第三章 襲来

久々の敗北

 最近になって、麻雀には三つの必要な能力があると思い始めた。それは、経験と、知識と、向上心だ。

 そのなかで一番簡単に伸ばせる能力は、経験だと思う。その理由は、ただ打っていれば自然と積み重なっていくものだからだ。しかし、経験だけを積んでいったって上手くはならない。ある程度のレベルまでは育つが、経験だけでは絶対に越えられない壁というものがある。次の段階にいくためには、やはり知識を身につける必要がある。

 ここでいう知識とは、麻雀のセオリーといえるいくつかの情報のことを指す。例えば一番基本的なものとして、“スジ”というものがある。相手の捨て牌に五があったら、二五と五八の両面待ちはありえないことがわかる――というものだ。麻雀を始めて少しでも打ち込もうと考えた者なら、誰しもそれくらいの知識はつけるだろう。他にも、もっとも受け入れの多い選択をするために用いられる“牌効率”と呼ばれる理論や、副露相手の最終手出しから考えられる法則などの話もあるが、すべて説明していては時間がかかるので、割愛させていただく。

 そしてそれらの面倒な理論をすべて覚えるには、やはり向上心が欠かせない。当然といえば当然ではあるが、本人のなかで“もういい”と思ってしまえば、それ以上の向上は望めない。これはなにも麻雀に限った話ではないが。

 ――それらの話を踏まえた上で、私は疑問に思うことがある。はたして麻雀においての強さとはどんなことを指す言葉なのだろうか、ということだ。

 麻雀歴うん十年という打ち手のなかにも、さっき挙げたような知識はおろか基本的な点数計算すら覚えていないという人だっている。

 すべて覚えるのは途方もない苦労が必要と言われている牌効率理論を完璧に頭に叩き込んだという青年がやよいに打ちにきたこともあったが、麻雀はなにもかもが数字どおりにできているワケではない。彼は麻雀の不可思議に圧倒され、惨敗を喫して帰っていった。

 しかし勿論、いま挙げたような人たちが負け続けるワケでもないのが麻雀だ。つまり、麻雀には切っても切りきれない運という要素がある。運がよければ、私だって美琴さんやハナさんといった猛者に勝つことがある。

 結局のところ、麻雀は運なのだろうか。だが一概にそれだけで決まるゲームではないとも思う。

 麻雀の強さ――それは私にとって、永遠の疑問といえるだろう。



 雀荘を狙う組織がいるという話を麗奈さんから聞いたあの日から、三日が経過した。

 いまのところはこれといった事件も起きておらず、客足も変わらず常連の人たちはやよいに来てくれている。不謹慎ではあるが、私は期待を裏切られたような気分になっていた。

 しかし、その日の午後六時、開店と同時に店にやってきた江上さんが、弥生さんにこんな話をした。

「最近、裏魅神楽に怪しい連中が増えてきたね。例の雀荘荒らしだとは思うけど、ここは大丈夫なのかい?」

「大丈夫もなにも、連中が来たら麻雀で追い返すだけよ。要は負けなきゃいいんだから」

「弥生ちゃんらしい考えだねぇ。なにはともあれ、気を付けなよ。アタシも噂に聞いただけだけど、連中のバックには裏社会じゃ有名な人間がついているとかなんとか」

「有名な人間ね……菓子折りでも持って挨拶に行けば、少しは遠慮してくれるかしら」

「本気かい?」

「冗談に決まってるでしょ。誰であろうと真正面から跳ね返すのみよ」

「まだまだ考えは若いねぇ」

「一言余計よ、お爺さん」

 江上さんに用意するお茶を淹れながらその会話を聞いていたが、ついに例の組織が本格的に動き出したのではないか、私はそう考えていた。


 その後、遠藤さんの仕事仲間だというちょっと強面こわもての大川さんと、いまだに勝って帰った日を見たことがない金村さんが現れたので、私が四人目となって卓が立てられた。

 美琴さんたちと打った以降、やはり私はプライベートでは麻雀を打たなくなったが、やよいにいる間は当然仕事であるので打っている。

 だいたいこうして打つときは勝敗はどっちでもよく、大きく崩れなければいいやぐらいにしか思わずに打っているのだが、不思議なもので本当にそのとおりの結果となる日が多かった。強いて理由らしきことを挙げるとするなら、カネに余裕があることと、面子のレベルがそれほど高くないということだろうか。そのお陰で、場面をよく見て冷静に判断できているのかもしれない。

 二半荘打ち、二着と三着を一回ずつという戦績であったが、収支はほとんどプラマイゼロに近かった。金村さんがパンクしたので、三戦目はもう一人面子が揃ってからということになった。

 ――ちなみに、こういった状況になっても弥生さんはまず入らない。本来、場を繋ぐために入るべきなのだが、自分が入って負けでもしたらそれこそ商売あがったりだ、と言って断ってしまうのだ。それだけでも異色な店と言えるが、客も客でそれを承知して大人しく待つというのだから、おかしな話である。

 二十分ほど待ったところで、待ちに待った四人目が現れた。――美琴さんであった。

「いらっしゃいませ。すぐに打てますよ」

「そのようね。三回ほど付き合わせてもらおうかしら」

 美琴さんは空いている席に座るなり、煙草に火を点ける。そして、飲み物やおしぼりの用意をせっせと行っている私をぼんやりと眺めていた。

 それらを終えたところで、私は美琴さんの対面に座る。

「お待たせしました。始めましょうか」

「大変ね。あなたひとりで全部やってるだなんて」

「弥生さんもいますよ?」

「彼女が働いているようには見えないけど」

 いつもながらカウンターの向こう側に置いてある椅子に座って寝息を立てている弥生さんを見て、美琴さんは嘲笑気味に鼻で笑った。その笑いには、江上さんも同調した。

「まったくだよ。もうシロちゃんが経営者になるべきなんじゃないかな? しっかり働いている人間が利益を受け取るべきだ。アタシはそう思うね」

 すると、いつの間にか起きていた弥生さんがすっくと立ち上がり、あくびを噛み殺しながら言った。

「しっかり働いてない人間がなにを偉そうに語ってるのよ」

「おお、経営者様がお目覚めだ。仕事をする気になったのかね」

「私はいつだって仕事熱心な経営者よ。今日はただちょっと眠くなっちゃってただけよ」

 弥生さんは再び大きなあくびして見せた。美琴さんが苦笑を浮かべながら私に言う。

「――勤め先変えたら?」

「あはは……でもやっぱり、私はこのお店が好きなので」

「……ま、あなたがそう言うならいいんだけど」

 美琴さんが中央のボタンを押し、牌山を上げた。


 美琴さんと打つときも、特に私の心構えは変わらない。私はあくまでも面子合わせとして打っている。

 それというのも、美琴さんだって感性を維持するために牌を触りに来ているだけなのであり、決して本気で打っているワケではないからだ。ならば私一人が全力で勝ちに行こうとしたところで虚しいだけなのである。

 そんなワケで、私はやはりいつもと同じように打っていた。

 ――のだが、一戦目の東三局、美琴さんの親番で私はふとイタズラ心に火が点いて、こんな仕掛けをしていた。

 ①③發發 (7)89 (1)23 北(北)北

 ドラは發で、巡目は七巡目である。私は索子を一枚も切っていないので、ストレートに読めば索子の混一に見える仕掛けだろう。

 そして、美琴さんの捨て牌には筒子が安かった。この待ちなら、彼女から出ることも十分にあり得るだろう。私は一矢報いるつもりで彼女からの放銃を心待ちにしていた。

 ――しかし、美琴さんは次々と怖いハズである索子を切り出してきた。さらに数巡後、彼女は4を切ってリーチまでかけてきた。私は途端に焦燥感に襲われた。

 あの捨て牌なら、②を使えるワケがない。掴まなかったのだろうか。そこで私は、美琴さんから当たることだけを考えていて、場を見ていなかったことを痛感した。

 私の下家――江上さんが、二巡目に③を切っている。数牌のなかでも三と七は尖張牌センチャンパイといって特に重要視される牌だ。それなのに、その③を二巡目に並べるのには理由があるハズ。その付近の牌――例えば②を暗刻で持っているなど。勿論反対に一枚も持っておらず、早めに見切りをつけたというケースも考えられるが、どうにも嫌な予感がして仕方がない。

 動揺するなか私がツモってきたのは、美琴さんのリーチに対して非常に危険な五であった。仕掛けが不発に終わったと思われる以上、一発でこの牌を切って振り込むのも馬鹿馬鹿しい。筒子が安いので、①③は通るだろうと思い、私は①を切った。

「ロン」

 一二三四五六七八九234 ①

 ――もう一度言うが、宣言牌は4である。両面待ちと平和を捨ててまで①単騎で待った理由は明白だ。そうすればすぐに私から出るから――だろう。極めつけには、江上さんがこんな発言をしてくれた。

「なるほどいい待ちだ。アタシが②暗刻だから、①はいずれにしろ誰かから出てただろうね」

 それから、江上さんは続けてこう訊く。

「だとしても珍しいね。クロちゃんが両面と平和まで捨てて単騎待ちだなんて」

「私だって無理してやっただけよ。――ただ、どこかの誰かさんに試されたような気がしてね。それに答えたまでよ」

 美琴さんの視線が私のものとぶつかることはなかったが、どこかの誰かさんというのが誰のことなのかは明白だ。

 ――そのどこかの誰かさんは、赤面した顔を隠すように俯きながら満貫分の点数と一発の祝儀を支払った。


 精神的に沈んでしまえば、再び浮上するのは難しい。一戦目はラスを引き、二戦目は三着、三戦目は美琴さんとトップを競る展開になったが、オーラスで彼女がかけた先制リーチにオロされてしまい、二着で終了となった。

 美琴さんが抜けたのと同時に、江上さんも“今日は朝が早かった”と言って席を立ったので、早い時間での卓割れとなってしまった。

 残った私は――口をへの字に結んで卓掃に取りかかっていた。久々の惨敗は、私の心に重くのしかかっていた。

「ふふ……ご機嫌ナナメみたいね」

 弥生さんがマグカップを片手に私のもとへとやってきた。彼女はそのまま私から見て上家の席に腰かける。

「久々に負けたから?」

「そういうワケじゃ……」

 私は慌てて言い訳を考えた。――負けたのは自分の落ち度である以上、それが原因で虫の居所が悪くなっているとは言えまい。

 しかし、どうやら私は顔によく出るらしい。弥生さんはいたずらっぽく笑いながら言った。

「ふふ……バレバレよ。あなたってばホントにわかりやすいんだから」

「――負けたのは自分の落ち度ですし、誰かに対して腹が立っているワケじゃありませんよ」

「それじゃさしずめ、自分に腹が立ってると、そんなところかしら?」

「……かもしれませんね」

「そんなときは、気晴らしに美味しいものでも食べに出かけてくるといいわ。いちおう私はしばらく残ってみるけど、今日はもう来ないと思うし。だからいってらっしゃい」

「はぁ……」

 断る理由もない。私は卓掃を終えると、当てもなしにやよいを出ていった。

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