Ⅳ.ラブアンドピース

 月曜日。先日の爆走イベントでまだ筋肉痛が残っているクラスメートが何人か居る様だった。それに御高齢の教師はかなり辛そうにしている人も結構見られ、授業はなんか間抜けな状態で進み、何となく不完全燃焼な空気で終了した。

 そして放課後、幸はいそいそと部室に向って消えて行った。科学部にちょっとした異変が起こる事も知らずに。


★★★


 雑然とした科学部の部室に籠る幸は、趣味の世界に没頭してて、タブレットの画面を見ながら何かを必死で計算している真っ最中。そして、ちょっと煮詰まった感が発生して、画面を覗き込みながら両腕を組んで、じっと考え込んだ。科学部の部室は耳がキンとする様な静寂に包まれる。その中に、ドアをノックする音が響く。

 幸は一瞬身構える。ひょっとしたら生徒会の面々が部室の差し押さえに来たのではないかと思い、扉を開ける事を一瞬考える。しかし……


「すみませ~ん、どなたかいらっしゃいますか~」


 扉の摺りガラス越しに聞こえた声は、少し下っ足らずで、どうやら生徒会とは関係無さそうな様子だった。幸は注意深く立ち上がり、摺りガラス越しに外の様子を伺いながらゆっくりと部室の扉を開く。


「こ、こんにちは、幸、先輩!」


 幸がいきなり現れた事に同様しているのか、頬が紅く染まりちょっと俯き加減の女子生徒は、そう言ってから意を決した様に幸を見上げて震える声でこう言った。


「あ、あの、あの、か、科学部の入部希望なんですが……」


 語尾が擦れて最期まで良く聞き取れなかったが、幸は一瞬驚きを隠せない表情をして見せてから、突然滂沱の涙を流しながら彼女の両手を握り、がくがくと上下に振って見せた。おそらく握手のつもりなんだろうが、見方によっては彼女の小さな体全体を揺すっている様にも見える。


「に、入部希望なんですね~~~」


 幸の声には感動で興奮した様子が伺える。そして涙は止まらない。だが、ここでハッと気が付いて、ばたばたと部室に連れ込むと、部室の中央に有る机の椅子に座らせて、壁際のキャビネットをばたばたと探しまくり、女子生徒の前に一枚の紙を差し出した。


「入部届けです。一応顧問に報告しなければいけないので、サインを頂いてよろしいですか?」

「……科学部に、顧問なんて、いらっしゃったんですね」

「はい、そうでないと部活として認められません」


 不思議そうな表情を浮かべながらその女子生徒は丸っこくて可愛い文字のサインが入った入部届けを幸に差し出した。署名欄には一年で『長沢紀美代ながさわきみよ』と書かれてあった。幸はその用紙を見ながら紀美代にこう尋ねてみた。


「ところで、どうして科学部に入ろうと思ったんですか?」


 紀美代は幸の質問に俯き、そのまま黙り込む。実はこの紀美代は、幸の土下座事件の時、校舎の陰でうるうるしてた少女だった。

 彼女の入部希望理由はあくまで幸に対する純粋な恋心で、二人きりで居られる環境を手に入れる為には科学部に入るしかないと言う結論に達したからだ。


「え、え~と、何か興味が有る事が有るんですか?」


 幸の質問に紀美代はちょっと瞳を潤ませながら、太腿の上で拳を握り締め意を決した様に徐に顔を上げ、幸に向って震える声でこう答えた。


「……私は科学の事は全く知りません。で、でも、きっと覚えますから部員にしてください」


 幸は紀美代の様子を見ながら『はぁ……』と小さく呟いただけだった。


★★★


 その夜、貴子の自室で老人の講義が始まる。


「良いか貴子」

「はぁ……」


 老人はかなり気合が入っているが、貴子は完全にやる気が無い。そんな事はお構い無しに、部屋の真ん中に、どかっと胡坐をかいて座ってる貴子の周りをゆっくり歩きながら一方的に話しまくる。


「と、言うのが呪術の概要と理念と原理原則じゃ、分かったかね?」

「はぁ……」


 老人は生半可な返事しかしない貴子の様子に一抹の不安を覚えた。


「良いかね貴子。呪術は表裏一体、暗黒面も存在して、それにはまり込むと身を滅ぼす事が有るんじゃよ」


 老人のその言葉に反応して貴子は顔を上げ老人に視線を送る。


「表裏……?」

「そうじゃ。呪術の呪は『まじない』と読めるが、同時に『のろい』とも読めるじゃろ、その『のろい』の側面に落ちた呪術師は、一生抜け出せず最期は邪神に食われて不幸な結果に終わるんじゃよ」

「ふ~ん、そうならない為の対策は?」

「一重に貴子の精進次第じゃ。裏の側面に落ちない様にするには心を鍛える、これしか無いんじゃ」

「な~んだ、要は努力と根性なのね」

 老人は明後日の方向を向いて何となく胡麻化している。

「ま、そうとも言えるんじゃがな」

 老人の言葉に貴子は大きく溜息をついて、ちらりと視線を移す。その視線が、ちょっと痛そうな老人は長い髭を弄りながら、何か考えている様だった。

「ま、宜しい」

「宜しくないよ、第一、なんで私がそんな危ない事しなけりゃならないのよ」

 貴子が嫌そうにそう答えたが、老人は構う事無く話を進める。

「まず、儂の呪術は、魔方陣を基本にして行う方式じゃ。この間渡した杖を持って来なさい」


 貴子は机の上に放り投げっぱなしのバッグの中を、ごそごそ引っ掻き回し渡された杖を取り出した。


「良いか、魔方陣とは方程式の塊じゃ」

「方程式の塊?」

「さよう、数学の方程式であり物理の法則でもある。魔法とは神の特別な力ではない、自然を織りなす法則を自在に司る力のことじゃ。よいか、先ず杖の先で適当な大きさの円を描く」


 貴子は老人がやって見せたのと、同じ動作をして見せる。


「そして、円の中に2×2の升目ますめを想像して、取りあえず、そうじゃのう、全部に1を割り当てる、するとじゃ……」


 同時に円の中に斜めの線が入る。丁度、駐車禁止の標識の様に。貴子も同じ様にして見ると、老人が描いたのと同じ図形が現れる。それを見て貴子は思わず『おお……』と、歓声を上げた。


「円の中に描く数字は縦横斜めの和が同じにならなければならん。この数字の配置によって効果が全く違うんじゃ」

「ふーん、で、これは何が出来るの?」

「これはな……」


 老人は外周の円をこつんと杖で軽く叩いて見せた。同時に図形の裏面から眩い光が発せられた。


「なにこれ?」

「これは『光輪召喚こうりんしょうかん』じゃよ。真っ暗なところで光を召喚して照明代わりなると言う呪術じゃ」


 貴子も円の周辺をこつんと叩くと老人と同じ現象が起こった。貴子は再び『おおっ』と感嘆の言葉を漏らす。


「ふむ、一度教えただけで形が出来ると言うのは珍しい事なんじゃよ。お前さんは確かに才能が有る様じゃ」


 そう言って、老人は杖で魔方陣をばさっと切ると、眩い光は消え去った。


「この2×2には特に大きな危険な機能は無いが、火事には気を付けることじゃ。それ以外はどうなるか自分で確かめて見るが良い」


 貴子はちょっと楽しくなって来ていくつもの魔方陣を描いては消して行った。


「ま、レベル1は合格じゃ。では又会おう」


 そう言って老人は貴子の前から姿を消した。


「あ、こら、ちょっと待て爺!」


 そう呼び止めてたのだが、老人の姿も声も既にそこに無く、夜の静けさだけが残った。

 部屋の真ん中にぽつんと一人佇み、じっと杖の先端を見詰めながらその場で、じ~っと考え込む。なぜ私がこんな物覚えなきゃイケないんだと。そして、出来ればこの件からは手を引きたいと。


★★★


 相変わらずの曇天模様で一日が終わり、放課後が始まった。幸は嬉しそうにスキップしそうな軽い足取りで部室に向かう。そして部室前まで来ると何時もの扉を開く。そして、殺風景でごちゃごちゃの部室の姿が視界に入る筈だったのだが、何時もと雰囲気が違うので幸は一瞬扉を閉じる。

 そして、首を傾げてしばし考え込んだ後、部室の扉横に廊下側に向けて掛けられている部室名を確認してから、今度はちょっと猫背ぎみの姿勢でそっと扉を開き、思わず『ごめんくださいませ』と呟いた。

 その声に反応して、部室の奥の方から紀美代の声が部室に響く。慌てて出てきた紀美代は幸の前に立つと、とびっきりの笑顔でぴょこんとお辞儀して見せた。


「こんにちは、幸先輩!」


 綺麗に片付いた部室、そして中央の机には花なんか活けて有って、昨日までのぐちゃぐちゃな部室内には無かった落ち着きと爽やかさが感じ取れた。


「紀美代さんが片付けたんですか?」

「はい、今の私は科学的な事は何もできないので、取りあえず、こんな事しながら活動して行きたいと思います」


 幸の視界がぼんやりと霞み、頬を熱い物が流れ落ちる。それを見た紀美代は幸に駆け寄ると、慌てた様に幸の顔を見上げる。


「幸先輩、私、何か余計な事しましたか?」


 胸の前で手を組み心配そうな表情をしている紀美代。だが幸は、ぶんぶんと首を振って見せて、徐に紀美代を見詰める。相変わらず涙はまだ流れたままだ。


「ち、違います紀美代さん。僕は今とっても感動しております」


 紀美代の両肩に自分の手を置き、溢れ出まくる感動を何とか凌しのぎ、声を震わせながら紀美代にそう答えた。


「幸先輩、気に入っていただけましたか?」

「勿論です、紀美代さん、ありがとう御座います」


 紀美代の頬がほんのり染まり、幸は相変わらずの号泣。二人は手を握り合い。見詰め合いながら、二人だけの世界に入り込む。

 その時、ノックも無しで部室の扉が開き、貴子が現れる。


「お~っす、幸、居る?」


 その貴子の目の前で幸と紀美代が手を取り合って、妙な雰囲気を発生させているのを見て、何やってんのあんたと言わんばかりの表情で二人を見詰める。


「あ、その、こ、これは……」


 幸はぱっと紀美代の手を離すと後頭部を掻きながら天井向けて頬を染めながら乾いた笑顔で、今のシーンを胡麻化そうする。


「と、ところで、貴子さん、何か御用で?」


 貴子は、酷く怪訝そうな表情のまま、そして、なんとなく感じた違和感の理由を察して胡散臭そうに二人を見詰めた。


「……幸、ちょっと、相談に乗ってくれない?」


 意外な言葉に幸の声がひっくり返る。


「た、貴子さんのお願いなら、全てを後回しにして、何時でもおっけーです」


 突然、態度を変えた事に紀美代はぶんむくれた表情で貴子を見詰める。


「その前に、この子は?」

「はい、昨日入部して頂いた紀美代さんです。とっても気が付く良い子です」


 貴子は紀美代にがつがつっと歩み寄ると、彼女の両肩を手で押さえ、ぼそぼそと呟く。


「紀美代さん、悪い事は言わないから、この部に関わるのは止めなさい、生きて卒業したかったらね」


 貴子のぼそぼそを聞き、紀美代は曖昧な返事をした。そして、貴子は紀美代から離れると一旦廊下に顔を出し、誰もいない事を確認してからそっと扉を閉める。


「……どうしたんです?貴子さん」

「ちょっとこれを見て欲しいんだけど」

 そう言って鞄の中から老人に貰った杖を取り出して『光輪召喚』をやって見せた。

「何だと思う?これ……」

 幸は貴子の光輪召喚を見て、顎が外れそうに驚いた。

「な、何だと言われても、こ、これは、詳しく調べて見ないと何とも」


 貴子は、やっぱりそうだよねと思いながらかくんと肩を落とし小さく溜息をついて見せた。


★★★


 取りあえず、皆で中央の机のパイプ椅子に座り、紀美代が入れたお茶を啜りまがら、一旦落ち着いて、幸は貴子にこう尋ねた。


「何時から出来るようになったんですか?」


 貴子は腹を括って、あのマラソン大会の経緯や、最近頻繁に現れる『爺』について包み隠さず幸に話した。


「なんて言っても、信じて貰えないよね」


 何時に無く自信なさげに貴子が答える。しかし、貴子の言う事なら幸はどんな素っ頓狂な話でも100パーセント信じる様になっていて、全く疑う事は無かった。


「貴子さん、これは色々調べないといけませんね。暫く、科学部に通って頂けますか?」


 貴子はゆっくりと頷いた。その様子を紀美代はちょっと猫背になりながら、じとっと見詰める。 彼女が立ち去った後、紀美代はちょっと不機嫌な様子で、改めて幸に尋ねてみる。


「幸先輩、先程の貴子さんと、どう言う関係なんですか?」

「はい、クラスメートで幼馴染で、幼稚園から一緒なんですよ」


 紀美代は思った、結構根深そうな貴子との関係をぶち壊すにはどうしようかと。

 こうして、見事なトライアングルが完成した事を自覚し、彼女は改めて闘志を燃やし始めた。


「どうしました?紀美代さん」


 紀美代は再びとびっきりの笑顔を作ると幸をじっと見つめる。


「いえ、別に何でも有りません」

「……そ、そうですか、それなら宜しいのですが」


 幸は全く気付かなかった。紀美代の背後に黒い炎が燃えている事を。まだ小さな炎だが、それは、着実に大きくなり、取り返しのつかない物になる事を。


★★★


「なに、田中と言う男に、呪術の事を話したと?」

「だって、一人で背負うにゃ荷物が重すぎるんだもん」

「ふむ、まあ良い、別に誰かに知られて困る物ではないし、有る程度知名度が無いとお主の力も認めて貰えんじゃろう」


 この話をすれば、貴子はこの老人に破門されて、晴れて自由の身になれると思ったのが、結果は裏目で益々、この世界に引っ張り込まれる事になってしまった。


「ねぇ、爺、これ、止めちゃ駄目なの?私はこんな事に全然興味無いんだけど……」


 老人は髭を弄りながらちょっとそっくり返って貴子を諭す。


「これは運命、お主はこの道をまっすぐに迷わず行けよ、行けば分かるさ」

「イノキかお前は!」


 貴子の言葉を聞いて、老人はニカッと嗤って彼女を見つめる。


「そうそう、その意気じゃ」

「は?」

「つまらんと思えば、全てがつまらなくなる物じゃ、物事は前向きに受け止めるのが賢明じゃと思うが、どうかな?」


 まぁ、爺の言う事ももっともだなと一瞬思ったのだが、やっぱしなんか府に落ちない。貴子は老人に何か尋ねようとして唇を開こうとした瞬間『では又会おう、バイビー』と言い残し、ピースサインと共にぽんっと消え去った。


「爺、旗色が悪いからって、逃げるんじゃねぇ!」


 そう叫んだが、老人の気配は既に無く、部屋は静寂に包まれる。

 貴子はベッドにばさっと仰向けに寝転んで杖をしみじみ見詰めた後にぽいっと床に追うり出す。

 妙な疲労感に襲われて、そのまま眠ってしまいそうになった時、廊下から弟の声が聞こえた。


「姉貴、風呂空いたよ」

「はーい、ありがと……」


 貴子はのたのたとベッドから降りて、クローゼットの引き出しから着替えを引っ張り出すと、よたよたと風呂場に向って階段を下りて行った。 その時、廊下で偶々何かしてた母親と出会い、母親は彼女の表情を見て、ちょっと怪訝な顔をする。


「何か有ったの、貴子?」

「ん、いや、別になんにも……」


 そうぽつんと呟くと後ろを振り返る事無くバスルームに姿を消した。

 母親は相変わらず怪訝な表情のままだったが、ここで突っ立ってても何の解決にはならないと感じて、後ろ髪引かれる思いでその場所を後にした。

 貴子は湯船に体を浸して天井を見上げながらぼんやりと考える。しかし、頭の中は今迄の出来事が猛スピードでぐるぐると駆け巡り、収集が付かない。苛立ちが血液となって体の隅々まで送り込まれて行く様な感覚に、何をして良いのか分からずに、空しく時間だけが流れて行く。そして、ふと思う、今日も長い夜になりそうだと。


★★★


「分かんない、分かんない、分かんない、無理だよ10×10なんて!」


 貴子が老人に向って抗議するが、老人は、しれっと髭を弄りながら明後日の方向を見詰めた。


「そうかのう、儂は120,000×120,000位は楽に行けるんじゃが」

「そりゃ、何十年も何百年もやってりゃ暗記するのも簡単でしょうが、私の頭は5×5以上は拒否反応起こしてんのよ」


 貴子に背中を向けていた老人は、ゆっくりと振り向くと、相変わらず髭を弄りながら、何事かを考える。


「そう言う先入観や心の壁を取っ払うのも修行の一部なんじゃがのう」


 老人の言葉を聞き、貴子の仏頂面ぶっちょうづらは更に深刻な物になる。


「だ、か、ら、やる気無いんだってば!」

「やる気が無いのを乗り越えるのも修行じゃよ。今は苦しくとも、使いこなせる様になった時の達成感は無限の喜びを感じさせてくれ、人としても一皮抜けて、誰にでも優しく出来る物じゃ」

「そんな向上心は無い!」


 老人は深い溜息と共に貴子に視線を合わせる。


「まぁ、宜しい、今日はここまでにしようかのう。明日中に10×10を儂に見せておくれ」


 老人はとても残念そうにその場から気配を消した。しかし再び老人の声だけが部屋に響いた。


「そうじゃ、貴子。明日の朝は気をつけるんじゃよ」


 貴子は椅子から立ち上がると、あちこちをきょろきょろと部屋の中を見渡す。


「なによ、何に気を付ければいいのよ」


 貴子は苛立ちながら老人にそう答えたが、老人はその後、何も語る事無く完全に気配を消した。

 老人の言った、気をつけろの言葉に一抹の不安を感じながらその場に立ち尽くす貴子の背後でに老人の物では無い別の人の声がした。貴子はぎくりとしてその声の方向に視線を向ける。


「何やってんの姉貴?」


 妙に拍子抜けな声で弟がドアから顔だけ出して貴子をじっと見詰めていた。貴子は髪を掻き上げながら、一度小さく溜息をつく。


「こら、部屋に入る時には、ちゃんとノックしなさい」

「したよ、何度もノックしたけど全然気付いてくれなかったじゃん」


 貴子は小首を傾げながら小さく肩を竦めて見せる。


「誰か居たの?」

「ん?あたしだけに決まってるじゃない」

「でも、明日の朝気をつけろとか何とか聞こえたんだけど」


 貴子は視線を明後日の方向に向けながら必死に胡麻化そうとするが、今日の弟は、結構しぶとい。


「ネットの動画再生したら、いきなりでかい声で再生されたのが聞こえたんじゃない?」


 心臓の毛をフル稼働させながら、適当にあしらおうと、必死な貴子。


「でも……」


 諦めずに突っ込んで来る弟に痺れを切らせて、彼の耳を掴んで廊下に放り出す。弟の扱いは慣れた物で、気の小さい彼に対抗する術なら幾らでも有る。

 そんな事より肝心なのは明日の朝だ。何が起こるのか覚悟を決めて臨む必要が有りそうだった。

 今夜も雲に紛れて月は姿を隠している。重い雲の下、生温い風が部屋の中に流れ込む。重い風が鬱陶しくて、貴子は窓を閉じ、除湿機のスイッチを入れてベッドに潜り込むと、間も無く甘い眠りの中に落ちて行った。


★★★


 梅雨時期だから、まぁこんなもんかと感じる朝、貴子はバスを降りて校門に向い、のたくたと歩き始めた。

 暫く歩いていると、紀美代がいつの間にか追い付いて来て、貴子に元気に挨拶をする。


「おはようございます貴子先輩!」

「あ、おはよう紀美代ちゃん」

 

 それを切っ掛けに、二人は他愛の無い会話を交わしながら、玄関で別れ、それぞれ上履きに履き替える。

 そして廊下に出た瞬間、紀美代の背中が見えたのだが、その背中で揺らめく真黒な影を見て、思わず背筋が寒くなる。

 貴子は瞬間的に走り出し、紀美代の肩に手を掛けて、彼女を呼び止める。


「ね、紀美代ちゃん、大丈夫?」


 紀美代は貴子を見上げながら、ぽかんとした表情を見せる。どうやら貴子の言葉の意味を理解出来ない様だった。


「……え、何がですか?」

「ん~んと、とっても言い難いんだけど、なんか体の調子が悪いとか」

 紀美代はそれでも貴子の言葉の意味が分からず、笑顔を見せてこう答える。

「はい、絶好調ですよ」

「そ、そぉ……」


 紀美代は一礼してから一階の一年生の教室が並ぶ建屋に向って姿を消した。しかし、貴子は納得行かない。


「ふむ、随分と厄介な者に取り憑かれた様じゃな」


 老人が突然貴子の背後に現れる。


「爺、それがなんだか分からないの?」

「残念ながら、今は全く見えん。もう少し大きな力を使う様になれば分かるのじゃが」

「……そう」

「ま、正体が分かれば何か出来る事も有るじゃろ。今は黙って見ておるんじゃな。なに、それ程時間は掛からんじゃろ」


 貴子はちょっと小首を傾げて目を閉じ、大きく溜息をつく。


「ど、どうしたんですか貴子さん」


 突然幸に声をかけられ、貴子ははっとして目を開く。その視界に映ったのは心配そうな表情の幸の、どアップ。

何方どなたかいらっしゃったんですか?」

「え、いいや、別に」


 貴子は物凄く慌てた表情で幸にひらひら手を振りながらそれを否定したのだが、幸にはピンと来たらしい。


「例の御爺様ですか?」


 そう、幸には隠す必要など無かった事に、今更気付く。


「……うん、実はね…」


★★★


 一時限目、貴子と幸は欠席し二人は屋上の風に吹かれて居た。梅雨時には珍しく所々に晴れ間が有って、そこから漏れる光の束が幻想的に感じられる。


「――と、言う訳」


 屋上柵に寄り掛かりながら、貴子はその経緯を幸に打ち明けた。

 幸は柵を支えるコンクリート部分に腰を下ろすと。眼鏡を右手人差し指で押さえながら彼女の話を聞いていた。


「成程、ほっといたら騒ぎになりそうですね。それ以上に紀美代さんが心配です」

「正体が見える様になるまで待てって爺は言うんだけど、やっぱり不安な部分は取り除いてあげたいじゃん」


 そう言って老人から貰った杖を出すと、空中に魔方陣を描き『輝く剣』を召喚して見せた。

 昨夜は絶対無理と言って投げ出した、10×10の魔方陣、生真面目な貴子はベッドに横になりながら、それをイメージする練習を何回も繰り返した。そして、今朝になって、目を瞑り集中すればようやくイメージできる様になったのだ。


「一応、攻撃の呪術は幾つか使える様になったんだけど、この程度じゃ全然相手にならないらしいのよね」


 そう呟いてから杖で魔方陣を消した。


「そうですか、それでは私も何か考えましょう、せめて一太刀与えられそうな物を」

「うん、宜しくね」


 二人はそのまま重めの風に吹かれながら屋上からの風景を眺め続けた。天気は次第に回復して居る様で、ゆっくりと回復して、周りが少しずつ明るくなって行った。


★★★


 幸と貴子は一時限目をさぼった罪で担任に呼び出され職員室でこっぴどく叱られてから解放された。一応、殊勝しゅしょうな態度で大人しく素直に説教されていたのだが、内容なんかは聞いちゃいない。右から左に言葉が通り抜けて行っただけだけで、職員室を出る時には全てを忘れ去っていた。

 そして、二人連れ立って科学部の部室に向かう。

 幸は部室の扉を開くのに少し躊躇ちゅうちょしたが、思い切って扉を開くと、予想どおり、部室を掃除する紀美代の姿が有った。

 貴子は彼女の背中を見詰め、今朝の真黒な霧の様な物は殆ど変化していない事を感じ取りホッと胸を撫で下ろす。その貴子の視線を追いながら幸も紀美代の背中を見て見たが、幸の眼には何も見えず、何も感じる事は出来なかった。


「どうかしたんですか?幸先輩」


 紀美代の呼び掛けに、ちょっと頬を赤らめ後頭部を掻きながら「いやいや、何でも無いですよと」乾いた笑いを交えて彼女の不思議そうな表情に答える。


「さ、さてさて、会議にしましょうか」


 無理矢理雰囲気を変えようと、幸は笑顔で中央の机向かう。そして、全員着席したところで、幸の『光輪召喚』の分析結果を話し出す。


「貴子さんの光輪召喚についての分析結果ですが……」


 その幸の解説に紀美代と貴子の視線が向いた。


「まず、プリズムで七色が観測出来ませんでした。虫眼鏡で光を集めようとしたんですが、光は屈折する事無く集光出来ません。そして輝度は約380ワット程有るんですが、光を当てた部分の温度に変化は有りません」

「つまり、どういう事よ幸」

「はい、これだって言える光源は思いつかなかったんですが、無理矢理言うと白色のLEDランプが一番近いでしょうか」


 笑顔でそう言いながら天井を指差すと、その先には蛍光灯型のLEDが輝いて居た。学校の方針でつい最近、環境保護を理由に蛍光灯からLEDランプに切り替わったのだ。それに対応年数から見て、経済的にも安くなるのだそうだ。

 その説明を聞いた紀美代が小さく手を上げる。


「じゃ、じゃあ幸先輩、その蛍光灯の光が映り込んだって言う事は考えらないんですか?」


 幸は右手人差し指で眼鏡を直すと、にやっと嗤って見せる。


「残念ながらそれは有りません。ワット数が全然違います。蛍光灯は40ワット位しか有りませんからね」


 それを聞いた紀美代は首を傾げて考え続ける。

 更に幸の説明を聞きながら意見を交換しながら約2時間で部活は終了した。

 三人揃って校舎を出ると、外はまだ陽の光が残り夕方と言うにはまだ早い。校門を出て貴子と幸は学校向かいのバス停へ、紀美代は二人にちょこんと一礼してから最寄駅に向かって歩き出した。その背中を貴子はじっと見詰める。


「どうしましたか。貴子さん?」

「今日はなんにも変化無かったけど、明日はどうかなって思って……」


 バス停に背を向け去って行く紀美代の背中に蠢く黒い霧は相変わらず変化が無く、沈黙を貫いた。そしてバスが到着して二人は車中の人になる。

 梅雨の重い風は相変わらず何も語る事は無く、決してロマンテックな物では無かった。

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