【27】5日目(水)

 一樹さんはパソコンに向かって仕事をしているようだった。


 ノックもせずに――といってもドアは開けたままになっていた――部屋に入ると、パソコンとは反対側にあるベッドの縁に静かに腰を下ろす。

 彼は私の気配に感づいたようで、椅子ごとクルリとこちらを向く。

 その表情は少し怒っているようにも困っているようにも見える。


 沈黙が支配する部屋で時計の秒針が出すチクタクという音だけが妙に大きく聴こえた。

 彼はきっと私が朝の出来事を話すのを待っているのだろう。

 どう伝えるべきか悩んだが、とりあえず思ったことをそのまま口に出してみるしかない。

「お母さんから電話があって。それでケンカになって。お前は何も知らないくせにって。何も教えてくれないのはお母さんなのに」

 自分で言っておいてなんだが、これではきっと何も伝わらないだろう。

 でも、それでもよかった。

 私は行き場のない気持ちをただ吐露したいだけなのだ。

「そっか。うん、わかった」

 彼はそう言うと続けざまに「話してくれてありがとう」とも言ってくれた。

 ベッドの上で体育座りをすると一度は止まった涙がまた出てくる。

 泣き顔を見られるのは嫌だったので、膝の間に顔を埋めてじっとしていると彼が立ち上がる気配がした。

 次の瞬間にはすぐ横でベッドが軋む音が聞こえる。

 彼がいるであろう方に手を出す。

 大きくて温かなものが上に乗ってきて私の手を強く握ってくれた。

 手はそのままに、今度は身体ごとそちらに思い切り傾ける。

 やはり温かい彼の感触が私を受け止めてくれる。


 五分くらいそうしているとようやく涙が止まった。

 涙が止まると今度は急に自分のしていることが恥ずかしくなる。

 家族でも友達ですらない母親と同じ年齢の男の人のベッドの上で、その持ち主と手を繋いで身体まで預けている。

 それも同級生のみんなは学校で授業を受けている平日の昼間から。

 私はきっと今とんでもないことをしている。

 お母さんの元恋人で、私の一時的な保護者になってくれている彼。

 一樹さんは私のことをどう思っているのだろう。


 握られていた手をそっと外してぱたんとベッドに身体を倒す。

 真っ白い天井が視界の殆どを埋めたが、その隅にちょこっとだけ彼の顔が見えた。

 まるで何もなかったかのように装ってベッドから起き上がると、できる限り何もなかったかのような表情を作って彼の方に向き直った。

「お腹が減りました」

 本当に言いたいことを隠したくて、代わりにお腹を手で押さえて見せた。

「朝ごはんにしようか」

 時計の針はもうとっくにお昼を回っていたのだが、彼は朝ごはんと言った。

 きっと私に気を使って彼もご飯を食べていないのだろう。

 ごめんなさい。

 そして、ありがとう。


 彼の部屋を出るとそのまま洗面所にいって顔を洗った。

 鏡に映ったビショ濡れの顔は、自分で思っていたよりは普段と違っていないようにみえた。

 リビングに戻ると彼がご飯の支度をしてくれていた。

 ダイニングテーブルの上にはコンビニのおにぎりやサンドイッチが山のように積まれており、初めてこの家に来た日の夜を思い出す。

 あの時の私と今の私は同じ私だったけど別の私だった。

 あの時の私はひとりぼっちだったけど、今の私には一樹さんという味方がいてくれる。


「あの、昨日ってもしかして一樹さんがお部屋に運んでくれました?」

 昨夜、リビングでちゅん太に埋もれてスマホをいじっていたのは覚えていたのだが、その次の記憶といえば部屋のベッドの上で白い天井を見上げていた。

 だとすれば私はまた彼に迷惑を掛けてしまったのだろう。

「俺が風呂から出てきたらちゅん太に埋もれて寝てたよ」

 ……やっぱり。

「ごめんなさい。重かったですよね?」

「こいぬみたいだった」

 子犬……。

「それと、さっき起き上がる時にパンツ見えてたよ」

 え……ウソだ。

「水色」

 すぐに自分の胸元を左手で引っ張り中を覗く。

 なだらかとしか言いようのない胸を経由して見えた自分の下着は、彼が言う通り水色の子供っぽいやつだった。

 残酷な現実に打ちひしがれていると彼は椅子から立ち上がり、私の頭をポンポンと軽く二回叩いた。

「仕事してくるから。洗い物よろしくね」

 なんだか子供扱いされたような気がする。

 ……まあ、実際に子供なのだけれど。


 洗い物を済ませ部屋に戻るとやることがなくなってしまった。

 勉強をする気にはなれなかった。

 リビングに戻ってちゅん太にかまってもらおうかとも思ったが、私はちゅん太に今朝ひどいことをしてしまっていた。

 謝れば――なんなら謝らずとも――何もいわずに許してくれることはわかりきっていたが、それではあまりに虫がいいような気がする。

 結局はベッドの上に横になるとそのまま目を閉じることにした。

 さっきとは逆に目が覚めたら今度は一樹さんが部屋に来てくれていたらいいのに。

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