【26】5日目(水)

 目が覚めたのと一緒にすぐに部屋を飛び出すと、リビングの真ん中で朝日を浴びて影を作る大きな塊に飛びつく。

「おはようちゅん太!」

 彼は振り返ることもしなければチュンチュンと返事をしてくれることもなかったが、その巨大な柔らかな体で私のことを包み込んでくれた。


 しばらくの間ちゅん太と抱き合ってから、歯磨きと洗顔をする為に洗面所へと移動する。

 洗面所には仄かにシトラスの香りが漂っており、シンクにも濡れた痕跡があった。

 私的には今日はかなり早起きをしたつもりだったのだが、一樹さんはその更に上を行っているようだった。


 用事を済ませてリビングに戻り彼の姿を探してみたが、どこにも見つけることが出来なかった。

 念の為にちゅん太の下を覗いてみる。

 ……いない。

 そんなことをしていると、遠くからスマホの着信音が鳴るのが聞こえてきた。

 私に朝から電話を掛けてくる人がいるとすれば、それは先生か彩智か、でなければ多分一樹さん。

 ちゅん太を迂回してから急いで部屋に戻ると、机の上で充電ケーブルに繋がれたままのそれを手に取る。

 受話ボタンを押そうと目を落とした画面には『お母さん』と表示されていた。


「……もしもし」

『沙百合?』

「……うん」

 久しぶりに聞いたお母さんの声に、自然と涙が出てしまう。

「……お母さん今、どこにいるの?」

『北海道――旭川のホテルに泊まっているの』

 それを聞いた瞬間に、お母さんがなぜ私を置いてどこかに行ってしまったのかがわかった。


「お姉さんに会いに行ってるの? 私を置いて? なんで?」

 お姉さんというのはお母さんの姉で、私の本当の母親のことだ。

 私のことを捨てた人に今更なんの用事があるというのだろうか。

『……』

 お母さんは何も答えてくれなかった。

「なんで黙るの? じゃあ、なんで電話を掛けてきたの? お母さん! なんとか言ってよ!」

『……ごめんなさい』

 何がごめんなさいなのか。

 それすらも私にはわからないのに。

 この人と話していても無駄だと、本気でそんなふうに思えた。

 何もかもがもう、どうでもいい。


「もう……もういいよ! 私、一樹さんと暮らすから!」

 スマホを顔から離して通話終了のボタンを押そうとしたその時、玄関から誰かが走ってくる足音が聞こえた。

 誰かとは言ったが、それは彼以外であるわけがない。

「一樹さん帰ってきたから代わる」

 スマホを放り投げたいのを我慢して彼に渡す。

「……もしもし? 絵梨花? もしもし!?」

 彼は何度かスマホに呼びかけた後、そっと耳から離すと私に返してきた。

「……切れたみたい」


 彼からスマホを受け取った瞬間、私はそれを床に向かって思い切り投げつけた。

 しかし、授業でもボール投げがクラスで一番下手だった私が投げたスマホは床に叩きつけられることはなく、すぐ目の前にいたちゅん太のお腹に思い切りめり込むと、ゴトリと音を立てて床に落ちる。

 すぐに拾い上げてもう一度、今度はちゅん太のいない方向に投げようとしたが、すごい早さで近づいてきた一樹さんに阻止されてしまう。

 一生懸命にいやいやをして彼の手から逃れようとしたが、クラスで一番腕力の弱い私にそれが叶うはずもなく、背の高い彼に手首を掴まれて下手くそなマリオネットのようにクネクネと身体を撚るだけだった。


 そんなことをしていると、少しだけだが冷静になることが出来た。

 私が今ここで癇癪かんしゃくを起こしたところで、それは結局一樹さんを困らせるだけだ。

「……痛い」

 そう言うと彼はすぐに手を離してくれた。

「あ……ごめん」

 全然ごめんじゃない。

 悪いのはお母さんと、それに私なのだから。


 彼の手から逃れると小走りで部屋に戻り、ベッドに突っ伏せて泣いた。

 お母さんにはお母さんの事情があって、だから置いていかれたのは仕方がないと思っていたのに、それがよりによってあの人のところに行くためだったなんて……。

 お母さんなんて……大嫌い。



「……」

 いつの間にか寝てしまっていたみたいだった。

 先ほどまでの激しい怒りも完全に萎えてしまっていた。

 あんなに悲しくって悔しくってあんなに涙を流していたのに、私ってやっぱり馬鹿なんだ……知ってたけど。

 もういっそのこと二度寝をしようと思ったのだが、もしそうするにしてもその前にお手洗いに行きたかった。

 そっと部屋を出てお手洗いに向かうと、一樹さんの部屋のドアが開けたままになっていた。

 ものすごくかっこ悪い気がして、気配を消してそっと通り過ぎる。


 用事を済ませて部屋に戻ろうかと思ったが既に眠気など吹き飛んでしまっており、かといって何かすることがあるわけでもなければ、もしあったとしても気力のほうが尽きてしまっていた。

 ……彼のところに行こうかな。

 お母さんが本当に敵になってしまった今、私の味方は一樹さんとちゅん太だけになってしまった。

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