【3】2日目(日)
いつもならば仕事が休みの日は昼近くまで惰眠を貪っているのだが、今日の俺はアラームの力を借りずとも、八時前には自ずと目を覚ましていた。
天井を見つめたままじっとしていると、耳鳴りの音までが聞こえてくるような、まるで昨日の出来事が嘘だと思えるほどに静かな朝だった。
ベッドから抜け出すとまずはリビングに向かった。
電気ケトルがカップ一杯分の湯を沸かしてくれている間に身支度を済ませると、出来立てのコーヒーを片手にバルコニーに出る。
今日は彼女の身の回りの物を買いに出掛けないといけないので、その前に家のことを済ませておいたほうがいいだろう。
まずは手始めに、昨夜のうちに回しておいた洗濯物を畳んでしまおう。
乾燥機能の性能の高さを見込んで購入した最新のドラム型洗濯機は、まるでホテルのタオルのように洗濯物をふかふかに仕上げてくれるからお気に入りだった。
脱衣所に充満した柔軟剤の香りに”二度寝”というワードがほんの一瞬脳裏をよぎったが、今日の俺はそこまで身軽ではないのだ。
無心になりタオルやシャツを次々に畳んでいると、洗濯物の山の下から見慣れない桃色が出土する。
一瞬手が止まりそうになるが、手早くそれを畳むと彼女が気づいてくれることに期待して洗濯機の上にそっと放置した。
そうこうしているうちに沙百合も起きてきたらしく、廊下を歩く足音が段々とこちらに近づいてくる。
「おはようございます」
「おはよう。これだけやっちゃいたいから、悪いけど冷蔵庫の中にある弁当とか、適当に温めておいてもらってもいいかな?」
「はい。わかりました」
彼女は如何にも学生といった良い返事をすると、ぱたぱたとキッチンの方に駆けて行った。
洗濯物を全て畳み終わりキッチンに向かうと、そちらでも丁度準備が整ったところのようだった。
ダイニングテーブルに向かい合って、昨日買っておいたコンビニ弁当で朝食を取る。
相変わらず会話という会話はなかったが、昨日に比べれば互いを意識している感覚は薄く感じられた。
どうせ同じ屋根の下で寝食を共にするのであれば、極力自然に振る舞えたほうが良いに決まっているのだが、如何せん俺と彼女の関係は家族でもなければ友人でもなく、誰がどう見ても赤の他人なのだ。
出会ってまだ半日ならば、これくらいの固さはあっても仕方ない。
食事を終えると、今日のタスク消化の順番に考えを巡らせる。
まずは絵梨花に電話をしてみることからだろう。
その旨を沙百合に伝えると、彼女は自分のスマートフォンを手渡してきた。
着信履歴から『お母さん』を見つけ、少しだけ緊張しながら通話ボタンを押す。
何度かの呼び出しの後あえなく留守番電話に切り替わってしまった。
文句の一つでも残しておこうかと思ったが、目の前では
仕方なく、折り返し連絡をして欲しい旨だけをメッセージに残しスマホを彼女に返した。
次に、昨日いくつか聞き忘れたことを彼女に尋ねることにした。
まずは彼女自身のことをもう少し詳しく知りたかった。
「沙百合ちゃんはさ。学校ってどうなってるの?」
彼女が学生であるとは一言も聞いてはいなかったが、姿格好から見れば十中八九はそうであろう。
「再来週は試験だから、来週は三日間だけ登校で、お母さんが学校に言って、他の日もお休みにしてもらったって」
理解するのに若干の時間を要したが、要は来週いっぱい休みを取ったということだろう。
もう一つわかったことは、沙百合自身もどこへ連れて行かれるのかは詳しくは聞いていなかったが、一週間以上の滞在であることは知っていたようだ。
次に年齢は――聞かないでおこう。
もしそれを聞いて見た目通りの年齢であったら、俺は怖気づいてしまうかもしれない。
彼女を家に泊めるという決定はもう覆す気はない以上、何があっても責任は持とうと思う。
父親の存在は――これも聞く意味がない。
母親以外に身内がないのが本当であれば、もしどこかにいるのだとしても頼ることが出来ない関係なのだろうから。
結局のところ、絵梨花からの連絡を待つしかないようだ。
「沙百合ちゃん。あの部屋は自由に使っていいから。Wi-FiのIDとパスは冷蔵庫に貼ってるから」
「はい。ありがとうございます」
一晩寝て彼女も少しは気持ちが落ち着いたからだろうか。
昨日よりも受け答えがしっかりして、表情も豊かになっている気がする。
もしこのまま一週間彼女が家にいるとすれば、俺ももう少し肩の力を抜いて彼女に接する努力をすべきかもしれない。
沙百合が『自分の部屋』に戻ると、俺は特にすることが無くなってしまった。
掃除機でも掛けようと思ったが、彼女が勉強をするようなことを言っていたのを思い出し、やめておくことにした。
洗濯物も終わっている。
洗い物はコンビニ弁当だからない。
(あ、そうだ。風呂掃除がまだだ)
やっと仕事を見つけた俺は腕まくりをしながら浴室へ向かうと、いつもより入念に床をブラッシングし、壁や天井まで丁寧に水拭きする。
マンションサイズの浴室はものの三十分でピカピカになり、俺は再び仕事を失ってしまった。
(……昼まで寝るか)
「んっ……」
大きく伸びをしながら目を覚ます。
窓から注ぐ陽の光からは、先ほどよりも青色の成分が減っているのがありありと見て取れた。
時計を見ると、十三時少し前。
少しだけ寝すぎてしまったようだ。
彼女はお腹を空かせていないだろうか。
冷蔵庫にまだ何かあったはずだったから、勝手に食べていてくれればいいのだが。
冬眠明けの
昨夜はよく寝られなかったのかもしれない。
寝室から毛布を一枚持ってきて、彼女の小さな身体にそっと掛ける。
しかし、それにしても。
こうして近くで見ると、本当に絵梨花に瓜二つだった。
柔そうな髪質に山形の眉毛、少しだけカールした長いまつげと小ぶりだが形の良い耳と鼻。
そして、薄くて柔らかそうな唇。
(……)
眠っている女性の顔をまじまじと見る行為は、お世辞にも褒められることではない。
俺はその場を後にすると、一旦部屋に戻り上着を羽織って玄関へと向かう。
何か用事があったわけではなかったが、少し外の風に当たりたかった。
何かあった時の為に携帯番号を書いたメモを彼女のスマホの下に挟んでから、静かに玄関の扉を開けて外へと打って出る。
廊下を吹き抜ける冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだあと、エレベーターを目指して歩き出した。
外の出たついでにスーパーで買い物をし、帰ってきた頃には十四時を少し過ぎていた。
彼女は丁度目を覚ましたところだったらしかった。
寝起きは良くない方なのだろうか。
ひと目で完全には覚醒していない様子が見て取れる。
「おはよう。ご飯、買ってきたよ」
手に持った買い物袋を持ち上げて見せながら、キッチンテーブルの上にその中身を広げた。
俺の仕事も最近はテレワークがメインとはいえ、平日は休みの日ほどは気軽に家をあけることは出来ないので、二人分である事を差し引いても、普段より多めの食料を入手してきた。
もっとも冷凍食品がメインなので、生鮮品は今度改めて買いに行ったほうがいいだろう。
(これだけあれば、今大地震が起きても一週間くらいは余裕で生き延びられるな)
そんな馬鹿なことを考えられるくらい、自分でも気づかないうちに余裕が出てきたようだ。
一人であったなら鼻歌の一つでも歌っていたかもしれない。
戦利品の中から洋風弁当を二つ温めると、リビングにいる彼女を呼び寄せて食事を摂らせる。
「……」
彼女はまだ半分以上夢の中にいるようだが、それでもゆっくりと箸が口と弁当を往復していた。
試しにペットボトル飲料の蓋を開けて目の前においてあげると、焦点の合っていない目で少し眺めた後、両手で持ち上げてゆっくりと口をつけていた。
ちょっと……面白いかもしれない。
一時間以上掛けて食事を取った彼女は、ようやく脳に栄養がいったからなのか、それとも顎を動かしたことがよかったのか、その大きな瞳に光を灯り始めた。
かといってまだ本調子ではないらしく、まるで冬眠明けの小リスのようにふらふらと立ち上がると黙って脱衣所に消えていく。
恐らくは歯磨きか何かだろうから放っておいても大丈夫だろう。
俺は彼女が戻ってくる間にテーブルの上のゴミを片付けておくことにした。
今日は今から彼女の日用品、とりわけ衣類のたぐいを買いに出かけなければならない。
自慢するわけでも卑下するわけでもないが、この辺りは大変な田舎である。
それ故に郊外型の大型ショッピングセンターが出店しており、家と車以外であれば大体そこで何でも買うことが出来る。
脱衣所から出てきた沙百合にその事を伝えると、身支度をするといって急いで部屋へと戻っていった。
俺はといえば、部屋に戻りジャケットを羽織ると財布を尻のポケットに突っ込むだけというお手軽さで準備を完了させる。
女性の支度は時間が掛かるとの通説に反し、沙百合はものの五分でリビングに戻ってきた。
今時の若い子たちは皆化粧をするものだと勝手に思っていたが、彼女はまだそういう年齢ではないのかもしれない。
靴をとんとんしながら外廊下に出てきた沙百合は、少し眩しそうに目を細めながら眼下に広がる景色を一望した。
「景色だけはいいでしょ、ここ」
「はい。昨日はちゃんと見れなかったけど、すごくいいと思います」
「俺もそれがあって、もうここに住み続けて二十年にもなるよ」
「え? 二十年ですか? すごい、私が生まれる前から住んでるんですね」
彼女に悪気がない分逆に、大いに堪えたのだった。
エントランスの車寄せの下で待たせていた彼女に目配せをし助手席に座らせると、いつもより少しだけ緩めにアクセルを踏んだ。
最近のカーナビはリアルタイムで混雑状況を把握し、一番空いている道を選んでくれるらしい。
機械音声に案内されたのはあまり走ったことのない道だったが、確かに普段使うルートに比べるとブレーキを踏む回数が少ないように感じた。
地図画面から視線を戻すついでに助手席の彼女の顔を覗き見る。
流れる景色に興味津々といった様子で、小さいこどものように窓に齧りついていた。
俺にとっては二十年も住んでいる見慣れた風景だが、彼女にとっては数百キロメートルも離れた土地の知らない風景なのだ。
「あの……。あれって海ですか?」
窓から戻した視線をこちらに向け彼女はそう尋ねてきた。
「ああ。海っぽく見えるけど実は湖なんだ。海と繋がっているから
汽水が理解出来たかどうかは不明だったが、彼女「へぇ~」と言ってまた車窓の風景に目を戻した。
「あの水の中からいっぱい生えてる竹みたいなのは?」
今度はこちらを振り返る事なく聞いてくる。
「海苔を養殖してるんだと思う。たぶんだけど」
「……のり」
どんなプロセスであの竹から海苔が生成されるのかは俺も知るところではなかったので、彼女がそれを聞いてこなかったことに少しだけ安堵する。
覚えていたらあとで調べておこうと、子供の頃の無邪気さを思い出しながらそう思った。
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