Ⅵ.白き翼の微笑み

「来なさい!」


 梅雨の重くて湿った風が貴子のポニーテールを揺らす。両手を組んで肩幅に足を開き、右手には老人に貰った杖、そして突き刺さる様な鋭い眼光。

 対峙たいじする老人は貴子の宣言を聞くと同時に光の球で包み自らを防御する。

 だが、貴子は果敢に戦いを挑む。老人目掛けて全力で走り寄ると、彼に向って杖を振るう。


「天空の剣!」


 貴子の叫びと同時に杖は2メートルくらいの光の剣となり老人に切りつけた。しかし、貴子の動きはまだまだ遅い、老人はさらりとかわして貴子の背後に回ると自分の杖を雷をまとった槍に変え、同時に貴子に向って振り落とすと、そのまま突きの体制になる。


光輪こうりんの盾!」


 再び貴子はそう叫ぶと左腕に光の盾を装備して老人の攻撃をかわし、懐に飛び込もうとする。


風神召喚ふうじんしょうかん!」


 今度は貴子の背後で空間が歪み、台風の様な物が現れる。それは風の塊を老人に飛ばし続けた。だが、その風の塊は当たらない、楽々とかわされて、何の効果も無かった。

 ただ、その隙に老人の懐に入り込む事は出来たので、彼に向って剣をふるい続けた。彼の動きは老人と思えない程に早く、切りつける度にかわされて、段々と貴子の息が上がり始めた。


「こんのぉ~、眠りの妖精召喚ようせいしょうかん!」


 そう叫んで貴子は妖精を召喚しようとしたのだが、老人は彼女の顔の前に自分の掌を突きつけ、ちょっと待つ様に貴子に伝えた。


「ちょっと待て、貴子!」


 杖を振り下ろそうとしたポーズのまま、彼女の動きが止まる。


「な、なによ爺、盛り上がって来たのに」


 老人は貴子を真正面から捉え、思わずこう尋ねた。


「なぜいちいち技の名前を叫ぶんじゃ?」


 貴子の眼が点になる。


「――え?お約束でしょ?」

莫迦者ばかもの、繰り出す技の名前をいちいち叫んでたら避けられてしまうぞ」


 老人の言葉を聞きながら頬を杖の先端で、ぽりぽり掻き明後日の方向を見ながら、ぼそぼそと答える。


「だって、なんにも言わないと変な物が出るんだもん」

「貴子、それは致命的じゃぞ、技の名を叫んではならん!!」

「精神統一出来なくてさ、魔方陣が上手くイメージ出来ないのよ」


 老人は、はあっと溜息をつくと、貴子の顔を見上げた。


「宜しい、今日はこれまでじゃ」

「え~~、まだ出来るよ」

「その前に、何時でも魔方陣をイメージ出来る様にしなければならん。後は座禅でも組みながら、心を鍛える様に努める事じゃ良いか?」

「――はぁ……」


 妙な返事をした貴子を老人は再び見上げると、ちょっと落ち込んだ貴子に、ニカッと笑って見せる。


「ま、そう落ち込むでない、何とかなるぞよ。では又会おう、ばいび~~」


 老人はそう言って彼女の前から姿を消した。貴子は夜空を見上げたが、星は一つも見えなかった。


「修行が足りないってか……」


 ぼそっと心に中で呟くと同時に、老人の『何とかなるぞよ』と言う言葉に救われた様な気がした。そして、自分の足元に杖でぐるりと円を描くと「光の導き」と叫び、自分の部屋にワープした。そして、貴子はシャワーを浴びてから、パジャマに着替えベッドの上で座禅を組み精神統一の練習を始めた。が、結局そのままばたっと寝てしまい、何の練習にもならなかった。


★★★


 紀美代はパジャマ姿でぺたんとベッドの上に座り込む、黒く深い霧に包まれながら。彼女は憑りついた魔物にほぼ完全に体を乗っ取られていた。瞳は赤く輝き口角を上げ、この世の者とは思えない不気味な微笑みを作る。


「――ワタサナイ、ダレニモ」


 そう呟く彼女の声は、まるで嗄れた老婆の様で、16歳の少女を想像できる物ではない。

 だが、彼女の心の最後の壁が魔物を否定している。その中での葛藤は、まるで修羅の世界。かろうじてその心が勝利して、少女の姿を保ち続ける。しかし、それも間も無く取り払われて姿を保つ事も出来なくなる筈だ。そうなってしまった方が、遥かに楽になれるかもしれない。

 紀美代の戦いは今夜も続く。陽が昇り、朝の光が差し込むまで。しかし、その時間ときは永遠の様に訪れ無いのかも知れない。


★★★


 貴子達が通学する高校は、はっきり言って、物凄い辺鄙へんぴな処に有る。

 校舎の裏側は田園風景が広がり、校門付近は住宅街で、学校をさぼれる施設は全く無い。喫茶店はおろかコンビニすら無くて、登校したが最後、学校の中で暮らすしかない。

 もっともその環境が進学校の基礎を支えていると言っても過言ではない。

 何も娯楽が無いから、しゃーない、勉強すっかと言う事になる訳だ。

 更に生徒は何かの部活に必ず参加する事と言う、妙にお節介な校則が有ったりして、真面目に何かやりたい生徒はまともな活動実績の有る部に参加するのだが、貴子の様にやる気が無い生徒の場合、あまりめんどくさくなくて、幽霊部員で有っても文句言われない部に参加する。

 で、問題の科学部だが、一見潰れそうな弱小部活の様に見えるが、実は開校当時から部活として正式に認められており、学校的には伝統的な部である。しかし今同様、当時から人が集まらずに部員が一人とか二人とか、そんな状況が延々と続いている。

 そして歴代の部長は強烈な個性を持つ者が多くて、必ず幸の様な奴が普通の生徒に紛れて入学して入部して来るのだ。その縦繋がりの関係は切れる事無く続いてて、頻繁に連絡を取っている様だった。


★★★


 日曜日の昼下がり。貴子の家の真ん前に有る児童公園。幸はブランコに揺られながら、有る人物を待っていた。暫くしてその場に現れたのは先代の部長と、先々代の部長。

「やぁ、幸君。何か困り事かい?」

 男性の声に向け、幸は幸は振り返りブランコを降りる。

「こんにちは、二階堂にかいどう先輩」

 二階堂と呼ばれた男は髪の毛ぼさぼさで、無精髭で芸術家に良くいそうな人物に見え、その隣を並んで歩く女性は、ショートカットでスタイルも良く、如何にも活発そうな風貌は、過去、科学部に在籍していた事など想像出来ない位の美女だった。

「一人で悩んじゃ駄目よ、あたし達がついてるんだからね」

佐久間さくま先輩、態々わざわざ御足労頂いて感激です」

 幸は二人に深々と一礼してゆっくりと頭を上げる。

「じゃぁ、取りあえずお昼にしようか」

 二階堂はそう言いながら先陣を切って商店街の方に歩き出す。

「お姉さんがおごつてあげるから幸君の分は大丈夫よ」

「じゃぁ、お言葉に甘えます」

 そう言って二人も二階堂の後に続いた。幸には形振なりふり構っている時間が殆ど無かった。だから思い切って信頼できる先代達に頼ったのだ。この状況を打開するためには彼等の頭脳が必要だと。


★★★


 商店街の並びに有る中華料理の『大副飯店だいふくはんてん

 二階堂はその扉をゆっくりと開くと店内をぐるりと見渡す。


「お待たせしました、全員いらっしゃいますよね」


 その声に店内の客達の視線が一斉に二階堂に注がれる。

 店内に有る幾つか有る回転テーブルの上には既に料理が運ばれて、ビールや紹興酒等などの飲み物が配膳されていた。集まった面々の年齢は、上は80歳超えと思われる老人から、20代前半の者まで幅広い。幸はその面々に深く一礼して見せた。


「今回は、若輩者の私の為にお集まり頂き、恐縮至極に存じます。若造の世迷い言と言わずに是非、闊達かったつな御意見を頂けたらと思いますので、どうか宜しくお願いします」


 幸の挨拶を聞いたこの場で一番年長と思われる着物姿でサングラスの老人が、ゆっくりと立ち上がる。


「現部長様よ、聞けばかなり切羽詰まってるらしいじゃねぇか。なら、とっとと始めようぜ」


 えらく渋い声の老人は、そう言うと、どかっと座り両腕、両足を組み幸をじっと見詰める。幸は中央のテーブルにセットされたプロジェクターにタブレットパソコンを接続すると、今迄の経緯を説明し始めた。その様子を厨房の中から顎を摩りつつ、この店の主人も覗き込む。

 実はこの店の主人も、かつて科学部に所属していた一人だった。今此処に科学部の頭脳が全て結集したのだ。そして現状打開のための議論は始まった。


★★★


 月曜の朝は再起動が難しい。ベッドから体を起こすのも着替えるのも朝ごはん食べるのも。全てが億劫おっくうで無事に家の玄関を出るのに倍くらい時間が必要だ。従って、何時もの時間のバスに乗り遅れ、一本後の便に乗る事もしばしばで、移動中はいつも居眠り、目が覚めないまま本能で教室に入るなんて言う事も月曜恒例の現象だった。

 しかし、今日は学校が見え始めた処で、その眠気が見事に吹っ飛んだ。学校前のバス停に着いた途端、貴子はバスを飛び出すと、校門から校舎の様子を間近に見てそのまま凍りつく。


「貴子さん、おはようございます」

「あ、ああ、幸か……」

「どうかしたんですか、こんな処に突っ立って?」


 幸にそう言われて貴子ははっとした。そう、普通の人には見えないし、気配を感じる事も出来ない。この学校で起こっている事を感じられるのは、自分だけなのだと。


「幸、あれ、見えないの?」


 貴子は改めて校舎の方向を指差し、幸に尋ねて見たが、その答えは極めて残念な物だった。


「あれ……ですか…」


 幸の眼には貴子が指し示す方向には何時と変わらない校舎の姿が有るだけだった。


「何か見えるんですか、貴子さん?」

「一階が……」


 貴子がそこまで言った処に、誰かが割り込んで来る。


「おはようございます、幸先輩、貴子先輩」


 二人は一瞬ドキッとしてから声の方向に視線を移す。その視線の先に居るのは、紀美代、その笑顔は氷の様に冷たい。更に、彼女の後ろには数名の男子生徒。


「あ、き、紀美代ちゃん、おはよう」


 貴子の眼には紀美代は淫猥さと怪しさがパワーアップされている様に感じられた。それに、彼女の後ろに居る男子生徒は何者だろうとも。


「彼等ですか?」


 そして紀美代は貴子の視線に気がついたらしく少し体を横にして掌で男子生徒を指し示して見せた。


「彼等は、私のファンクラブなんですって」

「ファンクラブ?」

「ええ、私を好きになってくれた皆様です」

 そう言って彼女はほくそ笑んで見せる。

「でも、私が一番好きなのは、幸先輩ですからね」


 紀美代は幸の耳元でそう呟くと、黒薔薇の様な微笑みを見せ、ファンクラブの面々を引き連れて玄関の中に消えて行った。


「そろそろ、本気出した方が良いわね」

「はぁ……」


 貴子と幸も二人して玄関に入り二階の続く階段を登りながら一年の教室を覗き込むと、そこには結構な人数の男子生徒の姿。二人はその様子を見て思わず顔を見合わせた。


★★★


 何時もの公園。


 貴子は座禅を組んで目を閉じ地面から50センチくらいの処にふわふわと浮かぶ。地面には魔方陣が輝き、彼女の姿を闇の中にぼうっと浮かび上がらせる。老人も彼女と同じく座禅を組みながら同じ位置に浮かんで見せた。


「そうじゃ、雑念は全て消して、一点に集中するんじゃ。心にイメージを明確に刻んで気配を感じて見る事じゃ」


 貴子は少し顎を引くと背筋を伸ばし、心の中に波が現れない様気をつけながら、再度完璧に集中しようと試みる。


「ふむ、まだ揺れておるぞ、安定させるんじゃ」


 老人の指摘を受けて、自分が完全に空中で止まっているイメージをもう一度心の中に描く。


「よし、その調子じゃ」


 老人はそう言ったと同時に5メートル程距離を取って、いきなり『火炎球』を貴子の投げつける。その刹那、気配を感じた貴子は素早く光輪の盾と光の剣を出し、盾で全て防御すると、光の剣を大上段に振りかぶり、老人の頭に当たる寸前で剣を止めて見せた。老人は貴子を見上げにやりと笑う、そして貴子はちょっと得意そうな笑顔を見せる。

「よし、実技の方は大体合格じゃ。後は技を片っ端から習得する事。必要な物は明日までに準備するから、今日はこれまでとしよう」

 貴子はその場に立ち上がり、月を見上げる。そして小さな声で呟いた。

「紀美代ちゃん、必ず助けるからね」

 久しぶりに月や星が夜空に見え、その光に、ぼうっと映し出される彼女の姿は明らかに変わった。使命感と自信と言う心の変化。それは大きな武器になる物だった。


★★★


 音楽室のあたりから、ロシアの作曲家、アレクサンドル・ボロディ作のオペラ『イーゴリ公』その第二幕で使われた『韃靼人だったんじんの踊り』が聞こえて来る。ブラスバンド部は個人練習が終わり全体練習に入ったらしい。

 しかし科学部の部室に向かう貴子の足取りは限りなく重くて、中々前に進む事が出来ない。

 渡り廊下には、まだまだ高いが少し柔らかくなった陽の光が窓から差し込み、四角い光の束が何本か見える。

 貴子には分かっていた。紀美代の気配、そして、部室の前で何が起こっているのかが。

 幸は何気なく渡り廊下を渡りきり、部室に向って廊下を曲がろうとしたのだが、貴子は彼の襟首を掴んで思いっきり引っ張ると、自分の後ろに追いやった。

 そして、そ~っと部室前を覗き込む。その目に飛び込んで来たのは、科学部前に屯たむろする男子生徒達の群れ。いや、男子に交じって、女子の姿もちらほら見える。

 見た感じ、一年の生徒が中心らしく、貴子の知り合いは誰もいない。


「どうかしましたか、貴子さん」

「そ~っと覗いてごらん」


 そう言われて幸は隠れる様に部室の方向を覗き込む。そして、ゆっくり顔を引っ込めると部室の方向を指差しながら貴子に尋ねる。


「――なんですか?あれ…」

「紀美代ちゃんの影響がじわじわ浸食してるのよ。このまんまじゃ、学校全部乗っ取られるのも時間の問題ね」

「時間の問題って……」

「この前、ブラックライトで見たでしょ、あれの影響がゆっくり大きくなって来てるのよ」


 幸は腕を組んだ右手で自分の顎を弄りながら暫く考え込む。


「取りあえず部室に行きましょう。女性を待たせるのはマナー違反だと思いますから」


 そう言って幸は堂々と彼等の前に姿を現し、愛想笑いを浮かべながら人の群れを掻き分け部室の扉を開く。そして貴子もその後に続いた。

 扉が開いた瞬間、中に居る紀美代の姿を一目見ようと扉の隙間から顔を出した者も居たのだが、幸が意外と簡単にそいつらを追い出して、ぱたんと扉を閉じた。

 中央のテーブルに頬杖を着きながらその様子を見詰める紀美代の視線は、昨日に比べて更に鋭さを増し、射抜かれている感じがビシビシと伝わってくる。


「じゃ、じゃぁ始めましょうか」


 幸は紀美代に見詰められると、何故か卑屈になる自分に気がついて、思わず首を傾げて考える。出合った頃にはそんなプレッシャーなど微塵も感じなかったからだ。

 幸がパイプ椅子に座った頃合いで紀美代の視線には幸しか映っていない。


「幸先輩」

「なんですか紀美代さん」


 鞄から何か資料を取り出し、二人の前に配りながら幸は何となく返事をしたのだが、彼女の一言でその動きが止まる。


「安心して下さいね。私が好きな人は幸先輩だけ。あの取り巻きはアクセサリーみたいな物ですから」

「アクセサリー……ですか?」


 紀美代はゆっくりと頷いた。


「だから……」


 紀美代はそう言うと親指と人差し指をパチンと鳴らす。同時に彼女の掌の上にふわりと黒い氷の玉が現れた。それを暫く掌で弄んだ後、眉間に皺を寄せ、怒りを露わにし、貴子に向って思い切り投げ付けた。それを貴子の光輪の盾が弾き返す。紀美代は何事も無かったかの様に椅子に座り直すと貴子にこう呟いて見せた。


「へぇ……あのお爺さん、意外とやるのね」

「お陰様でね」


 貴子はちょこんと肩を竦めて見せてからゆっくりとパイプ椅子に座り、テーブルの上で両手を組み顎を乗せて紀美代を睨み返す。

 事実上、二人の直接対決1回目。勝負はイーブンと見て良いと思えた。ただ、幸だけが、今何が起こったのか理解出来ずに二人を交互に見ながら何も言葉が出ない。それを無視して紀美代はパイプ椅子からするりと立ち上がり、貴子の姿を見下ろした。


「いい勝負になりそうですね」

「フェアプレイでお願いしたいわ」


 貴子の言葉に紀美代は黒き微笑みを浮かべて見せる。


「勝てば良いのです。敗者に話す権利は有りません」

「――良く覚えておくわ……」


 紀美代はそのまま科学部の部室から姿を消した。同時に部室前に人の気配は感じられなくなり、少し傾いた陽の光が直接差し込んで来る。


「あ、あの、なんだったんですか?」


 極めて不審な表情の幸は、貴子にそう尋ねて見たが、彼女は何も語らなかった。ただ、貴子の瞳には明確な敵の姿が見えた。そして、その姿は強大で妥協出来る物では無い事も感じた。


★★★


 老人は後手でちょっとそっくり返りながら貴子の目前をてこてこと上機嫌で部屋の中を歩き回る。


「ふぉっふぉっふぉっ、第一回戦はイーブンか。まぁよい、初めての呪術戦としては上出来じゃ」


 貴子は胡坐をかいて床にべたっと座り込み右膝に肘を乗せて頬杖をつきながら老人を藪睨やぶにらみする。


「イーブンじゃないよ、ありゃ、完全に私の負け」


 老人は歩みを止めて貴子を見詰めながら不思議そうな表情を見せる。


「ほう、負け、とは?」

「術を出すまでのスピードが段違いなのよ。紀美代ちゃんは、ほぼ待ち時間無しで技を出すけど、私は2秒くらい掛かる」

「ふ~む、それは改善するべき問題じゃな」

「でしょ?」


 老人は貴子の方向にくるっと向き直ると、にかっと笑って見せた。


「しかしそれ単なるの練度の差じゃ、才能の差では無い。心配しなくとも時期に差は無くなる筈じゃ。昨日やったじゃろ、浮遊術。あれを毎日やる事じゃ、出来るだけマメに、集中力を強化すれば何の問題も無い」


 貴子は背筋を伸ばし、普通の視線に戻ると老人の姿を見下ろした。


「マメに?」

「そうじゃ、学校の休み時間や昼休み、5分でも10分でも構わん、出来るかな?」

「――た、たぶん」

「では、頑張りなさい、期待しておるぞ、では又明日じゃ、バイビ~」


 老人が姿を消した後の空間が少し寂しい。昔はそんな事は微塵も考えなかったのだが、最近は老人がいる事で安心出来る迄になった。何処で何をしてるのか全然分からない人物が気になるのは、何処かで血が繋がっているからだろうか。

 薄曇りの夜空に隠れる、月は何も語らず、自分の姿を主張出来ない事に涙ぐむ。


★★★


「うわっ、な、何やってるんですか貴子さん!」

「見れば分かるでしょ」

「分かんないです!」

「座禅よ、座禅。集中してるんだから邪魔しないで」


 科学部部室の中央テーブルに魔方陣を展開し座禅を組みながら貴子は約30センチの処にぴたりと止まり、空中に浮遊している。

 幸は、そ~っと彼女に近づくと、浮遊してている空間におっかなびっくり手を出して何も無い事を確認した。そして改めて彼女に視線を送る。


「なんか、こう、最近の貴子さん、凄いですね」


 貴子はふわりと机の上に着地すると、足をぶらぶらさせながら幸を笑顔で見詰める。


「凄い?なんでそう思うの……」

「なんと言うか、こう、僕には見えない物を見る事が出来るし、昨日の部活の時には、紀美代さんと戦うし、今日は座禅を組んで浮かんでたり……」


 貴子はちょっと視線を落としながら幸に尋ねる。


「それが凄いと思うの?」

「はい、人が出来ない事を次々こなすじゃないですか。そして、何時か自分の事も忘れ去って、何処かに行ってしまうんじゃないかと」


 貴子は相変わらず視線を落したまま、幸に視線を合わせない様に俯く。


「大丈夫、これは、紀美代ちゃんを助けるまでの仮の姿、私は私、何処も変わって無いわ」


 しかし、幸の表情は相変わらず不安なままだった。そして貴子が視線を上げると、テーブルから立ち上がり、幸の目の前まで進み出る。


「僕は貴子さんと約束した事が有るんです、それが夢に終わるのかと思うと、とても……」


 校庭の銀杏並木がざわりと葉を震わせ、部室の中には梅雨時には珍しい軽やかな風が通り抜け貴子の髪の毛を揺らすと、空に向かって消えて行った。

 そして貴子は幸の両肩に手を宛がうと、ゆっくりと踵を上げる。部室の中は暫くの間、沈黙と言う音に包まれる。そして、貴子はゆっくりと踵を元に戻す。


「た、貴子さん……」


 貴子は久しぶりに見た気がする、幸の真っ直ぐな瞳と純粋な心。


「大丈夫、私は絶対何処にも行かない。そして、幸が言ってる約束、なんだか思い出した気がする」


 そう言って優しく微笑むと、彼女は踵を返し、髪の毛を揺らしながら部室を出て行った。

 幸は自分の唇を右人差し指でなぞって見る、貴子は花の香りがした。爽やかで優しく甘い香り。頬の火照ほてりりが止まらない。夏迄まだだいぶ時間が有ると言うのに、心のどきどきが止る気配は無く、ただ呆然と立ちつくすだけだった。


★★★


 貴子は居間のソファーにでろんと腰掛け、今日の出来事を反芻しながら定まらない焦点でテレビを見詰め続ける。内容なんかどうでも良かった、事実、心は空っぽで完全に思考を止めている。

 そこに風呂から出て来た弟が、妙に意味ありげな表情でソファーに割り込んで来る。何時もと違って、なんだか勝ち誇った表情に違和感を感じながら弟を視線で散らそうと思ったのだが、今夜の弟は粘りが違った。弟は貴子の横顔をにやにやと笑いながら見詰めつつ、彼女との距離を詰めて行く。不気味な弟の行動に、貴子から思わず文句が出る。


「何だよ、気持ち悪いなぁ」


 しかし弟は怯まない、貴子に完全と挑戦している。その態度に少し引き気味に弟から距離を取ろうとずりずり動きながらテーブルに有るコーヒーカップを持ち上げ、中身を一口含む。


「実は俺も今日の放課後、彼女と二人で、商店街のス○バに居たんだよね~」

 その瞬間、貴子は思い切りコーヒーを噴き出した。


 一瞬沈黙……


「だ、だから何よ、良いじゃん別に、悪い事してる訳でも無し」

「でも、隣に座ってたのは誰かな~?」

「さ、さ、幸じゃん。幼馴染なんだから誘われれば一緒にコーヒー位飲むわよ」


 弟の追及は更に続く。


「いや~、あれは幼馴の態度じゃないなぁ」

「じゃあ何だって言うのよ」

「お見合いしてるみたいだった」

「はぁ?」

「なんにも話さないし視線も殆ど合わせないし、それでもちょっと嬉しそうだったし」


 そこまで言われた処で貴子の頬が真っ赤に染まる。心臓の鼓動は限界までピッチを上げて思わず口から飛び出して追いかけっこになりそうな勢いだった。

 しかし尚、弟の視線は貴子を捉え続け、にやにや笑いがねっとりと体に絡み付いて来る。その我慢の限界に来た処でソファーから立ち上がり弟に背を向けると、自室の方に姿を消した。

 暫く閉じ篭るしかないと思って部屋のドアを開けた瞬間、いきなりクラッカーの音と紙吹雪。


「貴子、ファーストキスおめでとう!」


 そこに何時もの老人がクラッカーを持って立っていた。


「にゃ、にゃによ!」


 貴子はやっとの思いで壁に縋がり辛うじて立ってる事が出来たのだが、老人は止とどめの一撃を炸裂させる。


「いや~めでたい。これで家の家系は万々歳、一生一人もんかと思っておったが、いやいや、見事じゃ。早く結婚して孫の顔を見せておくれ。取りあえず今日は記念日として記録しておこう」


 そう言って部屋の隅に貼って有ったカレンダーに嬉々として赤丸を付ける。貴子は力尽きた、べったりとその場に倒れ込むと、ぼそっと一言呟いた。


「私ってば、そんな悪い子だったのかなぁ……」


 そしてベッドに潜り込むと、布団被って何も考えないようにしながら日の出を待つ事にした。ホントに日は昇るか、ちょっと疑わしく思いながら。


★★★


 何時もの朝、何時もの校舎。しかしそのたたずまいは日々変わって行く。

 そして黒い霧は今朝、校舎の二階部分を完全に呑み込もうとしている様を見てその姿に圧倒され、暫く見詰め続けるのだ。


「おはようございます、貴子先輩」


 校門の陰から声が聞こえた。貴子はその声に、思わず身構える。その先には両腕を組み、校門に背中をもたれかけた紀美代の姿。その自信は頂点の様で、彼女の周りを一年生の約半分が取り囲む。


「あ、ああ、おはよう、紀美代ちゃん」


 とにかく自然に接したいとは思うのだが、体が硬直して妙に乾いた笑顔になる。フレンドリーさを強調する為に彼女に向って手をひらひら振って見せたが、彼女の眼力めぢからがそれを打ち砕く。彼女の後には取り巻き連中がたむろして、その人数は以前の倍ぐらいに増えていた。そして、物凄い敵意を発散する。

「じ、じゃぁ、私、ちょっと急ぐから」

 そう言って貴子はその場を立ち去ろうとしたのだが、取り巻き連中が殺気立ち一触即発状態になる。


「おはようございます、貴子さん」


 そこに幸が現れて何時もの様に、ちょっと抜けた感じが取り巻き連中の殺気を蹴散らす。


「おや、紀美代さんも御一緒でしたか」


 そう言って紀美代に笑顔を向ける。貴子は幸の制服の端っこをつんつん引っ張り、早く行こうと促したのだが紀美世は素早く幸に近づく。


「幸先輩」


 紀美代は意味有り気な表情を見せると彼の制服の襟に手を掛け、思い切り引っ張った。幸は突然の事でバランスを失い前のめりにつんのめり、それを紀美代は優しく抱き止め顔が合った瞬間、幸の唇に自分の唇を重ねた。

 貴子はあっけに取られ二人を点になった瞳で見詰める。勿論、玄関に向かって歩いていた生徒達の視線も、一斉に注がれる。

 そして校庭に居た者達全員が言葉を失う、同時に一陣の風が皆の頬を撫で、銀杏並木の葉を揺らして駆け抜けた。


「き、紀美代さん、なんばしょっとですか!」


 幸は意識を回復し、紀美代から飛び退いた。しかし紀美代はにやりとして見せただけで、ゆっくりと立ち去った。


「ちょっと、何やってるのよ!」

「き、奇襲攻撃でしたので、避け様が有りませんでした」

 貴子に詰め寄られ、お尻を校庭につけたまま、ずりずりと後ずさる。

「朝からぼけぼけしてるからよ」

「いやもう、柔よく剛を制すって事で、いきなり一本背負い食らった様な感じでして……」


 貴子は腰に手をあてがい仁王立ち、烈火の如きオーラを発していたが、それは一瞬で消え去った。


「ま、いいわ、早く行きましょ。何時までも晒し物になってる必要なんて無いし」


 そう言うと幸に手を差し出し、立ち上がる様に促す。その手を握った幸の頬がみるみる赤く染まって行く。そして立ち上がると、叱られた子供の様に手を曳かれて玄関の中に姿を消した。その一部始終を見ていたジャージ姿の則子が、体育館の扉から身を乗り出して、にやりと笑って見せた。

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