【32】6日目(木)

「一樹さん! やっぱすごいですよこのお風呂!」


 ジェットバスのスイッチを入れると浴槽の中にすごい量と勢いの泡が湧き上がり、更にその泡がレインボーカラーの照明で彩られる。

 私はジェットバスという物を使ったことがなかった。

 なのでもしかしたらこれが普通なのかもしれないが、一言で言えばすごいし何だか少し美味しそうだった。


 ジェットバスは私にとって少しだけ楽しすぎたのかもしれない。

 気がつくと一時間も浴槽の中で気泡に揉まれていた。

 急いで湯から上がり髪と身体を洗ってからお風呂を出ると、脱衣所のカゴに入っていた”極小”のガウンを着て彼の元へと戻った。

「出ました。遅くなってごめんなさい」

 うつらうつらと船を漕ぎながらソファーに横たわっていた彼は私の声に驚いたのか、身体を大きく跳ね上げて目を覚ますとゆっくりとこちらに顔を向け、次の瞬間にはわかりやすいくらいに驚愕の表情を浮かべていた。

「着替えいらないって言ったの、一樹さんですからね」

 自分で言っておいてあれだが、今日家を出る時点では着替えなど必要なわけはなかったのだから、彼にしてみれば濡れ衣もいいところだろう。

「それにこの前もう、見たじゃないですか」

「え?」

「私の裸」

「……お風呂行ってくる」

 彼は逃げるようにお風呂場の方に歩いていってしまった。


 スマホを弄りながら彼がお風呂から出てくるのを待っていると、急によからぬ考えが浮かんできた。

 ソファーから立ち上がり、足を音を立てないようにそーっと脱衣所へと向かう。

 ガラス張りの薄暗い浴室の中でジェットバスに浸かった彼が、気持ちよさそうな顔で天井を見上げているのが見えた。

「一樹さん、気持ちいいでしょ?」

 彼は今度は驚く様子もなく、静かにこちらを向きながら「すごく気持ちいい」と言って、再び顔を天井の方へと戻した。

 慌てふためく姿が見たかったのに……つまんない。

 私が勝手に抜いた刀だったがその収めどころがわからずに、しばらくの間彼の入浴を眺めていた。

 十分もそうしていると彼はおもむろにジェットバスのスイッチを切ると、浴槽の手すりに掴まって立ち上がろうとした。

「キャーヘンタイ!」

 またしても濡れ衣を着せられた彼。


 大人しくテレビを見ながら彼が戻ってくるのを待つことにした。

 程なくしてお風呂から戻ってきた彼は「そろそろ寝ようっか」と言いながらリモコンでテレビを消した。

 ちょっとだけ眠かったがまだ寝たくはない私はその言葉を無視する。

「良い子は寝る時間だよ」

 彼の台詞になぜだかわからないけど少しだけドキっとした。

 でも生憎私は悪い子だったので、やっぱりまだ寝る時間ではない気がする。

「足がしびれて動けないです。ベッドまで一樹さんが運んでくれたら寝ます」

 私はさっきからこんなようなことばかりしている。

 これではそのうち怒らせてしまうのではないかと心配する――ことはなかった。

 だって彼は、今日までたったの一度も絶え間なく優しかったのだから。

 そんな彼に甘えたいばかりにつまらないことを言ったりやったりしている私は……。

 いい加減彼を困らせるのをやめて立ち上がろうとした、その時だった。

「いいよ」

 そう言ってソファーの前までやってきた彼は、そのたくましい腕で私のことをいとも簡単に”ひょいっ”と抱き上げた。

 正直、心臓が止まるかと思った。

 すぐ目の前、息がかかるような位置に彼の顔があり、思わずじっと見つめてしまった。


 彼は四十二キロある私を軽々とベッドまで運ぶと、まるで粗大ゴミを捨てるかのように布団の上にゴロリと転がした。

 広いベッドのお陰で床に落ちはしなかったが、横向きに二回転もしてしてからうつ伏せになって停止する。

 ガウンの裾が全力で捲れてしまったのが、お尻に触れる空気感でわかった。

「これ、この前買ったやつです」

 お母さんが見でもしたら卒倒するであろう、両サイドがストラップになっているヤツだ。

「……」

 彼はまるで私の声が聞こえてない風だった。

「一樹さん……?」

 次の瞬間、彼の大きな体が私の上に覆いかぶさってくる。

(あっ)

 あまりに不意ではあったが、その意味を瞬時に理解した私は胸の前で手を強く握ると目をギュッとつむる。

「……」

 あれ?

 いつまで経ってもその時が訪れないことに不安なり、そーっと瞼を開けてみた。

 すると、すぐ目の前にあった彼は目を逸しながら「ごめん」と言うと、ゆっくりと離れていく。

 ああ、そっか。

 彼は大人で紳士で私は子供で幼稚なんだった。



「お母さん、今頃何しているのかな」

 それは独り言のようなもので、誰に言ったわけでもなければ正答がないこともわかっていた。

 私から少しだけ離れた場所で横になっていた彼が口を開く。

「きっと沙百合ちゃんのことを考えてると思うよ」

 確かにそうかもしれない。

 なんだかんだで私はお母さんのことが好きだったし、お母さんもきっと私のことを愛してくれているはずだ。

「私、お母さんがなんで一樹さんとところに私を置いていったのか、この何日かでとてもよくわかりました」

『それはなぜ?』と聞いてくれれば回答する用意はしてあったのだが、彼は何も言わないでただ天井を見つめていた。


 お母さんはきっと、かつて自分が愛した人がどんなに素敵な人なのかをよくわかっていたのだ。

 それを私にも知って欲しかったのだと思う。

 でも、お母さんはそのあとのことは考えていたのだろうか?

 自身の娘である私が、その素敵な人に惹かれて然るべきだということを。

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