」
彼はそう言うと、私の為に用意してくれた部屋を教えてくれた。
彼が部屋に入ったのを確認してからそっと立ち上がると、荷物を持って自分の部屋へと向かう。
そこには机とベッドがあり、まるでもうひとり家族が住んでいるようだった。
スマホを充電ケーブルに繋いでからお布団に入ると、パーカーの裾が捲れてお尻が直接シーツに触れて変な気分になる。
明日せめて下着だけでもどこかで買わないと……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます