化粧
美緒(みお)は化粧が嫌いであった。嫌いになった理由は、彼女が中学校に上がるころ、母親が白粉(おしろい)を顔中に塗り付けて赤くでっぷりとした唇をつけて祝いに来たためである。
その姿は能のお面を被ったような様相で、さらに香水を身体中に巻き付けてすれ違う人たちの視線を引いて、
彼女が胸をときめかせた新しい環境は、奇異に対する視線で埋め尽くされていたのである。
隣にいるのも恥ずかしくて距離をとっているのに、美緒の方向を向いて嬉しそうな声色で美緒の名前を呼ぶので、美緒は他人の振りも出来なかった。
初日にこのような事件が起きたので、美緒は教室で浮いてしまわないか不安だった。だがそれは杞憂で、気のいいクラスメイト達に囲まれて楽しく日々が過ぎていった。
そんな強烈な印象が残っているので、化粧という二文字に対して嫌悪感と羞恥心を美緒は感じていた。
中学生となり半年が過ぎた10月の中頃、美緒のクラスで化粧がはやり始めた。女子の半数ほどがこの校則違反に乗り、トイレでメイクの仕方について教え合ったり、授業の合間に教室でメイクをする者さえ現れ、たちまち持ち物検査が始まった。
机に置かれたバッグから次々と違反物が没収されていく中、意外な人物、学級委員長の絵里(えり)のバッグから化粧品が取り出された。
絵里は整った顔立ちで、キリっとした目つきの中に見える、薄く茶色がかった宝玉の瞳が特徴の、スラリとした細身の少女だ。
肩ほどに伸びた絹のように細くなめらかな黒髪は、彼女の性格を反映したように、頭から肩へ曲がったり跳ねたりすることなく、すらりと伸びている。
検査していた先生も絵里が化粧品を持っていることに驚いていた。美緒は絵里と少し話す程度だったが、どうしても気になって昼休みに声をかけた。
「ねぇ絵里、どんな化粧品持ってきたのか教えてよ」
「色々あるけど……美緒もメイクに興味あるの?」
「私が? ええと……」美緒は返答に窮した。正直に言えば入学時の事件を教える羽目になるからだ。
「後でやってあげよっか、美緒にメイク」
ふいに空いた窓から秋の訪れを感じさせる小寒い風が吹く。絵里の髪がその風の靡くままに舞い、そんな写実的な美を瞳に収めた。美緒はこの美貌に少しでも近づけるならと、首を縦に振った。
部活動や下校で人がいなくなった放課後に、先程まで騒がしかったクラスで二人きり、美緒と絵里が小さくそんな空間を占拠していた。
美緒は絵里に正面から顔をまじまじと見つめられる。恥ずかしくなって目を逸らそうとしても、絵里にこっちを向いて、と言われるので耳を赤くして向き合っていた。
絵里は教師から取り返したメイクセットを取り出して、様々な施しを赤くなった顔に加えていく。美緒は目をつむって絵里の真剣な眼差しを見ないようにした。
顔に当たるマスカラやリップなどの化粧品を通じて、絵里と触れる心地よい感覚を味わっていた。十数分ほどして、絵里が終わったよ。と声をかける。
眼を開けると、置いてあった鏡に美しい女性が、驚いた顔で待っていた。パッチリとした目元に二重のラインが強調され、つんと張ったまつ毛が鮮やかさを彩る。
餅のように柔らかく、張りがよさそうな白の頬を携えて、ピンクに紅色が混じった艶やかな唇が光る。
鏡の中に映る女性が、自分自身の姿だと、美緒はとても信じられなかった。
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