緑のきつね
廣瀬 毎
第1話(完結)
ジャージに忍ばせたカイロにそっと手を伸ばす。こっそり、誰にも見つからないように。冷えた指先でポケットの中のカイロを掴み、内側から臍の下あたりに当てる。人工的な温もりがゆっくりと痛みを解いてゆく。
「次!」
コーチの声に、朱里(あかり)は手を挙げて答える。指先の熱はあっという間に、冬の空に奪われていった。隣のコースに進み出た美鳥(みどり)は、朱里と同じく高校二年生の陸上部員だ。美鳥は背が高い。真っ直ぐに伸ばした指先は雲まで届きそうだ。
美鳥がスタートラインで砂を均すジャリジャリという音。朱里のポケットに隠したカイロが布に触れるカサカサという音。そして後ろで待機している部員たちの群れから、美鳥の体型を揶揄して囁く声が聞こえた。朱里に聞こえるなら、きっと美鳥の耳にも届いたはずだ。それでも美鳥は何事もなかったかのように前を向き、スタートラインに足をかけた。
ぱん、と破裂音がして、朱里は駆け出した。朱里のスタートからコンマ数秒遅れて、美鳥が大きく一歩踏み出したのを、視界の端で捉えた。耳の奥で聞こえる囁き声は、身体中に染み付いたタン、タン、ターンというリズムに上書きされていく。タン、タン、ターン。タン、タン、ターン。リズム良くハードルを飛び越えてゆく。踏み切った方の脚をグッと曲げ、腹筋の力で身体の前へ引き寄せる。ポケットに入ったカイロのせいで、いつもより脚を引き寄せるのに力がいる。しかし、朱里は気にせず走り続けた。
「いいね」
コーチがストップウォッチを見ながら頷いた。朱里は短く息を吐いて呼吸を整えた。振り返ると、美鳥がまだ走っていた。美鳥のリズムは、朱里のリズムとは全く異なっている。朱里は、美鳥の長い手足を思った。あの長い手足の先まで脳からの命令を伝達には、きっと朱里の二倍の時間がかかるだろう。
「うん、よくなってきた」
美鳥がゴールすると、コーチが親指を上げた。美鳥は自分のタイムを確認し、誰にも気付かれないくらい小さなガッツポーズをした。
待機場所で水分補給をする朱里に、空(そら)が駆け寄ってきた。
「朱里と並んでると、美鳥のやばさが際立つね」
朱里は空の目を見て、変わったな、と思った。小学校からの同級生だが、高校に入ってからは自分を中心とするグループを形成し始め、そのグループに所属しない他の部員に意地の悪い言葉をぶつけるようになった。朱里は空の幼馴染として、そのグループに入っている。悪口の対象になるといろいろ面倒なことになるので、曖昧に笑って合わせるしかない。
空とその取り巻きたちが集まってきて、美鳥の悪口を並べ立てる。朱里は黙ってポケットのカイロを転がす。「朱里と並ぶと」という空の言葉が引っ掛かる。朱里は美鳥と違い、小柄で細身だ。それはコンプレックスでもある。痩せた脚は筋肉だけが発達していて不恰好だし、胸も小さい。激しい運動のせいか、肌荒れもひどい。そんなことを考えていると、腹部の痛みが徐々に強くなってきた。視界が徐々に狭くなり、目の前には真っ黒でもやもやした塊が蠢いている。
「朱里ちゃん?」
気を失う直前、誰かが朱里の名前を呼んだ。聞き馴染みのない声だった。
「おーい?」
保健室のベッドで目を覚ますと、心配そうに朱里の顔を覗き込む美鳥がいた。
「貧血だってさ、無理しちゃだめだよ」
語尾を伸ばす美鳥の話し方は、おっとりしていて心地がいい。
「朱里ちゃん、ちゃんと食べてる?抱えてきたけど、びっくりするくらい軽かったよ」
「一人でここまで?」
朱里が美鳥に尋ねると、美鳥は頷いた。
「こう見えて、けっこう力持ちなんだよ」
「見た目のこと、言いたかったわけじゃないんだけど」
そうだよね、と美鳥はまた首を縦に振った。
「空ちゃんが誰かの悪口言ってるとき、朱里ちゃんはいつも気まずそうだもんね」
「空、もともとはあんな意地悪じゃなかったんだけど」
朱里は情けない気持ちで、両手で顔を隠した。気まずそうにしているだけなんて、何の免罪符にもならない。そうと分かっていて、やめての一言が言えない自分に幻滅した。顔を覆った両手の内側で、ごめん、と小さく呟いた。
「わたし、この体型気に入ってるんだ。だから、なんとも思ってないよ」
美鳥が自分の身体をかたどるように手を動かした。朱里は、美鳥の手がなぞるふっくらとした曲線に見惚れた。
「わたしはあんまり気に入ってない。背は低いし、筋肉質だし、胸も小さいし」
朱里はベッドから降りつつ、そう言った。ベッドの脇に起立した状態の朱里と、椅子に腰掛けている美鳥の背丈はほとんど変わらなかった。
「朱里ちゃん、言っておきたいことがあるんだけど」
美鳥はゆっくりと朱里の両肩に手を置いた。肩を包み込む美鳥の手のひらはとても大きく、温かな日差しが肩に降り注ぐようだった。
「朱里ちゃんが持っている美しさは、朱里ちゃんだけのものなんだよ。わたしが持っている美しさも、わたしだけのもの。外見も、中身もね。誰かが持っている美しさを欲しがる必要はないんだよ」
朱里はその時、美鳥の言葉を真剣には聞いていなかった。美鳥の、しっとりと柔らかな手のひらの質感を、一瞬たりとも逃さず感じ取りたくて、骨張った肩に全神経を集中させていた。
「今日は、年越しそば食べるんだって」
保健室の前の廊下を歩きながら、美鳥は思い出したように手を叩いた。年内最後の練習では、監督が買ってくる緑のたぬきを食べることが恒例行事となっている。
「在庫の関係で、ほとんどが赤いきつねみたいだよ」
「年越しうどん、か」
「朱里ちゃんは、どっちが好き?わたしは緑のたぬきかな。ふやふやになった天ぷらが好きなんだ」
「わたし、赤いきつね食べたことないかも」
美鳥はそれを聞いて、両手で口を覆った。その動きが、今まで見たことのある美鳥のどんな動きよりも素早くて、朱里は思わず笑ってしまった。美鳥は声を裏返して言った。
「それは、絶対食べなきゃ!」
部室に到着すると、一番奥の壁を背にして監督とコーチが立ち、その前には一年生部員、その後ろには二年生部員が列に並んで床に座っていた。後ろの列に座っていた空が、朱里を見て飛んできた。
「大丈夫?これ、朱里のために取っといたよ」
空は、緑のたぬきを朱里に差し出した。周りを見渡すと、他の部員たちはほとんど赤いきつねをすすっている。数が少ない緑のたぬきは、全て空たちのグループが独占したらしい。
「美鳥のは?」
朱里が尋ねると、空は眉根に皺を寄せて、さあね、と肩をすくめた。
「あっち、見てくるね」
美鳥は部室の入り口に置いてあった段ボールを指差して、離れていった。
「美鳥となに話してたの?」
「別に、空の悪口は言ってないよ」
空はぎくりとしたのか、目を泳がせた。
「これ、交換する?」
美鳥は部室の隅に置かれたポットの前で、赤いきつねの蓋を開けていた。朱里が緑のたぬきを差し出すと、美鳥は首を振った。
「わたしがそのカップ持ってると、空ちゃんに怒られそうだし」
美鳥は、手慣れた様子でかやくが入っている小さな袋をぱたぱたと振った。封を切ろうとする美鳥の手を静止し、朱里は言った。
「ちょっと待って」
朱里は、自分が持っていた緑のたぬきの蓋を勢いよく開け、中に入っている蕎麦やかやく、そして天ぷらの袋を全て取り出した。そして、美鳥が持っていた赤いきつねのカップをひったくり、中身を丸ごと入れ替えた。
「これで、カップの見た目じゃわからなくなったでしょ」
呆気に取られている美鳥をよそに、朱里は、緑のたぬきのカップに入った赤いきつねに湯を注いだ。
朱里と美鳥が後方の列の端に座ると、監督とコーチがそれぞれ話し始めた。美鳥と並んで座る朱里は、反対側の端から、空がこちらをちらちら伺っていることに気づいていた。空は何度か、自分の隣のスペースを指差して手招きする仕草を見せたが、朱里は気づかないふりをした。
監督とコーチの話が終わると、丁度カップ麺が出来上がる時間になった。二人が同時に蓋を開けると、出汁の香りが湯気と一緒に舞い上り、鼻の奥を刺激した。朱里は小さくいただきますと手を合わせ、割り箸を口に挟んで割った。自分のカップに浮かぶ、ふんわりとした油揚げを出汁に沈め、ついでにうどんをかき混ぜてほぐした。うどんの塊の中で籠っていた熱が、湯気となってまた立ち昇った。あつあつのうどんを箸で数本掬い上げ、唇にあててふうふうと冷ます。ずずっと音を立てて啜ると、魚介の旨味が口の中で広がった。もちもちとしたうどんの食感が新鮮だった。香ばしいそばも美味しいが、うどんも捨てがたい。
「朱里、それ何食べてるの?」
朱里がちょうど味の染みた油揚げを口にしているところで、空が後ろから覗き込んできた。驚くのも無理はない。中身とパッケージが違っているのは、後ろから見れば一目瞭然だ。甘塩っぱい出汁がじゅわっと滲み出てくる油揚げは、次から次へと口へ運びたくなる。
「『緑のきつね』だよ」
その奇妙な響きに、朱里は笑いを堪えられなかった。
「こっちは『赤いたぬき』」
隣に座っていた美鳥も、空のほうにカップ麺の中身を見せて微笑んだ。混乱している空をよそに、寄ってきた空の取り巻きたちが口々に「きつね美味しそう」「わたしも本当はそっちが食べたかったの」と呟いた。
「外見が違っても、中身の美味しさは変わらないよ」
朱里はそう言って、取り巻きたちにカップを渡した。油揚げを噛み締める彼女たちを見て、空は「わたしにも一口ちょうだい」と手を伸ばした。
ふと隣を見ると、美鳥は幸せそうに、ふやけた天ぷらを頬張っていた。
緑のきつね 廣瀬 毎 @Charlie16
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