5階角部屋504号室

青空野光

504号室

【1】1日目(土)

 まだ十月の半ばだというのに、スーツの上にコートを羽織ったビジネスマンや首にマフラーを首に巻いた学生の姿をよく目にした。

 冷夏の年は暖冬になる確率が高いと聞いたことがあるが、どうやら今年に関してはその限りではなかったようだ。


 俺は夏の暑さが苦手だったので冷夏の今年はむしろ嬉しいくらいだった。

 だが、それが世間も同じかといえば一概にはそうではなかったらしい。

 夏の気温の低さが災いし、各地で秋野菜の不作が相次いでいると今朝のニュースで耳にした。

 男の一人暮らしということもあり、野菜価格の高騰を実感する機会こそあまりなかったが、それでも気づかないうちに弁当に入っている野菜の量が減らされていたり、価格がいくらか値上げされているのかもしれない。


 俺はコンビニでその影響を受けているかもしれない弁当を買うと、いよいよ冷え込みの強くなってきた夕方の県道を家路へと就いていた。

 土曜で仕事が休みだった今日は、趣味の登山道具を見に隣町まで足を伸ばした。

 生憎お目当てのものは売り切れだったので、仕方なく取り寄せの手続きをして店をあとにしたのが先ほどのことだ。

 それだったら最初から通販を利用したほうが余程効率的だったが、一週間以上動かしていなかった車の機嫌を伺う目的もあったので、全くの無駄足というわけでもない。

 いつの間にか作動していた車のオートライトに、季節が着実に冬へと向かいつつあることを実感する。

 現にまだ十七時を回ったところだったが、もう空の東半分は夜の藍色に支配されていた。


 大学進学時に引っ越してきたマンションは基本的にファミリー向けの物件で、それが故に部屋数も多かった。

 それでいて不便な立地であることから、家賃はかなりリーズナブルだ。

 2LDKの間取りは完全に持て余していたが、そのお蔭で手狭を理由に引っ越しを考えることもなく卒業してからも住み続けて、いつの間にかもう二十年にもなる。

 五階建てで十八世帯と然程さほど大きくはないマンションだが、裏手には川が流れており田園の広がる対岸の眺めは抜群にいい。


 マンションの駐車場に車を止め、いよいよ冷え込んできた外気に肩をすくめながらエレベーターホールに向かっていると、ふと視界の隅に集合ポストが目に入る。

 どうせくだらないDMばかりだろうが、小さなポストは何日かですぐにいっぱいになってしまう。

 ついでなので回収しておくことにしよう。

 ポストのドアを開くと案の定、大量の郵便物が雪崩のように落ちて足元に散らばる。

 小さく溜め息をつきながら腰を屈めてそれらを拾い集めていると、カラフルな色使いのDMに紛れて、明らかに一通だけそれらとは異なる真っ白な封筒が目に留まった。

 宛名は間違いなく俺なのだが、表にも裏にも差出人の記載がない。

 内容が気になりはしたがその場で開封するほどでもなかったので、他の郵便物と一緒に手に下げたコンビニ袋に突っ込むとエレベーターホールへと急いだ。

 エレベーターは運良く一階に止まってくれていた。

 行き先に続けてドアの開閉ボタンを押下する。


 徐々に縦長になっていく世界をぼんやりと眺めいた、その時だった。

 エントランスの向こうから見慣れぬ姿形の少女が歩いてくるのが見えた。

 キャメルカラーのコートの下にワンピースタイプのTシャツを着た、体格からして中学生か高校生だろう。

 こちらに歩いてくるということはエレベーターに乗るのは間違いない。

 一瞬迷ったが開閉ボタンを押してドアを開ける。

 一旦歩みを止めかけていた少女は、閉じかけたドアが開くのを確認すると、その小さな身体を揺らしながら小走りで駆け込んでくる。

 そして、ペコリと頭を下げると小さな声で「五階、お願いします」と言った。


 五階ボタンは十数秒前の俺によって既に押されていたのだが、意味が無いことを知りつつももう一度それを押し込む。

 俺と少女を乗せたエレベーターは、僅かな駆動音を立てながら最上階を目指し昇っていく。

 五階には俺の部屋以外だとニ組の入居者がおり、そのどちらもが若い家族だった。

 廊下やエレベーターで顔を合わせれば挨拶をする。

 そんな程度の付き合いしかなかったが、顔と家族構成くらいは知っているつもりだった。

 少女はコートの襟に付いたフードを目深に被っているせいで顔を見ることは出来ないが、少なくともそのどちらの家族の構成員でもなかった。

 だとすれば、いずれかの家族の知り合いなのだろう。

 そんな事を考えていると、エレベーターの機械音声が目的の階に到着した旨を告げた。

 開いたドアを手で抑えながら目配せをすると、少女は小さくお辞儀しながら「ありがとうございます」と礼を言い、パタパタと音を立てながら急ぎ足で俺の小脇を通り抜ける。

 少女のすぐ後ろに続くことに若干の抵抗があった俺は、十秒ほどその場で待機してからエレベーターを後にすると自宅へと向けて廊下を歩く。

 マンションの外廊下に吹き付ける風は、地上のそれよりもいくらか強くそして、とても冷たく感じた。


 五階には四つ部屋がある。

 エレベーターを降りて順に、501号室、502号室、503号室、504号室と並んでいた。

 俺の部屋は一番奥の504号室で、隣の503号室は今年の春からずっと空き部屋になっている。

 少女がどの部屋の住人に用事があるのかを知りたいわけではなかったが、後ろを歩いている以上否応なしにその背中が目に入った。

 501号室の前を通り過ぎ、502号室の前で……止まらない。

 まさか俺が知らない間――といっても今日は四時間ほどしか家を空けてはいなかったが――に、503号室に新しい入居者が引っ越してきたのだろうか?

 角部屋且つ横は空室という気楽さを謳歌してきた俺にとって、それはあまり喜ばしいことではなかった。

 もっとも、このマンションは隣室の音が聞こえるような安普請やすぶしんというわけでもないので、それも気持ち的な問題でしかないのだったが。

(まあ、いつまでも空き部屋なわけもないしな)

 もし俺が想像した通りであれば、いま少女にひとこと声を掛けておくべきだろうか?

 それとも先方が挨拶に来るのを待ったほうがいいだろうか?

 などと考えを巡らせているうちに、少女は503号室も通り越し504号室おれのへやの前に立つと、細い腕を真っ直ぐに伸ばしてインターホンのボタンを押したのだった。


 彼女くらいの年齢の娘がいる知り合いには何人か心当たりがあったが、その人達の娘が俺を訪ねる用事があるとは考えにくい。

 そうなると、彼女は一体何者で俺に何の用事があるというのだろうか。

 一瞬立ち止まりそうになったが、ここで棒立ちして少女を眺めていたら、それこそ不審者以外の何者でもない。

 そのまま少女に近づくと、驚かさないようになるべく穏やかな声色を作り話しかけた。

「あの? そこは僕の部屋だけど何か御用ですか?」

 少女はインターホンに伸ばしていた腕を畳みながらこちらに向き直った。

 そして、三度みたび小さく会釈をし、手に持っていた白い封筒を俺の前に差し出したのだった。

「えっと、これは?」

 頭の上にはてなマークを浮かべたままでそう聞くと、少女は消え入りそうな小さな声でこう言った。

「あの、これ。お母さんが渡せって」

 お母さん? この子の?

 まったくもって意味はわからなかったが、少女に再び質問をするよりもまず、その封筒の中身を確かめるのが筋であろう。

 俺は手に下げていたコンビニ袋を通路の床に置くと、少女から受け取った封筒の中身を確認する。

 中には薄い便箋が一枚と、あと一万円札が五枚ほど入っている。

 風で飛ばされないように気をつけながら、二つ折りにされていた便箋を開く。

 便箋には一番上の行にたった一言だけ文字が書いてあった。


『娘を預かってください。一週間後に必ず迎えに来ます。 佐々木ささき絵梨花えりか


 そこに書いてあった名前は俺がよく知った人物のもので、高校と大学生時代に付き合っていた女性の名前がその佐々木絵梨花であった。

 だが、もう随分前に別れて以降一度も連絡をとっていない。

 一昨年の年始に行われた高校の同窓会にも彼女は顔を出さなかったので、丸々十八年は会っていない計算になる。

 そんな彼女が、なぜ。

 いや、それ以前の問題として……。


 紙から視線を上げると、不安げにこちらの様子を伺っていた少女と目が合った。

 改めて見た彼女は随分と幼いように感じ、少なくとも成人していないのは間違いないだろう。

 身長は一五〇センチメートルくらいで、痩せ型の体型に黒髪のショートヘア。

 顔は彼女に――確かに絵梨花に瓜二つだった。

「あの」

 不意に少女の薄く形の良い唇が開く。

「あの。お母さんに、ここの住所に行けって言われて……」

 そう言って見せられた紙片には、確かに俺の部屋の住所が書かれている。

 状況はまったく飲み込めないが、とんでもない事が起きていることは薄々感じていた。

「えっと……君は」

「さゆりです」

 俺はさゆりと名乗った少女に、思いつく範囲で幾つかの質問をすることにした。


 彼女はどうやら絵梨花――母親には、親戚の家に行くと聞かされていたらしい。

 この町の最寄り駅で母親に『先に済ませたい用事があるからこの住所で待っていて』と言われ、一人でタクシーに乗ってここまで来たそうだ。

 マンションの下で三時間ほど待ったが母親はやってこず、電話を掛けても繋がらず、仕方なく住所に書かれていた部屋を訪ねてみたのだという。

 他には母親以外に身内らしい身内が居ない事や、ここから五県も離れた場所に住んでいる事を聞き出せたが、もっとも知りたかった絵梨花が何故この子を俺のところに寄越したかについては結局わからなかった。

 替わりに俺は、住所は確かにここで合っていることと、それに自分は絵梨花の親戚ではないが学生時代の知り合いであることを彼女に教えた。

 彼女は丸く大きな瞳で俺の顔を覗き込みながら話を聞いていた。

 だが、俺が彼女の求める属性の人物ではなかったことを知ると、次第に表情を曇らせ終いには俯いて黙ってしまった。

『母親に捨てられた』

 そう考えるほど彼女は幼くはないだろうが、逆にいえば自身が置かれた状況を何となしでも理解出来たのだろう。

「お母さん、親戚いないって昔から言ってたから。だから、嘘なんだろうなって。そんな予感はしてたんです」

 マンションの廊下を吹き抜ける風にかき消されてしまいそうな小さな声で、彼女はそう呟くと、再び視線を自身のつま先に戻して黙り込んでしまう。

 何か気の利いた言葉でも掛けようと思ったが、生憎なことに適当なものが見つからない。

 にもかくにも、いつまでもこんなところで立ち話をしているわけにはいかないだろう。

 彼女がただの家出少女ならば警察にでも相談するのが筋なのだろうが、この子はおそらくではあるが知り合いの娘だ。

 交通費を渡して自宅へ帰らせるか――いや。

 この時間からでは今日中には家に着かないだろう。

 それならば、今からでも駅前のビジネスホテルに部屋をとってやろう。

 それで、明日の朝にでも電車のチケットを手配してあげれば、彼女の年齢ならひとりで留守番も出来るはずだ。

「えっと。さゆりちゃんだっけ?」

 今思いついたばかりの案を彼女に説明しようと思った矢先、廊下の突き当りにあるエレベーターホールから人の気配がした。

 四十路も間近の独身男が自宅の前で、歳がその半分にも満たないような容姿の少女と一緒にいるというのは、どう考えても世間体が良い訳がない。

「……とりあえず、中に入ってもらってもいい?」


 男の一人暮らしとはいえ、俺は掃除や洗濯といった家事一般は卒なくこなしていた。

 故に見られて恥ずかしいような部屋でなかったのは幸いだ。

 玄関を開けるとそこは見慣れた自分の家だったが、すぐ後ろには見慣れぬ少女が立っている。

「どうぞ」

 そう言って彼女をリビングに通すと、何か飲み物でも出そうと思いキッチンへと向かった。

 一人暮らしには不相応な大型サイズの冷蔵庫の中の奥から、緑茶のペットボトルを探し出してグラスに注ぐ。

 きびすを返してリビングに向かうと、彼女は入ってきた時と同じようにリュックを背負ったままで部屋の入口近くに立っていた。

「そこのソファーにでも座って」

 言われるがままに荷物をソファーの上に置くと、少女自身もその横に膝を揃えて座った。

 俺は少し離れたパーソナルチェアに浅く腰掛け、先程考えた案を出来るだけわかりやすく説明した。

 もし電車の乗り換えに不安があるのであれば、それが必要なくなる駅までは同行するというオプションも急遽付け加える。

 最初は小さく相槌を打ちながら話を聞いていたのだが、途中から下を向くと返事をしなくなってしまう。

「……どうしたの?」

 子供に話し掛けるようにそっと問い掛けた俺に、彼女はまたしても聞き取れないほど小さな声で返事をした。

「……だめですか?」

「うん?」

 何のことだろうかと聞き返す。

 少女は少しだけ顔を上げ、先ほどより僅かに大きな声で言った。

「……お母さんが帰ってくる来週まで。ここに居させてもらったらだめですか?」

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