御伽噺
親父によく聞かされた話がある。
箔豪山の奥深くの洞窟に神様が住んでいて、悪さをする子供がいると攫って食ってしまうのだという。
俺を山奥へ行かせないよう作られたおとぎ話。
しかし普段お袋の尻に敷かれている情けない親父は、真剣な眼差しでどこか真に迫る口調で話すので、小さかった俺はその日の夜にひとりで眠れなかった。
それから少しだけ背が伸びて、中学生になった。おれの思春期では大人はすべからく敵だ。
大人がよく行う隠し事は利益の独り占め、もしくは犯罪汚いやつらと、この世の全てに反発していた思春期には映っていた。
数少ない年の近い友人、梶とはずいぶん悪さをした。といっても田舎の悪ガキだったので、人を幾万放り込んで蓋をした都会の、極悪エピソードには程遠い。
せいぜい親の車を勝手に乗り回したり、真夜中にロケット花火を互いに打ち合って周りの住民を起こしたりした程度だ。
そうして狭い村の中で暴れていると、身に覚えのないことも俺たちのせいにされた。
しかし汚い大人たちは得てしてそういうものだと俺たちはさらに偏屈になった。
ある日、梶が箔豪山の洞窟に行こうと言い出した。村近くにある山々なんて、自然以外何もない田舎では庭みたいなものだ。
子供のころに聞かされていた洞窟なんて、どこを探しても存在しなかった。
「でも俺は見つけたんだ。秘密の洞窟だぜ」
「どこにあったんだ?」
「行ってからのお楽しみだ」梶はにやっと笑った。
好奇心につられて梶を先頭に、おれ達は箔豪山の獣道を長いこと随分歩き続けた。やがて道が広がると同時に、岩山で道がふさがった。
平らな地面にうっすらと草が生え、岩山に削られたようにすっぽりと穴が開いていた。ここは、人の手で整備されていた。
洞窟の手前には陶磁器の平らな皿に桃が四つほど、頭に糸を通してある川魚が一房。明らかに供え物として存在していた。
梶が無造作に桃を一つとり大きな口でかじった。空いた口がふさがらなかった。非常識なやつとは思っていたが、ここまでとは。
美味い美味いと頬張りながらまた皿に手を伸ばす。
「おいやめろって」
梶は桃を俺に投げて渡そうとしていたが、その動作を止める。
「なんだよ、じゃあ俺が全部食っちまうぞ」そういって二つ目の桃にもかぶりつく。
その時、俺の後ろからこだまが聞こえてきた。俺の声が、山の中のどこかから、こだましてきた。
やめろって―――奇妙な現象に身を震わせた。あちこちに去っていった声を、こだまがひとつひとつ返して、俺の声が合唱のように響いた。
喰っちまうぞ―――梶の声にもこだまは応えた。梶には聞こえなかったらしい。これは警告なんだと、感づいた。
踵を返して逃げるように走った。待てよ。と後ろで梶の声が聞こえるが、止まらない。息が切れても走って、走って、ようやく足を止めた。
「なんだってんだよ、まったく」膝に手を置いて、肩で息をしながら梶はそういった。
「お前、ヤバいだろ。お供え物食うなんてどうかしてるぞ」
「どうせ動物が食っちまうさ。もったいないだろ」
「いや、もういい」分かり合えない。梶の無神経さに腹を立てた。
怒りが伝わったのか、梶は無言で俺の後を付いてくる。見覚えのある通りにようやく着き、安堵の息をつく。
後ろを振り向くと、梶の姿がなかった。いつからいないのかさえわからなかった。大きな声で梶、と叫んだ。こだまが遠くで鳴いた。
「お前、梶がどこ行ったかわかるか?」夜、食卓を囲んでいた父が神妙な面持ちで話しかけた。
「いや、知らない」嘘をついた。いや嘘ではない。本当に知らないのだ。
「そうか」俺をじっと見つめた後、親父はそう呟いた。
次の日、梶はまるで存在しなかったように村の一日が過ぎた。その日が何日も続いた。
日が過ぎて、週が過ぎて、月が過ぎても梶がいない日常に疑問を持つ者はいなかった。
梶の両親には会わなかった。暫く顔を見なかったので親父に聞いてみたら、ひどい熱が出て家に引きこもっているといった。親父の嘘はわかりやすかった。
俺は村の大人たちが恐ろしくなった。あの供え物は、誰が置いたんだ。あの洞窟には一体、何があったんだ。
しかし、それを聞く勇気はついぞ出なかった。知らぬふりをして一日、一日を緊張の糸で張り詰めて生きていった。
俺は16の年に逃げるように上京した。日本は資本主義の波に飲まれて、労働者を求めた企業が山の数ほどあったので、職には困らなかった。
やがて結婚して、子供ができて、腰の高さまですくすく育って、あっという間に時は過ぎた。箔豪村のことを忘れるほど忙しい毎日で幸運だった。
俺は滅多に箔豪村へ帰らなかった。親父が逝ったと知らせがあって、数十年ぶりに帰郷した。
干からびたように皺だらけの親父を見たときに、もう少し顔を合わせてやればよかったと後悔した。
そして今日、夕方のニュースで箔豪山の名前が出てくる。どうやら世界遺産になったようだ。息子に箔豪山について聞かれる。
箔豪山の奥深くの洞窟には神様が住んでいて、悪さをする子供がいると攫って食うのだ。
箔豪山の神はこうして語り継がれてきたのだろう。親父と全く同じおとぎ話をする。最後に一言、俺の忠告を添える。箔豪山には、近づくな。
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