厭わしき囀り

困った客というのは居ればいるもの。うちにもそう言うお得意さんがいる。

その旦那は宵の口に顔を出すと、馴染みの女としっとり時間を楽しんでいる。噺に花が咲いて、床に入らぬこともあるが金払いはやけに良い。何でもさるお方の家臣だと言う。触らぬ神に何とやら。深い所まで聞いた事はない。

旦那はうちに通って十年余り。手を付けた遊女は六人。遊び人と言うわけではない。

温厚篤実なその気風は江戸の人間には珍しく、店中で揉め事を起こした事もない。良い御仁だ。旦那が客でいるうちは。


「困るよぉ。そう何度も女つぶされちゃあサ。うちも商売上がったりだ」

あおっちろい月が登る丑の刻、花猫の座敷に店主とあっしは呼ばれた。そもそも、嫌な予感はしていたのだ。

座敷に上がって直ぐ、しょんべんくせぇ匂いがぷぅんと臭った。店主は袂で鼻を覆っている。厠程染み付いちゃいない、ほやほやの匂いは嗅いでいて気持ちの良いものじゃあない。

火元に目をやってあっしは息を溢した。

あーあ、まぁたやっちまいやがってこの旦那は。

絢爛豪華な閨に四肢を投げ出し、股座を濡らしている女が行灯の灯りで影を作る。だらんと舌が溢れているのが、そう言う事だと主張している。

「悪いねぇ。何も壊すつもりじゃあなかったのさ」

「そうは言うけどねぇ旦那。これで七人目じゃないか。あんたとの仲だ。知らぬ他人ってわけじゃあない。けどね片す方は面倒なんだよ」

「それを見越して三人目からは大門の外に未練の無いのをよこしてくるじゃないか」

「あのねぇ」

「マ小言はこれで納めてくれよ。落籍料も付けてある」

言うが早いか、旦那は袂から巾着を投げる。畳の上に無様に転がったそれを店主が手に取り、中を改め驚いた。

次いで深いため息が漏れる。店主は花猫の横に座った。

「あたしだってね、忘八ってぇ呼ばれる人間だ。綺麗なだけじゃ立ち行かない。あんたと出会う前だって地獄行きが決まっている様なもんだった。……これ以上、あんたの業まで背負えないよ」

声音がやけに重く響いてあっしの方がびびっちまった。しかし旦那はどこ吹く風。……まじに何処ぞで野垂れ死んだ方が世間様の為だ。

「これきりにしとくれ」

旦那は頭を一つ掻くと、脱ぎ捨てた着流しに袖を通した。

薄暗い部屋の中、彫りの深い旦那の顔は影に隠れて窺いしれない。けれど行動からは気にしてる風でも堪えている風でもなかった。

「……十年くらいかね、佐吉ちゃん。今まで悪かった」

「心にも無い事言うねぇ、あんた。いいからちゃっちゃとよそ行きな」 

籠屋も寝ている丑三つ時、旦那は店を出て行った。あれで決別だと思っていいのか、見当がつかない。

店主は白目を剥いた花猫の目を瞑らせて、後の始末をあっしに任せた。今更驚きもしない。これで七人目だ。あっしほどの玄人もそういない。

一人でやるには骨が折れると知っているので、口の固い二階廻しに金を握らせ、橋の上から川に流す。生々しい身体の熱さがどうにも気持ち悪かった。

明け方、一通り終わらして、花猫の禿の先も決めた。新造を一人座敷持に上げて、そこに面倒見させようと言う話だ。

「旦那、あの癖やめられるんですかねぇ」

報告を済ませて、おいらは何となく店主に尋ねた。今生もう二度と会うめぇよと思っていても、伝え聞く分には面白い御仁だった。

「どう思う。徳三」

「あっしにゃ、またしでかすんじゃ無いかと言う気がありまさぁ」

「あたしもそう思うよ……」

肘掛けに身体を預けながら、店主は煙草を呑む。苦虫を噛み潰した顔で、遠くに目をやって続けた。

「あれはね昔っから気が狂ってるのサ。ああいう愛し方しか知らない、哀れな奴なんだよ」

空を見てかわいそうがる店主の目の奥、確かに愉快だと笑う色が見えた。大門の中に身を沈めたものは皆、業の深い生き物になるやもしれない。

「いつか世間様の知るところになって、歌舞伎にでもなりやすかねぇ」

「どうだろうね。マ、少なくともバレちまったら、今度はあたしがおまえを殺すだろうよ」

笑う口と笑わない目があっしに楔を打ち込んだ。どこまでも穏やかな声音が余計に恐怖を煽る。寒いものが背を伝った気がする。

「……肝に銘じまさぁ」

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愛しと鳴く代わりに 花山至 @ITSKR

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