【30】6日目(木)

 賽の河原を出た彼は、なぜだか少し恐い顔をして私の腕を引っ張って歩き出した。

「どうしたんですか?」

「……いや。早く他のに乗ろうと思って」

 もしかして私があまりに恐がり過ぎたから彼の機嫌が悪くなってしまったのだろうか。

 そんなことを考えて少しだけ憂鬱な気分になっていたのだったけれど、次のアトラクションに到着した時には彼は普段どおりの彼に戻っていた。

 これはもしかして一樹さんもお化け屋敷が恐かったとか?

「一樹さん。さっきのお化け屋敷、あとでもう一度行ってみ――」

「絶対に行かない」

 やっぱりそうだった。


「一樹さん、あれ乗りたいです」

「いいよ」


「一樹さん、あれ乗ってもいいですか?」

「どうぞ」


「一樹さん、これもいい?」

「沙百合ちゃんって、回転する奴が好きなんだね……」


「一樹さん、あれ乗ってみてください。私、写真撮りますから」

「……あのパンダのムーバーはアラフォー男性が乗っていいモノじゃない」


 ……。

「一樹さん、最後にあれに乗ってみたいです」

 それは今日、この園の駐車場に到着した時から乗ろうと決めていたものだった。

「ちょうどそろそろ閉園みたいだし、じゃあこれで締めよっか」


「わ。思ったより大きいですね」

 大きな車輪に沢山のゴンドラが取り付けられたこの乗り物は、ジェットコースターと並び遊園地の花形である観覧車だ。

 四人乗りのゴンドラに彼と向かい合って座る。

 そしてそれはいつの間にかほとんどを緋色に染め替えてしまっていた空に向かって、ゆっくりゆっくりと上っていく。

「一樹さん。東ってどっちですか?」

「左の方の地平線に少しだけオレンジ色が残ってるでしょ? だからその逆、右手の方だよ」

「あ、そっか」


 やがて観覧車のゴンドラは時計の十二時の位置に近づき、視界に映るものが空とゴンドラと彼だけになった。

「あの、一樹さん。昨日のお母さんからの電話の話、聞いてもらってもいいですか?」

「ああ……うん」

「お母さんは本当は、本当のお母さんじゃないんです」


 私の少ない語彙でちゃんと彼に伝わったかはわからなかったが、とにかく昨日の出来事、それに今までの人生での出来事、そして今考えていること――それらを全て彼に話した。

 いつの間にか涙が頬を伝い落ち、遂には口から嗚咽が漏れてしまう。

 向かいに座っていた彼はそっと立ち上がると私の横に移動してきて、その大きな体で私のことを抱きしめてくれた。


 彼の胸に顔を埋めてひとしきり泣くと、自分がとても不思議な気分になっていることに気づいた。

 それはまるで、子供の頃から使っている大好きな毛布に包まれているようであり、ちゅん太の身体にめり込んだまま微睡んでいた時にも少し似ていた。

「一樹さん」

「なに?」

「私、今日だけで”一樹さん”って百回くらい言った気がします」

「ああ。確かにそのくらい呼ばれたような気がする」

「あの、一樹さん……」

「うん?」

「……ありがとうございました」

「……うん」


 地上に戻ったゴンドラのドアを係の人が外から開けてくれた。

 涙を流してぐしゃぐしゃになった私の顔をみた係の人はものすごく怪訝な顔をしていた。

 入場ゲートに戻った時には閉園時間を少しだけ過ぎていて、私達の退出に合わせて鉄製のゲートがガタガタと大きな音を立てて閉じられる。


 駐車場に戻って車に乗り込む。

 とても長くてとても楽しくてちょっとだけ悲しかった今日という日が終わってしまうという実感が湧いてくる。

 私にとってそれは受け入れがたいことだった。

 まだ終わってほしくない。

 まだもう少しだけ彼の近くにいたかった。


「一樹さん。もう一つだけお願いしてもいいですか?」

 自分でもこの言い方は卑怯だと思う。

 彼が絶対にいいよと言ってくれることなど、最初からわかりきっているのだから。

「いいよ」

 ほら、でもごめんなさい。

 これが最後のわがままですから。

「どこかにお泊りしたいです」

「……」

 顔を見なくてもわかった。

 彼は今、絶句している。

「お願いします。そうしたらちゃんと元気出しますから」

 卑怯者の私はいま、自分を人質にすることで要求を通そうとしていた。

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