【28】5日目(水)
横になってからも今朝のことが頭の中をグルグルと駆け回り、結局一秒たりとも眠ることは出来なかった。
何か気を紛らわせる方法は無いかと考えを巡らせていると、すぐに今夜のご飯を作ってしまおうと思い至った。
メニューは昨日の買い出しの時に決めていたカレーだ。
洗って剥いて切って炒めて煮て味付けしてという、料理の基本を全て学べる上にすごくお手軽で美味しいカレーは偉いと思う。
ジャガイモやニンジンの皮をピーラーで剥いていると段々といつもの自分に戻っていくような感覚があった。
ガラス製のボウルの中にどんどんと具材が積み上げられていく達成感も気持ちが良かった。
もしかしたら私はお料理を作る仕事が向いているのかもしれない。
給食センターの調理担当とかスーパーのお惣菜屋さんとか、あとは主婦なんかもいいのかも。
たったの一時間で完成したカレーの匂いが部屋中に充満していた。
ちゅん太がカレーっぽくなってしまうと少し嫌なので、とりあえず家の窓という窓を開ける。
外からは十月の冷たくて気持ちのいい風が吹き込んでくる。
そのせいだろうか。
先ほどまであれほどに荒れ模様だった頭の中の雨があがっていた。
もっともまだ雲の量は多くて、とても秋晴れとまではいえなかったのだが。
集中力を取り戻した気がした私は、学生の本分に立ち帰ると勉強をして午後の残り時間を過ごすことにした。
壁を一枚隔てた部屋では彼もお仕事を頑張っているのだから、私も私なりの責務を全うしたいという気持ちもあった。
気がつけば机に向かってかなりの時間が経過していた。
さすがにちょっと疲れた。
部屋を出ると廊下もリビングも真っ暗でちょっとだけ恐かったが、リビングの窓の前に見えるちゅん太のまんまるなシルエットが私を癒やしてくれる。
一樹さんはまだお仕事中だろうか?
部屋の前に立つもドアの隙間に明かりが見えなかったので、ノックをしないでこっそりと中を覗いてみた。
カーテンが開けたままになっている窓から射し込む月明かりで、彼がベッドの上で横になっているのが微かに見える。
足音を立てないようにそっと近づくと小さな寝息が聞こえてくる。
ちょっとかわいい。
顔を近づけてみると、まるでお昼寝をする子供のように穏やかな顔をして眠っていた。
かなりかわいい。
(昼間の仕返し……しよっかな)
計画はこうだった。
彼を抱き上げてリビングのソファーまで運び、起きた時に驚く顔をみる。
以上。
さっそく彼の首と膝の裏に両腕を突っ込むと、声を出さないように気をつけて一気に抱きあげ……たったの一ミリたりとも持ち上がる気配がない。
彼の寝息が前髪に掛かってこそばゆい。
もう一度挑戦。
あえなく失敗。
そんなことを何度か繰り返していると、寝ていたはずの彼の腕がにゅっと伸びて枕元にあったスマホの画面を点灯させる。
「おはよう。で……なにしてんの?」
「おはようございます」
質問には答えずにもう少しだけ頑張ってみようと思った。
数分後。
私がいくら残念な子とはいえ、どう考えても無理だということは一度目のトライでわかっていた。
でもなんかちょっと悔しいので別のプランを発動する。
「一樹さんパンツ見えてますよ」
昼間のお返しその二。
「……うそだ」
嘘だけど。
「かわいいですね。しまうま柄」
「……全然違う」
ながながと茶番に付き合わせてしまったことを反省しながら、彼に食事の用意が出来ていることを伝えた。
カレーの入った鍋はまだいくらか温かかったが、鍋ごと火に掛けて温め直すよりはレンチンした方が早いだろう。
その間に、やはり昼間のうちに作っておいたレタスサラダにシーザードレッシングとパルメザンチーズを掛け、それにクルトンを乗せるとテーブルに運ぶ。
そうこうしているうちに温まったカレーを彼と自分の席に置いた。
「美味しいですか?」
「沙百合ちゃんは将来カレー屋になるといいよ」
それは最高の褒め言葉だったが、このカレーもお母さん直伝だということを考えると少しだけ素直には喜べなかった。
でも美味しいカレーには何の罪もないのだった。
それに今度はオリジナルレシピで勝負すればいい。
そんなことを考えているうちに、いつの間にかお皿の上のカレーはなくなっていた。
「沙百合ちゃんごめん。お風呂先に入ってもらっていい?」
彼はソファーに移動したと思うとそのまま仰向けに倒れ込むと、お腹をちゅん太のように膨らませたまま動かなくなってしまった。
「……くるしい」
どうやら晩ごはんを食べすぎたみたいだった。
お言葉に甘えて先にお風呂をいただくことにする。
カレーの匂いが染み込んでしまっているであろう髪を念入りに洗ってから湯船に浸かる。
お風呂というのは不思議だと思う。
入る前にはいくら面倒だと思っていても、出たあとに『やっぱり入らなければよかった』と思ったことなど一度もないのだから。
お風呂からあがると彼はさっきと同じ体勢でソファーに倒れていた。
死んでいたらどうしようと思ったが、胸が微かに上下しているところをみると息はしているっぽい。
「一樹さん起きて下さい。お風呂の時間ですよ」
彼は一瞬”ビクッ”となってから顔をあげた。
「ひとりで入れますか?」
「……大丈夫。お心使いありがとう」
今日の、いままでのお礼にお背中を流すくらいはさせて欲しかったのに。
三十分ほどしてお風呂から出てきた彼は、開口一番に「明日は朝から仕事だけど昼には帰ってくるからご飯一緒に食べようか」と言う。
なぜなのかは自分でもわからないが、私はその言葉に感動に近い喜びを覚えた。
でも少しだけ考えたらその答えはすぐにわかった。
私は彼と一緒に居たかったんだ。
午後に彼がお仕事をしている時も本当は同じ部屋に居て欲しかった。
今、お風呂で離れ離れになっている間もずっと寂しかった。
今からまた別の部屋で寝るのも、なんだかすごく悲しいことに思える。
ああ。
この人に恋をしてしまったのかもしれない。
お母さんと同い年で、お母さんの元カレの一樹さんに。
それはきっとあまり良くないことだと思う。
でもそれもこれも全部、お母さんのせいなのだ。
……本当は違うのだろうけど。
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