【23】4日目(火)

 支度を終えてリビングに戻ると、彼も丁度部屋を出てきたところだった。

 玄関へ向かう途中、彼のズボンのポケットから私がプレゼントしたキーホルダーのマスコットがちょこんと飛び出て、まるで赤べこのようにユラユラと揺れているのが見えた。

 少し恐い顔で身体も大きな彼とのギャップがとても可愛い。

 それにあの猫はやっぱりお母さんにとても良く似ている気がする。


 玄関の扉から出るとさっきまではザーザー降りだった雨がシトシトといった程度まで弱まっていた。

 彼は小雨の中を駐車場まで走って行くと、すぐにエントランス前のポーチの屋根の下に黒い車が滑り込んでくる。

 彼とのお出掛けは二回目だったが、今日は前回とは逆の方向に向かって車は走り出した。


「沙百合ちゃん、何か食べたいものってある?」

「私は……形がそのままのお魚以外ならなんでもいいです」

 本当はこういう時は具体的に答えた方がいいことは知っていたが、彼が私の食の好みを知らないのと同じで、私も彼のそれを知らないのだから、彼が食べたいものにしてもらいたかった。

「じゃあ、そこにしよっか」

 そう言うやいなや、車はすぐ眼の前にある洋風の建物の駐車場へと入っていく。

 お店の入り口で車から降ろしてもらい、彼は少し離れた駐車場へと車を止めに行った。


 すぐに戻ってきた彼と連れ立って店内に入ると、程なくして一番奥の窓際の席に案内される。

 テーブルに着くとお店の人がすごく大きなメニュー表を渡してくれた。

 私は当然このお店に来たことはなかったのだが、そこに書かれていた店名は知っていた。

 何故ならそれは、一時期ネットですごく話題になったハンバーグ店のそれで、一樹さんの住むこの県にしかないお店だったから。

「ここすごく来たかったんです!」

「あ、やっぱり? 本当は最初からここに来るつもりだったんだよ」

 少し得意気な顔でそう言った彼は「ここに来たらこれでしょ」と言って定番メニューを教えてくれた。

 二人分のそれとドリンクを注文して料理が出てくるのを待つ間、私はこのお店にどれだけ来たかったかを、まるで選挙演説でもするかのように彼に力説してしまった。

「そんなに?」

「そんなにです!」

 そう。

 私はここにそんなに来たかった。

 それはネットの評判もあったのだけれど、ずっと昔にお母さんにすごく美味しいハンバーグ屋さんがあるという話を聞いていたから。


 その『そんなに食べたかったハンバーグ』は十分と待たずにすぐに運ばれてきた。

 ものすごく大きなそれは、お店の人の手によって目の前で二つに切り分けられると、熱した鉄板の上でその断面が更に焼かれる。

 ジュージューという音と共に大量の煙が上がり、なんだか少し恐いくらいだった。

 追い焼きが終わるとハンバーグの上にソースが掛けられ、ネットでよく見る写真と同じ姿になったそれからは美味しそうな匂いが漂ってくる。

 私はポケットからスマホを取り出し、まだ煙――湯気?――を上げているハンバーグの写真を何枚も撮影した。

 あまりお行儀がよくないことだから普段はやらないのだけれど、今日だけはごめんなさい。

 でも、それをSNSに上げるようなことはしないでおいた。

 というか、友達のみんなは今頃学校で授業を受けているのだから、流石にそんなことを出来るわけはなかった。


「いただきます」

 すごくゴツくて重いフォークとナイフで俵型のハンバーグを一口大に切ると、恐る恐る口へと運ぶ。

 舌の上に乗った瞬間、お肉の味とオニオンソースの味が別々に感じられ、次の瞬間にはそれらが一つになる。

「どう?」

 彼が聞かなくてもわかるようなことを聞いてくる。

「すっごく美味しい……」

 もう、それ以外に表現のしようがなかった。

 私もハンバーグは得意料理のひとつだったが、そもそもレシピが全く異なっているであろうこれは別次元の食べ物のようにすら感じる。

 ハンバーグの形はしているが、つなぎの類を使っていないのではないだろうか。

 純粋なお肉料理といった方がいいのかもしれない。

 大きくて食べ切れるか少しだけ心配だった俵型のハンバーグは見る見るうちにその量を減らしていき、あっという間に完食してしまった。

 お母さんが自慢気に話していたのが今はすごくよく理解できる。

 なんだか、心まで軽くなったような気がする。

 私ってなんて単純な人間なんだろう……。


 少しだけ重くなった体重を支えながらお店を出ると、雨はさっきよりも更に小降りになっていた。

「すぐそこにあるスーパーで買い物して帰ろっか」

 本当に目と鼻の先にあるスーパーを指差した彼も、反対の手ではお腹をさすっていた。


「今晩のご飯、私が作ってもいいですか?」

 予てから決めていたことの許可を彼に取ろうと聞くと「そういて頂けると助かります」と妙にかしこまった返事が返ってきた。

 大きなカートを押す彼の前を歩きながら、必要な食材とお気に入りの調味料を選んでカートのカゴの中に放り込んでいく。

 彼は彼で気になったものを手にとって、やはりどんどんとカゴの中に入れるものだから、いつの間にか二カゴ分もの山のような買い物になってしまった。

 物心がついた頃からずっとお母さんと二人で暮らしてきた私にとって、こうして男の人と一緒に買物をするのは初めての経験だった。

 それはなんだかおままごとをしているみたいで少し懐かしくて、ちょっとだけ気恥ずかしいような気もした。


 買い物を終えて彼のマンションに戻ってくると、雨は再びその量を増して車の屋根に大きな音を立てて当たっていた。

 荷物を持つ彼が濡れてしまわないように傘を差し掛けながら急ぎ足でエントランスに向かう。

 屋根の下に到着して傘を閉じると彼と顔を合わせて笑ってしまった。

 彼が何故笑ったのかはわからないが、私がそうしたのは彼との共同作業が楽しかったことと、それが成功に終わったからだと思う。


 たったそれだけのことだったのに、私は気付いてしまった。

 お母さんが私を彼の元に預けたのは、そういう経験をさせるためだったのではないだろうか。

 まだたった数日とはいえ、彼との生活では色々な新しいことや驚くような出来事があった。

 それはもしかしたらお母さんが、私と同じくらいの歳の頃に通ってきた道なのかもしれない。

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