Ⅴ.黒き少女の微笑み

 幸は帰宅して自室に籠るとパソコンのモニターをじっと見詰めた。映し出されているのは製図用ソフトの画面。それをじっと見詰めながら一心不乱に何かを考えたが、妙案が浮かばず、思考はぐるぐるループするだけだった。

 長くその状態が続いたが、母親から夕食の準備が出来た旨の呼びかけが有り、食事の為に一旦席を空ける。そして戻って来た時の幸の表情は一変して嬉しそうな表情を見せ再び席に着くと不敵ににやりと嗤って見せる。


「気分転換は、やはり必要な物ですね」


 食事中に何かを思いついた様で、黙々と図面を描き続ける。そのまま図面に没頭し、御来光を拝む事になるのである。


★★★


 紀美代は何時もの様に、今日の課題をかたづけつつ、何時ものラジオパーソナリティの放送をBGMに小さな鼻歌交じりに課題を片付けて行く。

 そして、大きく伸びをして『終わり~』と嬉しそうに呟いてから席を立ち、明日使う教科書やガイドブックを鞄に詰めてから、パジャマに着替えてベッドに入る準備をする。その時、突然ガリガリとラジオにノイズが入り、全く放送が聞こえなくなってしまった。紀美代は不思議そうな表情でラジオを覗き込みゆっくりと耳元に当てたり、振ってみたり叩いて見たりしたのだが、相変わらず、ノイズは続き彼女は困った表情をする。


「電池無くなっちゃったのかな?」


 そう言って電池の残量表示を確かめたのだが、フル充電の表示がされていて、電源は問題ない様だった。

 このラジオは電池で聞く事も出来るのだが、コンセントからも電源は取れる。そのケーブルの行き先を見れば、ちゃんとコンセントにちゃんと差し込まれているので、電源がどうこう言う問題では無さそうだ。

 ダイヤルを回して周波数を変え、別の局を呼んでみたのだが、どの局も同じようなノイズで聞きとる事が出来ない。


「壊れちゃったかなぁ……」


 このラジオは紀美代が小学生の時に父に買って貰った物で彼女がとても大事にしている物だった。

 紀美代はラジオを元の場所に戻すと本体の電源を切った。


「あれ?」


 しかしノイズは止まらない。

 しょうがないのでコンセントからプラグを引っこ抜いて見たのだが、それでも音は止まらない。ならばと内蔵の電池を外して見たのだが、それでもノイズの音がする。

 紀美代は何となく気味が悪くなって、ラジオから一歩後づ去ると不審な表情でラジオを見詰め続けた。

 すると、ラジオが、かたかたっと動き出し、紀美代は『きゃっ!』と小さく叫ぶ。それと同時にラジオから黒い霧がもくもくと湧き出した。異変を感じた紀美代は部屋から逃げようとしたのだが、霧が体に張り付いて来て、口を押さえ込まれて身動き出来ない。そして彼女の背筋を冷たい汗が流れ落ちる。


「おか、お母さん!」


 紀美代の最後の抵抗は儚く散って霧に全身を覆われ、間も無く紀美代は意識を失い黒い霧と同化してしまった。

 家族はその事に全く気付く事無く一晩を過ごす事になる。そして、紀美代はぼんやりと夢を見る。 額に一本の角を持ち、漆黒の馬に跨り、黒いマントを靡かせながら自分を見詰める若い男の姿。そしてその夢は直ぐに消え、再び漆黒の世界に放り出された。

 紀美代は再び感じ始める、このまま時間が止まってしまう様な孤独と言う監獄の中に居る恐怖を。


★★★


 午前6時、運動部の朝連の関係で、既に校門は開けられている。そして、幸も科学部の部室に入り、昨日の図面を開いて何やら作業を行っていた。作っているのは『せめて一太刀』用の最終兵器。

 科学部の部室には、どっから持って来た?と驚愕する様な部材が結構放置されていて、大概の物は手作り出来る。

 そして、ほぼ完成の状態で、一旦作業の手を止ると、部室の片隅の更に奥から一個の重そうな金庫を取り出した。それにはには『キケン!!世界が終るまで開けるな』とでかい張り紙が貼り付けて有る。

 その金庫を見た幸の表情がみるみる悪そうな笑顔に変化していく。そして、金庫のダイヤルをぐるぐると回し、カチッと鳴ったところで徐に扉を開いた。


「また一仕事して下さいね」


 幸がそう言いながら取り出したのは、テニスボール位の丸いカプセル。世界で一番黒い素材以上に黒く、一瞬そこに向って吸い込まれる様な錯覚に陥る。そして更に悪そうにほくそ笑むと、ぐふぐふと嗤って見せた。朝の光が部室に差し込んで爽やかさを演出して見せたが、部室にはそんな爽やかさなど一片も落ちていなかった。


★★★


 黒い霧からやっと解放されて、自由の身なった紀美代はべったりと床に座り込む。全身汗まみれの揚句、眩暈と吐き気が交互に襲ってくる。

 これではとても学校に行く事は出来ない。今の体調をを母親に話したところ、今日は学校休んで一日安静にしてなさいと。指示された。

 紀美代はとにかくシャワーが浴びたかった。汗を流してしまいたいのと、気分転換に成りそうだったから。

 シャワーを浴びてから、別のパジャマに着替えると、自室に戻り、ベッドの上に倒れる様に横に成る。

 そして、彼女は気が付いた。ラジオのノイズが消えている事を。それに安堵した紀美代は、深い眠りに落ちて行く。そして目が覚めた時には午後4時を廻っていた。


★★★


 休み時間、貴子は則子の惚気のろけ話にちょっとウンザリな表情を見せる。

 この前のマラソン大会の一件で、どさくさに紛れて、意中の人と急接近、今は正式にお付き合いしてるらしい。


★★★


 ピンクのハートは力士が撒く塩が如く、いやそれ以上の勢いで噴出し、このまま後十分も聞いたら自分はハートの中で溺れ死ぬんだろうと本気で思った。


「そう言えば、貴子は誰とも付き合ってないの?」


 則子が何となくそう尋ねると、貴子も何となく答えて見せる。


「うん、まぁね」

「ふーん、幸君は何でも無いんだ」


 則子の言葉に貴子は眼を見開き、右手で頬杖をしている掌から、顔だけずるっと落っこちた。

 貴子は何言ってるんだい則子さんと心の中で大きく叫ぶと、再び彼女に視線を向けた。


「そうなんだ。最近一緒に行動してる事が多いから、そう言う事になったんだって、思ってたのに」

「だから惚気話なんてしてるのね」

「うん、対等の立場に成ったんだねぇって思ってさ。彼氏が出来たんなら少し自慢話してみたいじゃん」


 貴子は鼻からふんっと息を吐き出して呆れた表情。


「あれはただの幼馴染よ」

「そぉ……」

「そ、恋愛対象なんかじゃないわ」


 則子は椅子に座ったまま、ずりずりと貴子ににじり寄って行く。


「でも、幸君って人が良さそうじゃん。それに、あのまんまる眼鏡を外したら、結構美少年に成るとか」

「あの莫迦、幼稚園の頃に既に眼鏡してて、実は素顔をあんまり見た事無いのよね」

 則子は鼻でふぅんと言うと貴子に更にずりずりにじり寄る。

「でも、そこから恋に発展する事も珍しくない様よ、取りあえず、キープしといたら」


 則子はそう言ってからウィンクして見せる。


「あのねぇ、則子さん!」


 貴子がそう叫んだ瞬間、始業のチャイムが鳴る。間も無く『現国』の教師が教室に入り、今日最後の授業が始まる。

 貴子は幸の席をちらっと見て、今に成って気が付いた。彼は今日一日教室に居なかった事を。そして何やってんだあの莫迦と、心の中で罵声を浴びせた。


★★★


 放課後になって幸は教室に現れた。そして則子は「則子、いっきま~す」と言って教室から出て行こうとした。そして、二人の摺れ違い際に『駄目だよ、幸君、貴子が寂しいってさ』と呟くと、幸は則子の言葉にポカンとした表情。則子はにっこり笑って手を振りながら、教室を後にした。


「ちょっとあんた、今迄何やってたのよ」


 いきなり貴子に叱られて、幸は後頭部をぽりぽり掻いている。


「あの、寂いしいんですか?貴子さん」

「は?」


 貴子は眉間に皺を作り、尖がった目つきで幸を見上げる。


「い、いえ、何でも無いです……」


 幸は困った笑顔を作ると自分の席に着き鞄を机の上に置いて、さっき使った図面をしまう。そしてゆっくり立ち上がる。


「今日は科学部はお休みです」

「ん?なんでさ」

「はい、ちょっと根を詰めすぎました。今日はこのまま帰って早いとこ寝てしまいたいと思います」

「はぁ……」

「それに、紀美代さんが、今日はお休みなんだそうですよ、なんか体調崩されたとかで」

「ふ~ん」


 貴子はどっこいしょと言わんばかりにゆっくりと立ち上がり鞄を持つと幸の方に振り替える。


「ほら、早く」


 幸は嬉しそうに貴子に『はい』と返事をして、その後に続いた。

 校舎を出て空を見上げると、まだまだ陽が高い。科学部に付き合う様になって、帰りはとっぷりと日が落ちているのが普通になったのだが、今日は明るい。それが、なんだか新鮮に思えた。

 二人は校門を出て向かい側のバス停まで進む。時刻表を見ると、タイミングを逸してしまったらしく、バスは、あと20分位しないと来ない。

 そして、全く話す事も無く、時間だけが過ぎて行く。でも、貴子は思う。横に幸が居ても、全く違和感を感じない。確かに付き合い長いし幼稚園から今迄、幸は常に自分の傍にいた。

 理由はそれだけなのだろうかと、考えて見たのだが、彼女にその結論を出す事は出来なかった。そしてちらりと横目で幸を見上げる。


「紀美代さん……」

「は?」


 幸が突然喋り出したので、貴子はちょっと焦り気味に返事をする。しかし構う事無く幸は話を続ける。


「――心配ですね」


 幸は貴子に首だけ向けて、貴子を見下ろす。


「あ、うん、そうだね、心配だね」


 ちょっと冷や汗混じりに答える。


「無理、させちゃいましたかね……」

「入部したばかりだから、まだ緊張してるのかも」


 幸はその瞳を今日最後の輝きだと言わんばかりの太陽の方に向け、眩しそうな表情を見せる。


「そう言う、常に緊張させてしまうような雰囲気は、改善する必要が有りますね」

「そうかも知れないわね」


 貴子は苦笑いしながら視線を地面に移すと、土を靴で弄ぶ。


「貴子さん!」

「ん?」


 幸はがばっと貴子に向き直り彼女の手を取ると、どぼどぼ涙を流しながら貴子に訴える。


「二人で楽しい部にする様に頑張りましょうね!」

「莫迦、私は文芸部だ!」


 貴子はそう言って、無理矢理幸の手を振り払い両腕を組んで見せる。幸はその態度にしくしくと泣きながらかくんと頭を垂れた。


★★★


 帰宅すると珍しく弟が帰っていた。奴はリビングのソファーのど真ん中に胡坐をかき、スマホのゲームに夢中になっている様だった。

 貴子は自室で制服から普段着に着替え、のたのたとリビングに向い、弟が座っているソファーの横に来ると、どかっと彼をけっ飛ばし、ソファーの端に追いやると、自分の場所を確保す。そこにドスンと腰をおろし、弟と同じ様に胡坐をかいて座り込む。

 弟は無言で起き上がりこぼしの様に起き上がり、何食わぬ顔でゲームに集中する。貴子その表情を覗き込みながら、にやりと嗤う。その姉の視線を弟は避けるように右に45度体を回す。しかし貴子はしつこく追いかける。

 結局360度回った処で、やっと彼は口を開いた。


「なんだよ、姉貴」


 流石にうざったそうに弟は答えたが、それ以上に黒いにやにや全開で貴子がこう切り返す。


「あんた、彼女いるでしょ」


 突然の姉の言葉に弟は言葉を濁す。


「何だよいきなり」

「お、否定しないな」


 その言葉で弟は、ハッと気が付く。


「べ、べつに姉貴には関係無いじゃんか」


 しかし貴子は更に弟を追いつめる。


「まさか、如何いかがわしい事なんかしてないわよね」


 その一言に弟の顔が真っ赤に染まる。


「何だよその如何わしいってのは」

「あんな事とかそんな事よ」


 弟は何か訳の分からない事を叫びながら、スマホを放り投げ、頭を両手でぐちゃぐちゃにする。そして正気を取り戻すと一言短く叫んだ。


「してねぇよ!」

「ほ~、何時まで我慢できるかな~」

「うるせぇ、あっち行けよ姉貴!」


 貴子はけらけらと笑って見せたが、その後急に神妙な顔になり弟をじっと見詰める。


「ね……」


 弟はぶんむくれて貴子と顔を合わせようとしない。


「合い方がいるって、どんな気分さ?」


 猫の様にソファーに座り自分を見上げる姉の真剣な表情をちらっと見た弟は、ちょっと複雑な表情のまま視線だけを天井に向ける。


「――す、少なくとも、優しくなれる」

「優しく?」


 弟は貴子をじっと見ながらにこりと微笑み思い出話を始める。


「俺と姉貴って、小さい頃から殴り合いの喧嘩してただろ」

「え、ま、まぁね」

「当時は力は姉貴の方が強くていつも姉貴が勝ってたじゃん、それで、何時もお袋に怒られてさ」


 貴子はその時、弟が何を言いたいのか良く分からず、小さく首を傾げて見せる。


「でも、俺が中学生になって、一度腕相撲したの覚えてる?」


 貴子は首を横に振る。


「その時、姉貴は両腕使っても俺に勝てなかった」

「ごめんね、覚えて無いや」

「俺はその時理解した」

「何を?」

「もう、女性に手は上げられなくなったんだって」


 そう言ってから再び弟はにこりと微笑む。その表情に貴子は弟の内側には既に男の度量が芽生えている事に気が付いた。


「それを、今の彼女に向けて、彼女もそれに共感してくれている。旨く言えないけど、そんな感じかな?」

「何生意気な事言ってんのよ!」


 そう言って貴子は弟の顔面向けて右ストレート繰り出した。

 しかし、弟はふわりと受け流すと、貴子のパンチを右手で優しく包んでいた。その対応に貴子ははっとして弟の視線に目を合わせる。そして心に浮かんだ言葉はただ一つ。

 負けだ……

 貴子は視線を落とし、悲しそうで有り悲しそうでも有る複雑な表情を見せ、左の瞳から涙が一粒。


「順調に育ってるんだね、あんた」


 今の自分は我儘言い放題のお嬢様、心がまるで育ってない稚拙な人間に見えて来た。そして思う、女は男の度量に惚れるのだと。

 貴子はソファーから立ち上がると弟に背を向ける。そして「頑張ってね」の一言を残して自室に向って姿を消した。


「なんだ、一体……」


 弟はそう呟くと腕を組み首を傾けて、じ~っとその場で考え込んだ。


★★★


 紀美代は昨夜の事を両親に訴えた。しかしあまりにも破天荒な話に両親は鵜呑みすることが出来ず真剣に取り合う事が出来ない。

 思春期に有りそうな漠然とした不安、妄想に近い世界の話を頭の中で現実の事とすり替えてしまったと思ったからだ。

 しかし自分の娘があまりにも脅えるので不安な要素が有るのなら、排除するのが親がするべき事と考えて、ラジオは父親の物となり、代わりにやや小型のテレビが用意された。それで全て丸く収まる筈だった。紀美代は両親がしてくれた事に安心して眠りについた、しかし……


★★★


「何よ爺……」


 老人は一点を見詰めたまま動く気配が無い。


「だから、どうしたのよ、いきなり黙り込んじゃってさ」


 老人は髭で全く分からないが、多分、唇と思われる処に人差し指を立て静かにする様、貴子に伝えた。

 貴子の部屋は一瞬沈黙に包まれる。そして彼女も耳を澄ます。

 2~3分過ぎた処で老人は一瞬視線を床に落として何か呟いた。


「なによ爺、聞こえない」


 老人はゆっくりと貴子に視線を移す。


「ちょっと厄介な奴が来た様じゃな」

「誰よその厄介な奴って……」

「うむ」


 そう言って老人はとことこと部屋の中を歩き回り始めた。


「貴子よ、お主は地獄と言ったら何を思うかな」


 貴子は間髪いれずに答えて見せた。


「借金!!」


 老人は貴子の頭を杖でぐりぐりと小突く。


「痛ぇじゃねぇか、このくそ爺」


 老人は貴子の罵倒を無視して相変わらずのこのこ歩きながら話を続ける。


「これは、あくまで仏教の場合じゃ」

「仏教?」

「各宗教で地獄の定義が違う事は分かるじゃろ」

「――う、うん、まぁ」


 貴子は乾いた笑顔で老人を見詰め、物凄く曖昧な返事をする。


「仏教の場合はな、地獄とは六道と呼ばれる六つの世界の中の最下層に当たる世界じゃ」

「はぁ……」


 貴子は何となく分かった様な分からない様な表情で老人を見詰める。


「六道とは上の世界から順に言うと、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道と分かれておってな、今我々のいる人間道は、住むにはちょっと難が有るが、唯一自分の意思で仏になる事が出来る世界なんじゃよ」


 貴子はしまったと思った。爺の心に火をつけてしまった事に。年寄りの説教は長いに決まってて、この爺の話も同じで、はっきり言って、長い。


「その世界を仕切るのが、六観音の一人『聖観音しょうかんのん』なんじゃよ」

「ふーん、閻魔えんま様じゃないんだ」

「閻魔は冥界の王では有るが、死後35日目に、六道の何処に復活するか決めるだけで、他の王達と大して変わらんのじゃよ」


 そう言うと、老人はぴたりと歩を止めて、貴子に強い視線を送る。


「問題はじゃ、冥界の王は10人いて、その誰かの匂いがする事じゃ」

「誰かのって、誰だか分かんないの?」

「匂いを感じる事が出来るのは一歩前進じゃ、十分注意するのじゃぞ貴子」

「注意ったって、何に注意すれば良いのよ」

「お主も闇の影を感じられるようになったんじゃろ、それが感じられれば十分じゃ」


 貴子は見るからに胡散臭そうな表情で老人を見詰める。


「ま、明日になれば、何か分かるじゃろ、突っ込んだ話はそれからにしようかの、では又じゃ、ばいび~」


 貴子は老人が消え去った処を更にパワーアップした胡散臭い表情で見詰め続ける。


「――毎回々、ばいび~じゃねぇよ」


 時刻は既に夜の12時を迎えようとしていた。そして老人の言葉を反芻してからぼそっと呟く。


「要するに、明日は何か有るって事かい……」


 呟きが溜息を呼び、思わず天井を見る。しかし嫌でもあしたは訪れるのだ。貴子は心を落ち着けてからゆっくりと瞳を閉じた。


★★★


 こう言うイベントの朝は押し並べて早く来る様に感じる。おそらく、防衛本能と言う物かも知れないと貴子は思う。

 何時もどおりバスから降りて校門を潜ろうとしたが、門の横に身を隠し、そっと校内を伺った。

 中は特に変わらない、何時もの朝の風景で、特に不審な様子を感じる事は出来なかった。良しと思って校内に入ろうとした瞬間、肩を叩かれ心臓がどくんと大きく脈動する。


「おっす、貴子ちゃん」

「お、脅かさないでよ則子」


 貴子はホッと胸を撫で下ろす。それを見た則子はあたりの様子をきょろきょろ見渡す。


「貴子、何、きょどってんのよ。持ち込み禁止のブツでも持って来たか?なら、私にもくれ」


 自分の挙動がおかしい事にひょっとしたら皆、気が付いてるのかと思うと思わず背筋を伸ばし、平静を装う。


「そんな事してないわよ。処で今日は遅いねあんた」

「うん、今日は朝練、中止なんだって」

「へぇ、ラッキーじゃん」


 しかし則子は手を組み空に向かって何か祈る様な仕草をして、きらきらの瞳を更に輝かせる。


「何時もは朝からあの人に会えるのに、今日は終業まで会えないのですよ、ああ、神様、どうしてあなたはこうも残酷なのですか」


 貴子は思う、もしも彼氏が出来たとしても、こう言う女にはならないぞと。好きなのは分かるが、あんまりべたべたし過ぎると、絶対うざったがれると思うから。

 ホントにどうでも良い事を喋りつつ、玄関を入り上履きに履き替えて、二人連れ立って教室に向かおうとしたのだが、一年の下駄箱前を通り過ぎた瞬間、聞き覚えのある声で呼び止められた。


「おはようございます、貴子先輩!!」


 紀美代は元気そうな笑顔を見せると貴子の処に寄って来た。


「おはよう、もう大丈夫なの?」

「はい、もう元気です」


 紀美代も何時もどおりで元気な様だ。昨日の老人の言葉を思い出してみたのだが、結局は案ずるより産むが易しで終わるのかと期待したのだが、一年の教室に向かう通路で背を向けた紀美代の背中を見て、貴子はぎょっとすると同時に全身冷や汗に包まれる。


「どうしたの、貴子?」


 則子が不思議そうな表情で尋ねたが、貴子は何も言う事が出来ない。

 紀美代の背中には巨大な烏からすの翼の様な物が生えている。その黒さは闇より黒く、濡れている様な艶つやを見せる。

 その事を何も気にする事無く紀美代は少し振り向いて笑顔で会釈して見せたのだが、その笑顔は女子高生の物ではない。

 邪悪だが酷く淫猥いんわいで冷たく、その視線には吸い込まれそうな程の魅力が有った。紀美代は自分の教室に消えようとした瞬間、ばさりと翼を羽ばたかせて見せる。貴子は脅えた表情で、全身震えを抑えることができず、ぺたんとその場に座り込んだ。


「さてさて、本当に厄介な事になったのう」


 貴子の傍に老人が現れ彼女に話しかけたが、貴子は相変わらず動く事が出来ない。


「――な、な、何よアレ」


 貴子は震える声で老人に尋ねた。


「極めて巧妙なやり方じゃ。自分が乗り移るのではなく、力だけを置いて行ったんじゃ」

「その、力の元は誰なのよ」

「おそらく阿修羅、六道の四番目の世界に住む闇の王。今更、何をしようと言うんじゃ」


 貴子はやっと床から立ち上がると老人に尋ねる。


「どうすれば良いのよ」

「それは全て、貴子、あんたのやる気に掛かっておる」


 貴子は老人を見下ろしながら少し自信なさげに答えて見せる。


「私のやる気って?」

「友人を助けたいと思う強烈な心じゃ」

「でも、私にそんな事出来るのかな……」


 貴子の表情は相変わらず曇ったままだ。


「幸男と言う男の力も借りるんじゃ」


 その言葉に驚く貴子、そしてオウム返しに尋ねた。


「幸……に…?」

「そうじゃ、あの男は何かを持っておる」

「幸だよ?」

「人をみくびるでない、良いな」

「う~ん……」


 老人はそう言うと貴子の前から姿を消した。


「ちょっと、あんた何やってんのよ?」


 則子が不安げな表情でそう問いかけた瞬間、貴子の意識は帰ってくる。そして、自分の周りが人だかりになってる事にも気が付いた。

 則子は人だかりから貴子を引っ張り出すと、そそくさと、自分達の教室に逃げ込む。

 同時に始業のチャイムが鳴り授業開始を告げた。


★★★


 2時限目の休み時間、貴子は幸の手を引っ掴んで、がつがつと足音を響かせ教室から出て行った。幸は貴子に引きずられるように後ろを付いて行く。


「ど、どうしたんですか、貴子さん?」

「何も言うな、きりきり歩け!」


 そして、一階の教室まで降りて来て、紀美代のクラスを指差した。しかし、その意味が幸には分からない。


「あれ、見える?」


 幸は貴子が指差す方向を見たのだが、彼女が何を指差しているのか分からない。何時もどおりの休み時間、それ以外、何も見えないし何も感じない。


「――いえ、何も……」


 しかし貴子には見えていた。紀美代の教室が、黒くて重い霧に包まれ、冷たい『邪気』を発している事を。更に黒い霧は雲となって稲妻を走らせる。


「見えてくれないと困るの、あれが見えないなら私達は対等に戦えない」


 幸は貴子の言葉に大いに引っかかりながらも極めて冷静に答える。


「戦う?誰と?」

「紀美代ちゃんよ!」


 幸は一瞬目が点になって、暫く貴子をじっと見たまま何も言わなかった。


「いい幸、紀美代ちゃんには、なんだか良く分からない物が憑いているの。爺は修羅って言ってたけど、それがどんなもんなのか、正直私には分からない」


 幸は一瞬考えてから貴子に聞き返す。


「修羅と言えば六道のアレ……ですよね…」

「そうよ、それが分かるんなら話は早いわ」


 しかし、幸の眼に、その邪気と呼ばれる物は見えないし、感じる事も出来ない。

 幸は首を傾げて更に考え込む。そして、頭の横っちょに電灯がぴかっと灯り、ぽんと手を叩くと、脱兎の如く科学部の部室に走り去った。

 数分後、幸は山の様な機材を抱いたり背負ったり押したりして戻って来た。


「何よこれ?」

「はい、色々と有りますよ、取りあえずオシロスコープとか絶対フォトルミネッセンス法量子収率測定装置とか粒子分布測定装置とか放射線測定装置とか。あ、ブラックライトも有りますよ」


 幸はそう言いながら嬉しそうに廊下にがゃがちゃと機材を並べ始めた。


「どうする気よ?」

「見えないのは人間の可視光線の周波数から外れているからです、ならば色んな物で測って見るのが一番、特に貴子さんの眼には霧状に見えると言う事でしたので、粒子測定装置を中心に揃えて見ました」


 幸はそう言って廊下のコンセントに10個くらい同時に分配出来るテーブルタップを繋ぐと、嬉々として次々、装置のスイッチを入れて行く。すると各装置、鈍い動作音を発しながら息を吹き替えし、モーター音やらリセット動作を終え、全て使用可能の状態になった、のだが……


「おい、お前達、何やってるんだ」


 彼らの背後から突然現れた教師の姿。それに、二人とも思わず振り返る。


「なんだ田中、またお前か。いい加減にしないと、科学部は本気で廃部にするぞ!」


 激怒する教師の一括を幸はさらっと受け流して楽しそうに準備を進める。


「いいか、授業の邪魔するんじゃないぞ」


 教師は捨て台詞を吐くと教室の中に消えて行った。幸は嬉しそうに『すみませーんと』声をかける。教師は教室に入る前に、苦々しい表情でちらっと幸に向けたが、この変わり者に理屈で対抗できる教師はこの学校にはいないらしい。


「では、始めましょうか」


 色んな装置に囲まれた幸は楽しそうに貴子にそう伝えると、次々カメラやら端子やら、彼女の頭では理解出来ない、各種の測定を行う。

 幸は暫く測定器の数字をじっと見ていたのだが、腕を組んだまま首をちょっと傾げて、再び黙り込んでしまった。


「ね、幸、何か分かったの?」


 貴子はちょっと不安そうに幸に尋ねた。


「粒子測定は全部反応しませんでした。ただ……」

「ただ、何よ」

「オシロスコープで、なんか妙なノイズが出ますね~。50キロヘルツなら蛍光灯とか、本体の電源ノイズな可能性が有るんですが、これは全然違います、雷みたいな周波数です」


 貴子はそう言われても、何の事だか良く分からず「はぁ……」と小さく答えて見せた。更に幸は防護用のゴーグルをつけると、ブラックライトで周辺を照らし周囲を大きく見渡すと幸の表情がぴくりと動く。


「あ……何か見えますよ貴子さん」

「え?」

「粒状の物が沢山見えます。ナルホド、肉眼で見える程大きい粒子なんですね。もっと小さい物かと思ってたんですが、これじゃ、今持って来た計測器は使えません」


 幸はそう言うと、貴子にゴーグルとブラックライトを渡し、粒子が見える方向を指し示して見せる。


「――ほぉ~、確かに何か見えるわね」

「ね?」


 幸は再びゴーグルとブラックライトを受け取ると、光る物体を照らし始める。すると、ぼんやりと何かの姿が見えて来た。幸はブラックライトのスイッチを切ると、ゴーグルを外す。そして、いきなり目に飛び込んで来た物に派手に驚いて尻餅をつく。


「わぁ!」


 現れたのは紀美代だった。しかしなんだか様子がおかしい。何時ものきらきらでキュートな笑顔は影を潜め、粘着質な視線は酷く艶が有って10代の少女の笑顔とはまるで違う。淫靡いんわいで正気が吸い込まれて行きそうな手練てだれの女が持つ黒い微笑み……

 紀美代は幸の前にゆっくりとしゃがみ込む。そして再び笑顔を見せるとまるで別人の様な表情で幸に尋ねた。


「幸先輩……」

「え、あ、その、なんでしょう?」


 紀美代は口の端っこでにやりと笑って見せると幸の頬に掌を当て、優しく撫で回す。


「授業中ですよ、静かにして頂けますか?皆さんが困っています」


 紀美代はそう言いながら視線を自分の背後にちらりと向ける。幸もその視線を追いかける。そこには廊下側ガラス戸から廊下を覗き込む生徒達の姿と、教室を飛び出した、さっきの教師の姿が有った。


「は、はい、そ、そうですねぇ……」


 幸は自分の後頭部を弄りながら、必死で笑顔を作って見せるが、顔の筋肉が引き攣って、ぎこちなく笑う。


「今日も放課後の部活、楽しみにしてますから」


 紀美代はそう言ってゆっくりと立ち上がり、振り向きざまに貴子と一瞬視線を合わせ、彼女にも微笑んで見せた。そして大きな翼を、ばさりと羽ばたくと、二人の前から教室の中で姿を消した。


「なんか、急にパワーアップした様な気が……」

「いえ、多分こんなもんじゃないのよ紀美代ちゃんの力って」

「それは悲しいお話ですね」


 幸はそう言って肩を竦めて見せた。

 だが、貴子はイマイチ本気になれない幸を思いっきり蹴り飛ばすと、紀美代の教室をじっと見詰めてから瞳を閉じる。そして何事か考えた後、開いた瞳には、以前の貴子とは確実に違う輝きが有った。

 力強くしっかりと前を向く鋭い視線。そこに迷いは既に無い。


「幸、私、頑張る!」


 その様子を見詰める幸の瞳に女神の顔がダブって見えた。


「な、何を頑張るんですか?」


 貴子は幸に飛びっきりの笑顔を見せるとずかずかとこう言った。


「紀美代ちゃんを奪い返すの、多分、これは彼女の為だけで無くて世の中の平和にも役立つ筈」


 しかし、幸は首をしきりに傾げながら腕を組んで考え込んでいる。そして、考え抜いた果ての結論は、極めてネガティブな物だった。


「どうやって戦うんですか?情報量はこちらの方が圧倒的に少なくて、プランが全然立たないのですが」

莫迦ばか、だから私が頑張るって言ってるでしょ。爺に本格的に呪術を教えて貰う、あんたは最後の一撃は作ったんでしょ、なら、もっと別の物も考えて」

 幸はかくんと頭を垂れて『たはは……』と笑いながら泣いる。何故なら、なけなしの部費を全て注ぎ込む事になりそうだったからだ。


「幸、良い?紀美代ちゃんはあんたに惚れて科学部に入ったんでしょ」

「え、ええ、その様ですが……」

「お姫様を助け出すの王子様って、相場が決まってんのよ、責任はちゃんと取りなさい」

「そんなぁ……」


 しかし、貴子達が立ち上がろうとしている今も事態は今も進行中なのだ。戦わなければならないのは、紀美代に憑りつく魔物以外に、時間とお金も有るように感じられた。


「紀美代ちゃんが戻ってくれば、部の予算もちゃんと貰えるんでしょ?」

「はぁ、多分……」

「なら、ガツンとやってやりなさい」


 貴子にびしっと気合を入れられた処で、幸は梅雨空に向けて「あぉ~~ん」と鳴いて見せた。しかし、梅雨空は何も言わず広がっている。夏はまだもう少し先になりそうだった。

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