【34】ごめんなさい

 そして翌朝。

 娘を連れて駅へと向かい、そこから新幹線を乗り継いで懐かしい町へとやってきた。

 私の人生が一番輝いていた、高校と大学時代を過ごした町。


「沙百合。お母さんちょっと行くところがあるから、悪いけど先にこの場所に行っててくれる?」

「お母さんはどこに行くの?」

「こっちのお友達が入院しててね。お見舞いをしたらすぐにそっちに行くから。あとこれ、その住所のお家の人に渡しておいて。それを見てもらえばわかるようになってるから」

「……うん」

 我ながら何て雑な嘘なのだろう。

 彼女だってそんなことを信じているわけがないのに、それなのに何故、素直に首を縦に振ってくれたのだろう。

「ごめんね、沙百合」

「……ううん」


 娘を乗せたタクシーが見えなくなるまで見送ったあと再び駅の構内へ戻ると、今度は空港の最寄り駅へと向かう電車に飛び乗る。

 娘に嘘をつき。

 友人にも嘘をつき。

 元恋人には大変な厄介を掛けようとしている。

 最低な母親。

 最低な友人。

 最低な人間。

 最低。

 最低。


 一時間掛けて空港に着くと、前日の夜に手配しておいた電子チケットで北海道へと飛んだ。

 行き先は昨日の朝に電話を掛けてきてくれた故郷の警察署で、目的は姉を引き取るため。



「遠いところを本当に申し訳ないです。ご身内の方があなたしかおられなかったようなので」

「こちらこそ、姉が大変なご迷惑をお掛けしてしまって。本当に申し訳ありません」

「いえ、それは仕事ですから。では、こちらです」


 自動車免許の更新以外で警察署に来たのは初めてだった。

 もっと重々しい雰囲気の場所かと思っていたそこは、なんてことないただの役所のように思えたが、私が連れて行かれた建物の一番奥の部屋のドアはとても冷たい雰囲気で、やはりただの役所とは異なった場所だと今し方の考えを早速改めた。

 両開きのスチール製のドアから部屋の中に入る。

 がらんどうとしたそこの奥には小さな祭壇があり、その前に置かれたアルミ製のストレッチャーの上に姉はいた。

 正確にいえば、姉と思しき遺体の入った黒い袋が置かれていた。

「状況や持ち物などから御本人であることは間違いないと思うのですが。その、お身体が大変損傷しているので、実際に見ていただいてもわからないかもしれません。ただ、そういう決まりになっていますので、本当に心苦しいのですが」

「いえ、大丈夫です。お願いします」

 本当は少しだけでも心の準備をする時間が欲しかったのだが、いくら仕事とはいえ警察の方達にこれ以上迷惑を掛けたくないという気持ちがあった。

 そして、彼は手慣れた様子で納体袋のファスナーを下ろした。

「おわかりになりますでしょうか?」

 袋の隙間から見えたそれは、私の記憶の中にある姉の姿ではなかった。

 では人違いであったかというと、それは違っていた。

「……首のホクロ……おねえちゃん……姉です。姉で間違いありません」

「ありがとうございました。それでは手続きの方をして頂きたいのですが」

「……はい」


 地元の葬儀社に遺体の運搬と安置をお願いし、タクシーで予約してあったホテルへと向かう。

 タクシーの後部座席から流れる景色をぼんやりと眺めていると、バッグの中から聞き慣れた着信音が鳴り響く。

 昔好きだったアイドルグループのその着信メロディーは、娘からのもので間違いなかった。

 でも、私は出ることをしなかった。

 それは昨日の夜、彼に娘を預かってもらおうと考えた時に決めた、完全に私の身勝手な取り決めであった。

 もし何かの理由で、彼が娘を預かってくれなかったとしても、自分で家に帰ることの出来るだけのお金はあの封筒に入れてあるから、いくら少し頼りないあの子でも路頭に迷うようなことにはならないだろう。

 それに預金の入った通帳と印鑑も、リビングのテーブルの上に出しておいた。

 鳴り止まない着信音が泣き声のように聞こえる。

「……ごめんね」

 娘の声が耳に届かないようにバッグを強く抱きしめた。


 翌日の昼過ぎ。

 葬儀社に手配してもらった僧侶に簡単にお経を上げてもらうと、姉はたったの一時間で空へと昇っていった。

 私たち姉妹が生まれ育った家のある町へと戻るために、小さな箱の中に収められた姉を抱えタクシーに乗る。

 きのう警察に渡された姉の僅かな持ち物の中に、私たち姉妹がまだ幼かった頃、夏祭りの夜店で母におねだりして買ってもらったおもちゃの指輪を見つけた。

 私のそれはいつ、どこへとやってしまったのだったか。

「……おねえ……ちゃん」

 ああ。

 姉のことで涙を流したのは確か、彼女が両親とケンカして家を飛び出していったあの日以来だ。

「お姉ちゃん……お疲れ様」

 どうか安心して眠ってください。

 あなたと私の娘は、本当にいい子に育ってくれたから。


 父と母、それに姉が鬼籍に入ったことで、私の家族は沙百合だけになり、沙百合の家族もまた私だけとなってしまった。

 姉の変わり果てた姿を目にした途端に、どうにかなってしまうのではないかという、そんな漠然とした不安があった。

 それに警察からの電話で遺体の状態を聞いていたので、沙百合をこの地に連れてくることも躊躇われた。

 だからといって二十年近くも会っていない、今や他人に他ならない一樹に娘をおしつけようと思ったのは、きっと彼だったらという一方的な、それでいて確信めいた思いがあったからだった。

 自分に何かがあった時の後見人、というと少し大袈裟かもしれないが。

 それでも彼であれば娘を悪いようにするはずはないし、それにもしかしたら――。


 ここに来た一番の目的を終えた後も、私はなお北海道に留まり続けていた。

 それはもし姉が戻ってくることがあればと、両親が亡くなってからもそのままにしておいた家を処分する為だった。

 思いの外早く良心的な不動産屋に巡り会えたことによって、ここに来て六日目の今日にその目的は達成出来た。

 ただ困ったことに季節外れの大雪が当地を襲い、唯一の交通手段である空路が断たれてしまった。

 それを今さら娘に伝えようとした電話で、私は彼女に酷いことを言ってしまった。

『お前は何も知らないのに』

 我ながらよくそんな事は言えたものだ。

 彼女が何も知らないのは、私が事実を隠していたからに他ならないのに。


 私のスマホに何度か着信していた知らない番号。

 これは多分、一樹からのものだろう。

 だったら彼に連絡を――と思ったが、それは私の勇気が足りずに出来なかった。

 何と言えばいいのだろう。

 何と詫びればいいのだろう。

 姉は奔放で身勝手で無責任な人だった。

 私の身体にも間違いなく同じ血が流れているのだと、今回の件で痛いほど思い知ることとなった。

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