一樹
【35】もしも
『一樹』
「……」
『起きて一樹。もう朝だよ』
「……イヤだ」
『もう! 知らないからね!』
「俺も……知らない」
『――そう』
唇に柔らかいものが触れる。
その感触を俺はよく知っていた。
「……絵梨花?」
ホテルの薄暗い建築化照明に浮かび上がった髪の短いシルエットを見た瞬間、
「おはようございます」
「……おはよう」
今しがたのやり取りが果たして夢の続きであったのかどうかは、とてもではないが恐ろしくて訊ねることなど出来なかった。
「かずきさん。もう一度だけお風呂に入ってもいいですか?」
「あ……うん。でも、あと一時間くらいで時間だから」
「はい。急いで入ってきます」
三十分して戻ってきた彼女と入れ替わりシャワーを浴び終わったところでチェックアウトの時間になってしまい、濡れた髪も乾かさずにホテルを後にする。
「沙百合ちゃん。家に戻る前にどこか寄っていきたいところある?」
「じゃあせっかくお天気がいいから、どこか景色がいいところに行きたいです」
「ん……。少しだけ遠回りになるけどいい?」
「はい、もちろんです」
冷夏の年は暖冬になる事が多いと聞いたことがあるが、今年はどうやらその限りではないようだった。
まだ十月の終わりだというのに、スーツの上にコートを羽織ったビジネスマンや、マフラーを首に巻いた学生の姿をよく目にした。
ただそれは昨日までの話であり、今日の気温はまさに例年通りといった風で、今こうして車の窓を全開にして走っていても寒いどころか快適そのものだった。
湖岸に沿って作られた道路を走る。
波一つ立っていない湖面は見渡す限りに晴天の青さを映し、それはまるで行ったこともないどこかの国の塩湖を連想させた。
彼女もそれは同じだったのか、先ほどからスマホを構えると一生懸命に撮影をしている。
「その写真どうするの?」
「お母さんに見せます。一樹さんに色々なところに連れて行ってもらったって」
俺はその”色々なところ”に、昨夜泊まったホテルが含まれていないことをこっそりと願った。
やがて車は有料道路の料金所を通過すると、湖の上を渡る長大な橋梁へと差し掛かった。
「すごい! 船に乗ってるみたい!」
「もうちょっと行ったところに駐車出来る場所があるから。そこで少し景色をみてからまたハンバーグでも食べて帰ろっか」
「はいっ!」
とても良い返事だった。
湖上道路の中間地点にあるこの場所は、二十台分ほどの駐車場が整備されており、週末ともなればカップルや家族連れ、それに県外ナンバーを付けたドライブ客で溢れかえるのだが、
「沙百合ちゃん。そっちの階段から水辺のすぐ近くまで行けるよ」
「わーい!」
完全に仔犬のようになった彼女に腕を引っ張られて階段を下りると、まさに手を伸ばせば届く位置にまで湖面が近づき、急に潮の香りが濃くなった。
「もう少し早ければ潮干狩りとかも出来たんだけどね」
「え? ほんとですか? 今は? 貝、もういないの?」
「多少はいるかもしれないけど。でもシーズン外だと漁業権の問題とかで勝手には採れないし、そもそも風邪引いちゃうよ」
「じゃあ来年また連れてってください」
「……うん、いいよ」
階段の一番下の段に並んで腰掛け、遥か彼方の対岸を眺める。
そういえばここには高校生の頃に、絵梨花や友達のカップルとWデートと称して来たことがあった。
その時に確か絵梨花も『また今度来た時は泳いでいい?』と言っていた気がする。
血は争いえないというかなんというか、どうやら彼女らは天真爛漫なところが似通っているようだった。
「かずきさん」
「ん?」
「もしもの話、してもいいですか?」
「いいけど、でも水に入っちゃ駄目だからね」
「違います」
「ごめん、冗談。それで?」
彼女は少しだけお尻を浮かせると、こちらのほうに四十五度身体を向けて顔を上げた。
(……本当にあの頃の絵梨花にそっくりだな)
違うところといえば絵梨花のほうがもう少しだけ背が高く、髪も長かった。
「もし、ですけど」
「うん」
「もしこのまま私が、かずきさんの家の子になりたいって言ったら」
そんな
そう言いそうになって、この一週間のあいだに起きた様々な出来事を思い出す。
「そうしたら絵梨花は寂しがるだろうね」
卑怯者の返し方だった。
「……わかりました。じゃあ、お母さんにも相談してみます」
「相談って?」
「三人で一緒に暮らせる方法を、です」
「え? もしもの話じゃなかったの?」
「じゃあ、お母さんにも『もしも』って付けて相談してみます」
俺の中で”もしも”の概念が多少揺らいだような気がした。
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