【38】忘れません

 目を覚ますと、隣りにいたはずの彼女の姿が見当たらなかった。

 恐らくは自分の部屋に戻ったか、トイレにでも行っているのであろう。

 スマホの画面に目を落とす。

 もはや朝と呼べないような遅い時間だった。

 冬眠明けのクマのようにのそのそと布団から這い出て服を着ると、朝――昼飯の支度をするためにリビングへと向う。

「おはようちゅん太。君のご主人さまは?」

「……」

 どうやらちゅん太にも心当たりがないようだった。


 冷蔵庫から取り出した昨日の残りのポトフをレンジに突っ込んだ後、彼女の部屋のドアをノックする。

 返事はない。

 その足でトイレに向かう。

 いない。

 汗を掻いたので風呂にでも入っているのかもしれないと思い、洗面所のドアに耳を近づけてみる。

 いない。

 彼女がいない。

 どこにもいない。


 彼女の部屋へと急ぎ戻りドアを開ける。

 ベッドの上の布団は綺麗に畳まれ、少ない私物も全て無くなっていた。

 その代わりに机の上に、一枚の紙切れが広げて置かれていた。

 紙に伸ばした自分の手が震えていることに気づき、深呼吸をしてからその内容に目を通した。



 一樹さんへ


 家に帰ります。

 突然で本当にごめんなさい。

 お母さんにはひとりで帰ったと伝えて下さい。

 私とお母さんが大変な迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい。

 一樹さんと出会えたことは一生忘れません。


 P.S.

 ちゅん太は預かってもらってもいいですか?

 いつか必ず迎えにいきます。


 沙百合



 自分の部屋に飛んで戻り彼女のスマホに電話を掛けるも、電源が入っておらずにつかまえることが出来ない。

 だったら車で駅まで――。

 そう思った直後に手紙の文面を思い出す。

 彼女の性格からするとあまりに淡白なそれからは、ある種の決意のようなものが滲んでいた。


 失意のどん底に落ち込みながらリビング戻ると、キッチンでレンジがピーピーと音を立てて内容物の回収を催促していた。

 二人分のポトフを取り出すとダイニングテーブルに着く。

 昨夜よりも味がよく染み込んだポトフは超美味しかった。

 


 空にオレンジ味が増してきた頃だった。

 リビングにチャイムの音が鳴り響く。

 ドアホンで対応せずに、そのまま玄関まで行きドアを開ける。

 果たして廊下に立っていたのは、俺の記憶の中にあった彼女と殆ど変わっていない、あの頃のままの元恋人であった。

「……絵梨花」

 彼女は手にしていたキャリーバッグを自身の横に立てて置くと、俺に向かって深々と頭を下げる。

「本当に……本当にごめんなさい」



「……そう。あの子、ひとりで帰ったのね」

 来客用のティーカップに口を付けながら絵梨花が呟く。

「うん。多分、大丈夫だよ。沙百合ちゃん、俺なんかよりもよっぽどしっかりしてるから」

「そうね。ちょっとおっちょこちょいだけど手の掛からない、本当にいい子だから」

「見た目もだけど、そういうところも母親にそっくりだね」

「……もう!」


 絵梨花とは多くのことは話さなかった。

 彼女の家のことは他人の俺が踏み込むべきではないし、俺から話すことも――なくはなかったが、それも今である必要はないだろう。

「そういえば沙百合ちゃんと約束しちゃったんだよね。来年の夏に潮干狩りに連れてくって」

「昔いったよね、一緒に。一樹はアサリの模様が苦手だって言って、あんまり採らなかったけど」

「だってキモいじゃんあれ。まあ、そういうわけだから待ってるよ、来年」

「うん、ありがとう」


 車で絵梨花を駅まで送り、ドアが閉まる直前。

 沙百合にあてた一言だけの伝言を頼む。

「君の相棒が寂しがってるから、早く迎え来てやってって。そう伝えておいてほしい」

「うん、わかった。本当にごめんなさい。それにありがとう」


 彼女が駅舎に向かって歩き出したのを見届けると、車をゆっくり発進させて家路に就く。

 急いで帰ったところでもう、誰かが待っていてくれるわけでもない。

 どこかに寄り道でもして帰ろうか。

 明日からは何をして過ごそうか。

 そもそも俺はひとりきりの週末をこれまで、どうやって乗り切っていたのだったろうか。

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