【2】1日目(土)

「ちょっとコンビニ行ってくるから」

 テーブルの上に置いてあった財布を尻ポケットにねじ込み、俺は足早に玄関へと向かった。

 ドアの外はもうすっかり真っ暗になっており、気温も先刻より更に下がっているように感じた。

 コートを着てくればよかったと後悔したが、取りに戻るのは間抜けな気がしてそのままエレベーターホールまでダッシュする。


 ペールオレンジの回数表示をぼーっと見ながら、先ほど彼女が口にした言葉を頭の中で反芻する。

『ここでお母さんを待っていたら迷惑ですか?』

 何のあてもないのであればそんな言葉が出てきて当然だろが、今夜一晩泊まる場所と、明日帰るための手段の提供を申し出た上でそう言われてしまうと、俺には彼女が何を考えているのか理解出来なかった。

 母親の知り合いだとはいえ、今し方初めて会ったばかりの遥かに年上の男の家に厄介になる理由というのが、いくら考えても全く以て思いつかない。

 ただ、そう言った彼女の肩は小さく震えていた。

 もしかしたら家に帰れない理由があるのか、あるいは――ダメだ。

 やはり材料が足りなすぎる。

 脳が機能停止する前に考えることをやめることにした。

 それに、今更くよくよと考えても仕方がないとも思っていた。

 少なくとも今夜彼女が家に泊まる事は、ほんの先ほど他ならぬ俺自身が認めてしまったのだから。

『じゃあ……お母さんと連絡が取れるまでなら』

 格好をつけたつもりではなかった。

 彼女の姿や表情があまりに切実だったこと。

 それに、彼女が絵梨花の娘だというのなら、俺に出来ることであればしてあげたいと思ったからだ。



 絵梨花とは高校に入学してすぐに付き合い始めた。

 きっかけは本当に他愛もないことで、五月に行われた一泊二日の野外学習で同じ班だったという、たったそれだけだったのだが、ほんの数時間で俺と彼女は大いに打ち解け、数週間後に俺の方から告白をした。

 少し考えさせて欲しいと言われ、一週間後に承諾の返事を貰った。

 それから同じ大学にも進み、大学二年に別れるまでの五年間を共に歩んだ。

 その長くて短かった時間は俺の人生で一番の宝物であったと、別れたあとで切に思った。

 だから他人になってしまった今でも、俺にとって絵梨花はずっと特別な存在だった。



 最寄りのコンビニで食料品とペットボトル飲料を買い、往路よりも足早にマンションへと戻る。

 玄関で靴を脱いでいると、リビングの方から足音がこちらに向かってくるのが聞こえた。

「おかえりなさい」

「あ、ただいま」

 それは一人暮らしが長い俺には、聞き馴染みも言い馴染みもない言葉だった。

 彼女はたったそれだけを言うと、出てきた時と同じようにぱたぱたと奥の方へ戻って行ってしまう。

(その為にいちいち来てくれたのかな? 絵梨花の娘だけあるというか何というか……)

 俺は一旦リビングを通り過ぎるとキッチンへと向かい、買ってきたものを手早く冷蔵庫に収めながら時計に目を向ける。

 いつの間にか十九時を少しだけ回っていた。


 リビングに戻ると、彼女はソファーにお行儀よく座りながらスマートフォンを覗き込んでいた。

 三人掛けのソファーだが、彼女の荷物が一人分の座席を専有しているので空きは一つしかない。

 そこに腰掛けられるほどには無神経な人間ではない俺は、少し離れた場所にあるダイニングの椅子に腰を下ろす。

「あの……お母さんの電話、やっぱり繋がらなかったです」

 どうやら一生懸命にスマホをいじっていたのは、母親に連絡をつけようと試みていたからだったようだ。

 彼女は不安げな表情を浮かべ、テレビのリモコンくらいしか置かれていないリビングテーブルの上に向けると、小さな身体を更に縮こませた。

 もし今俺に出来ることがあるとすれば、何か気を紛らわすようなことを言うかするかなのだろう、が。

「……もうちょっとしたらご飯にしよっか」

 


 然程広くもないリビングは完膚なきまで沈黙に支配されていた。

 重苦しい空気に耐えられなくなりテレビのリモコンを手に取る。

 普段からあまりテレビを観ない俺は、今の時間帯にどんなプログラムが放映されているのかすら把握していなかった。

 適当にチャンネルを変えているとようやく見知ったバラエティータレントの顔を見つけることが出来た。

 世界のおもしろ映像と銘打たれたその番組は、正直あまりおもしろいようには見えなかったが、毒にも薬にもならなそうなその内容は、今この時にしてみれば最適に思えた。


 ソファーに置かれた彼女のリュックに目をやる。

 持ち主の見た目と比べると少しだけ大人っぽい意匠のそれは、二十リットル程と随分と小ぶりにみえる。

 彼女から渡された封筒の中には、五万円という少なくない金額の紙幣が入っていた。

 一週間分の食費や彼女の家までの交通費としては破格だとは思っていたが、もしかしたらそれは、着替えやその他必要なものを揃えるための経費なのではないか?

 だとすれば、絵梨花はもとより俺が彼女を追い返すことはしないと踏んでいたのではないだろうか?

 さゆりが詳しい事情を知らない以上母親に聞くしかないのだが、絵梨花と連絡が付かない今、これ以上考えても仕方がなかった。

 あまり食欲はなかったが、そろそろ晩飯にしよう。


 十代――であろう――の女の子の食の好みというものが、独身でアラフォーの俺には全くわからなかった。

 コンビニの売り場で自分なりに悩んだ挙げ句、数撃ちゃ当たるだろうと過剰な数の弁当やサンドイッチを購入した。

 彼女はその中からベーコンレタスサンドを選び、それを両手で小さな口の前まで持っていくと、小動物のように”はもはも”と咀嚼を始める。

 具材が飛び出さないように注意を払っている為か、彼女は食べることに非常に集中しているように見えた。

(そう言えば……絵梨花もサンドイッチばかり食べていたな)

 俺くらいの年齢にもなると、若い頃の記憶というのは今のようにふとした時に急に思い出すくらいになってくるのだが、絵梨花と別れたばかりの頃は毎日のように彼女の事を考えていた。

 それもやはりここ十年くらいは、何かの折に懐かしさとともにボンヤリと蘇る程度になっていた。

 もっとも彼女と過ごした日々は、決して甘いだけのものではなかったことも影響していたのかもしれない。


 サンドイッチを食べ終わり、ペットボトルのお茶をこくこくと飲んでいる彼女を視界の隅に見ながら、俺は二本目のビールを喉に流し込んでいた。

 普段はそれ程飲まないほうだが、今は酒でも飲んでいなければ間が持たない。

 なぜ絵梨花は彼女を俺に預けたのか?

 たとえ近しい身寄りがおらずとも、友達であったりご近所さんであったりと、少なくとも俺よりは相応しい人間はいたはずだ。

 疑問は尽きないが、それを解決するのは明日以降になるだろう。

 今日はこれ以上彼女を質問攻めする気にもなれなかった。

 言葉を選ばずに言えば彼女も母親に騙されて今、ここにいるのだ。

 明日の朝、彼女に言って絵梨花の携帯にもう一度電話を掛けてもらおう。

 電話に出てくれれば一番良いのだが、それが無理ならメールでもいい。


 風呂には彼女に先に入ってもらった。

 案の定着替えの類は持っていないとのことだったので、抵抗は合ったが自分の服の中から女の子が着てもおかしくないようなパーカーを貸すことにした。

 歯ブラシと歯磨き粉は買い置きのものがあったはずだ。

 下着はさすがに俺のものをという訳にはいかないので、申し訳ないが明日買い出しに行くまでは我慢してもらおう。

 

 彼女が風呂に入っている間に、普段は物置として使っている空き部屋を片付けて寝床の用意をする。

 2LDKの居室のひとつは、俺が寝室兼仕事部屋として使っている。

 もう一部屋は納戸の代わりにしていたのだが、一時期人を住まわせていた時の机やベッドはその時のままになっていたので、俺の趣味の道具やキャリーケースを部屋の隅に寄せただけで、すぐに住処としての機能を取り戻した。

 布団は来客用のそれが押入れに入っていたはずだ。

 仕上げに使い捨てシート式のモップで床のホコリを取り、窓を開けて空気を入れ替えておく。


 リビングに戻るとまずは三本目のビールを開封し、続いて先ほどポストから持ってきた封筒を開封する。

 それは彼女の持参した封筒と同じものだったので、絵梨花が俺に宛てたものだということはわかっていた。


『突然のことで本当にごめんなさい。あなたに迷惑を掛けることを承知した上でのお願いです。』


 書き出しから何行かは謝罪の言葉が続いている。

 だが、その内容はといえば俺の期待に沿うものではなかった。


『あなたが一番知りたがっているであろう、私が今どこで何をしているのかは教えることが出来ません。ごめんなさい。』


 肺の中の空気を溜め息に変えて吐き出しながら、次の行へ目を走らせる。


『一週間後、その時には必ず事情を話します。どうかそれまで沙百合の事をよろしくお願いします。』


 これだけだった。

 事態の収拾につながる情報を期待していただけに落胆も大きかった。

 が、正直なところもっと不穏な内容が書き記されているのではないかという不安もあったので、そういう意味では胸を撫で下ろしている自分がいた。

 それとはまた別に、二つだけわかったことがある。

 少女は――沙百合はやはり、あの絵梨花の子供だということ。

 そしてもう一つは、恐らくはやむにやまれぬ事情で沙百合を同行させる事が出来なかったということ。

 沙百合が本当に絵梨花の娘だとわかっただけでも大きな収穫だったと思うべきだろう。

 手紙を封筒に戻すと、すっかりとぬるくなってしまったビールの残りを喉へと流し込んだ。



「でました」

 突如背後から聞こえた声に、あわててテレビのリモコンの下に手紙を隠す。

 振り返るとそこには果たして沙百合が立っていた。

 風呂に入って少しは安心したのだろうか、先ほどより幾分か穏やかな表情に見えた。

 男性もののLサイズのパーカーは彼女には大きすぎで申し訳ないと思っていたが、寝巻きとしてみた場合だとちょうどよかったかもしれない。

「あの、ドライヤー借りてもいいですか?」

「ああごめん、気が付かなくて。ドレッサーの一番上の引き出し開けてみて」

 彼女は「はい」と返事をしてからパーカーの裾を押さえながら洗面所のほうへ去ってゆく。

 時計は二十一時を少し回っていた。



 男としては長湯な方の俺だったが、今日はシャワーだけで済ませてすぐに風呂から上がった。

 タオルで身体を拭き服を着ていると、洗濯機の横に桃色の小さな布切れが落ちていることに気づく。

「……うん」

 いくら少女のものとはいえ、独身男には目の毒以外の何物でもない。

 すぐにそれを洗濯機の中に投げ入れ、その辺りにあったものも適当に放り込んで力なくスイッチを押す。

 いつもなら寝る前に浴槽を洗ってから浴室のガラス戸も拭くのだが、今日はもうそんな気力は残っていなかった。


 リビングには、普段はまったく感じることのない人の気配があった。

「まだ起きていたのか」

 ソファーの背もたれからひょっこりと顔を出した彼女は、その小さな口から小さな声を出し笑った。

 初めて見る彼女の笑顔は、やはり絵梨花ははおやのそれにそっくりだった。

「あ、ごめんなさい」

 彼女はそう言って少しバツの悪そうな顔をすると、再び笑顔を見せながらこう付け加えた。

「なんだか言い方がお母さんにそっくりだったから……」

 確かに俺も実家住まいだった頃、母親に似たようなことをよく言われた気がする。

 今日は彼女の今までの人生の中でもかなりハードな一日だったのではないか。

 頭も身体も疲れすぎて、逆に眠れないのではないのかもしれない。


 しばらくスマホをいじるをしながらその様子を気に掛けていたが、先ほどから彼女が欠伸あくびをする回数が増えてきてる。

 明日も休みなので自発的に寝てくれるまで付き合ってもいいのだが、こちらからそのきっかけを与えてみようと考えた。

「俺、先に寝るよ。おやすみ」

「……あ、はい。おやすみなさい」


 用意した寝床の場所を教えてから部屋に入る。

 案の定、ドアの向こうでも自室へ向かう彼女の気配が感じられた。

 彼女ほどではないだろうが、俺も今日はここ数年で一番疲れていた。

 目覚まし時計もセットせずそのまま布団に潜り込むと、すぐにでも寝れそうな予感がした。

 目を閉じると幾らもしないうちに、布団の重みがフッと消え失せたような感覚がし、その後のことはもう覚えてはいない。

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