絵梨花

【33】いつも通り

 母親に似て寝起きの悪い娘を五分も掛けて起こしたあと、食パンをトースターにセットしてからフライパンに卵を二つ落として焼く。

 そんな何一つ変わったことなど無い、いつも通りの金曜日の朝。


 ふいにリビングで電話が鳴る。

 すぐ近くのソファーには沙百合がいるが、起き抜けのあの子に電話の対応が出来るとは到底思えなかった。

 仕方なく未完成の目玉焼きの火を消してから、濡れた手をエプロンでぬぐいつつ電話に駆け寄る。

「はい、もしもし」

『おはようございます。朝早くに申し訳ありません。佐々木ささき絵梨佳さんのご自宅で宜しかったでしょうか?』

「はい。絵梨佳は私ですが」

わたくしは北海道――』


 青天の霹靂だった。

 何ひとつ変わったことなど無いはずだった、いつも通りであるはずだった金曜日の朝。

 私に電話を掛けてきたのは、かつて暮らしていた土地の警察署の刑事さんだった。

「あの……もしかして、姉が何か?」

 中学を卒業するまで住んでいたその町には、当時の知り合いもまだ多く住んでいるはずだ。

 それなのに、真っ先に思い浮かんだのは姉の顔だった。

『佐々木さん。もし今お立ちのままで電話をお取りでしたら、一旦お座りいただけませんか?』

 紳士然とした刑事さんのその気遣いは、電話の内容が私が想像しているようなものだと暗に報せていた。

「お心遣いありがとうございます。少々お待ちいただけますでしょうか?」

 会話の内容を娘に聞かれないよう、電話機を持ったままリビングから寝室に移動する。

「お待たせいたしました。それで、姉は――」


「――はい。明日の夜には必ずお伺いします。姉が大変なご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ございませんでした。はい、失礼いたします」

 リビングに戻ると、ようやく目を覚ました娘が不思議そうな顔でこちらを見てきた。

「お母さん? 顔色悪くない? 体調悪いの?」

「あ、ううん。ごめんね」

 なぜ私はごめんなどと言ったのだろうか。

「ご飯、私が作ろうか?」

「ううん……あっ! 目玉焼きがまだ途中だった!」

 すっかりと冷めてしまったトーストと固焼きになってしまった目玉焼きを娘に食べさせ、いつものように学校へと送り出す。


 娘が登校してから一時間。

 会社へと向かう電車内で、玄関の鍵を掛け忘れたことを思い出す。

 だが今の私にとって、そんな些細なことはどうでもよかった。

 始業直前に上司のデスクへと向かい、今朝あった電話の内容、そして今まで誰にも話したことのなかった家族のことを説明し、土日の前後に一日ずつの有給を付け、合計四日間の休みを貰えないかと相談した。

 その結果いまが閑散期だったこともあり、四日どころか翌週一杯、計十日間もの休みを貰えることになった。

 そこには昨今持て囃されている”働き方改革”の威光もあったが、持つべきは部下思いで話の分かる上司であると痛感した。


 いつもよりも気合を入れて仕事に取り組む。

 それは明日からの急且つ私的な休暇が心苦しかったということもあったが、それよりも今朝起きたことを考えないようにしたいという、自分の為であったような気がする。

 いつも通りに仕事をこなし、定時の前には本日分のノルマは全て上げることが出来た。

 受け持っていた仕事の引き継ぎのために二時間だけ残業をさせてもらい、自分が抜けることで生じる穴を少しでも小さくしてから、閉店間際のスーパーマーケットで買った惣菜を力なくぶら下げると、娘の待つ自宅へと急いで戻った。


「沙百合。明日から一週間くらい出掛けるから支度しておいて」

「え? 出掛けるってどこに? 学校は?」

 大きな疑問符を頭の上に浮かべた娘に対し、半分以上が嘘にまみれた説明をする。

 聡い彼女は納得した”振り”をして準備を始めた。

 私も気づかない”振り”をして自分の支度のために部屋へと向かう。


 晩御飯を済ませてから再び部屋に戻ると、充電ケーブルに繋がれたままのスマートフォンを手にし、大学時代の友達の中で唯一連絡を取り合っていた親友に電話を掛ける。

「あ、透子とうこ? 急にごめんなさい。透子って大学の近くに住んでたわよね? うん、それでね。あの人って……一樹ってまだ、あのマンションに住んでるみたいって前、言ってたじゃない? え? 違うよ! そんなんじゃないんだけど……うん。じゃあ今でも独りで? うん――」


 親友に礼を言い電話を切る。

 大学二年の時、一方的に別れを切り出してから二十年近くになるが、彼はまだ二人で暮らしていたマンションの部屋に独りで住んでいるらしい。

 私が彼の人生を狂わせてしまった――というのは、いくらなんでもおごりすぎかもしれないが、彼ほどの男性が今だに独り身であることに理由を求めた時、どうしても自分の身勝手な行動にその一因があったように思えてならなかった。

 そう思えるほどに彼は私を愛してくれていたし、私も彼のことを愛していた。


 リビングに戻ると丁度娘が風呂から上がってきたところだった。

「沙百合。明日の朝早いから今日はもう寝てね」

「……うん。おやすみなさい」

 彼女はもう何も聞いてこなかった。

 聞かないでいてくれた。

 もしいま娘に問い詰められていたら、私は本当のことを答えただろうか。

『あなたの本当のお母さんが警察にお世話になっているから迎えに行くのよ』

 そんなことを言えるわけがなかった。

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