強者の定義

 翌日、私は七時過ぎに目を覚ました。

 布団を畳んで押入れにしまい、あくびを噛み殺しながら部屋を出て、顔だけでも洗っておこうと洗面所に行く。

 蛇口を捻り、出てきた冷水を両手に溜めて顔に打ち付ける。眠気が一気に吹き飛んだ。

 洗濯機の上に畳んで置いてあったタオルで顔を拭き、私はホールへと向かった。


「あら、おはよう」

 カウンターの椅子に座ってコーヒーを啜っていた弥生さんが、私に気付いて挨拶をしてくれた。

「おはようございます――ずっと起きていたんですか?」

「いえ、途中で少しうたた寝はしてたわ。場代はあの人たちが勝手に集めておいてくれるから、私は別にいなくてもいいのよ」

「そ、そうなんですか……」

 私はいまだに稼働している卓に視線を移した。

 その卓の面子は、三人は昨晩最後に見たときと同じ人だったが、一人は途中で帰ったのか、代わりに遠藤さんが入っていた。

「そうだ、シロちゃん。初めてのお仕事を頼もうかしら」

「なんでも言ってください」

「お客さんたちの灰皿を交換してあげて頂戴。もう五時間ほど放っておいてるから、山盛りのハズよ。ついでに飲み物も聞いて、持っていってあげてね」

「わかりました」

 私はカウンターの端に用意されている新しい灰皿を四つ重ね、落とさないように慎重に持ってその卓へと向かった。

 昨晩同卓したよしみがあると勝手に思い、私は最初に遠藤さんのもとに向かった。

「おはようございます。灰皿交換しますね」

「ああ、おはよう。よろしくね」

 昨晩は一言も交わさなかったのでわからなかったが、遠藤さんは私が勝手に抱いていた偏見からは程遠い、愛想のいい人だった。対局中にもかかわらず、私が灰皿を取りやすいようサイドテーブルを軽く片付けてくれた。

 全員の灰皿を交換したあと、私はやはり遠藤さんの打ち方が気になった。さり気なく彼の後ろにつく。

 六七八77889⑥⑦⑧西西 ドラ 8

 十一巡目。遠藤さんは西家で、リーチはかかっていない。仕掛けは遠藤さんの対面が白と1をポンしていた。

 いい手だな、と、私は素直に思った。安目である9でも5200点、ツモれば満貫。高目の6なら三色がついて出アガりでも満貫になる。

 しかし、私はひとつだけ思った。私ならこの手、リーチをかける。確かにドラ跨ぎである69は他家からは出辛いところではあるが、高目をツモれば跳満まで届く。さらに、裏ドラが上手く乗れば倍満にまで伸びる可能性だってある。

 その二巡後、遠藤さんはダマのまま6をツモりアガった。

「キミならリーチするかい?」

 遠藤さんが肩越しにこちらを見た。私は曖昧に頷いてみせる。遠藤さんは対面の野球帽を被った体格のいい青年を顎でしゃくってこう言った。

「対面が高そうな手で張っている気配があったからね。万が一、發か中を持ってきてたらオリようと思っていたんだよ」

「オリ――ですか?」

「場をよく見てごらんよ。可能性は“大”まである」

 私は全員の捨て牌を見回した。――發と中が、一枚も見えていない。すると、野球帽の青年が苦笑いを浮かべながら手牌を倒して見せてくれた。

「この面子じゃ、ひとつ晒しただけでも出てこないよなぁ。中はなんとか引いてこれたんだけど、肝心のアガり牌が引けやしない」

 99發發中中中 1(1)1 白白(白)

 發で大三元だ。確かにツモれたからいいものの、リーチをかけて發を持ってきてしまったら大惨事である。

 私は心底納得した。麻雀は自分の手だけを見るのではなく、状況全体を考えた判断が大切なのだ。基本的なようで、実行するのは難しい。

「――勉強になります」私は本心からその言葉を言った。すると、遠藤さんは愉快そうに笑いながらこう言った。

「俺たちなんかから学ぶべきじゃあないよ。昨日一緒に打ってた黒崎さん、麻雀ならあの人に教えてもらうべきさ」

「でも、確かにいま学ばせていただきました」

「はは、殊勝な子だね。店主のおばさんとは大違いだ」

 遠藤さんの言葉に対し、即座に「聞こえてるわよ」という弥生さんの言葉が飛んできた。

「おー怖い怖い。ありゃ地獄耳だね」

 その場が笑いに包まれた。私は笑い合う四人を見て、どこか温かい気持ちになりつつも、その不思議な関係性に少々驚いていた。

 カネを賭けて戦っているにもかかわらず、彼らに憎悪といった感情は見当たらない。ただ純粋に、麻雀というゲームを楽しんでいる。

 私はなんとなく嬉しくなり、無意識の内に表情を綻ばせていた。交換し終えた灰皿を持ってカウンターのもとに戻っていった際、弥生さんに指摘されてそれに気付く。

「あら、なんだか嬉しそうね」

「麻雀って、やっぱりいいなって思って」

「ふふ……そう。その気持ちを忘れないようにね」

「はい……!」

「ところで、なにか忘れてない?」

「え?」

「ふふ……飲み物訊いた?」

「――あ!」

 私は慌てて四人のもとへと戻っていった。


 全員分の飲み物を取り換えたあと、カウンターに戻ってきた私に弥生さんがこう言ってくれた。

「それじゃ、いまから午後六時までは自由時間で構わないわよ。買い物にでも行ってくるといいわ」

「六時まで? 随分と遅いですね」

「本来、ウチは午後六時からだからね。そこからお客さんがいる限りは店を閉めずに続けるけど、今日みたいに朝日が昇ってからも打ち続けてるお客さんがいるときは、ほとんどほったらかしで勝手にやってもらってるの。だから開店、閉店時間といったものは、もうあってないようなものよ」

「私だけいいんですか……?」

「いいのよ。でも、危ないお店に行ったりはしないでね。私のところでお世話してるあなたを狙うような度胸のある輩はいないでしょうけど、万が一があるからね」

「……わかりました」

 私は弥生さんの厚意に甘え、外へ出ることにした。


 いまさらではあるが、私が住んでいるこの町のことを紹介しておこうかと思う。

 ここは都心からは少し離れた中部地方の隅にある、天崎市という場所だ。人口は確か三十万人だとか聞いた覚えもあるが、その辺りはあまり正確には覚えていない。別に興味もないし。

 天崎市は東西南北それぞれ四つと、中心区という五つの区域に分かれている。私がいまいるのは中心区にある魅神楽町と呼ばれる歓楽街だ。

 その魅神楽町には二つの顔がある。主に日中に人が集まり、飲食店などが立ち並んでいるのが表通り。その逆、夜に盛り、なんというか――私のような子どもには縁のないような店が大半を占めているのが裏通り。私がいまいるのは、縁がないハズの裏通りだ。

 弥生さんの言葉を借りれば、表は警察、裏はヤクザの町であり、二つの勢力が均衡を保つことによっていまの魅神楽町が成立しているらしい。この辺りの話は、麻雀仲間であった同級生の一人に、この手の話にやけに詳しい者がいたので、彼女からよく聞かされていた。ヤクザの名前は宮代組だとか言っていたような気もする。

 表と裏を含め、この町には雀荘もかなりの数が存在している。私が“やよい”を選べたのは、その同級生のお陰であるとも言えた。彼女は裏の、言わばアウトローな話が大好きであり、賭け麻雀などの事情もよく調べていたからだ。本人は度胸のない気弱な人物であったので、実際に自分で悪事を働くようなことはしなかったが。

 他にもいろんな雀荘の話を聞いていた。なかには雀荘と呼べるかは怪しい場所もあったが、いずれも麻雀が打てる場所であることには間違いなかった。

 ――弥生さんの“家具や服を揃えなさい”という言葉はもうすっかり頭のなかから消え去っており、私は同級生の話を思い出しながら、それらの店を転々と見に行くことにした。


 家具や服には興味がなかったが、弥生さんの最後の忠告だけはしっかりと耳に残っていた。やはり我が身は可愛いもので、私は裏通りを避けて早々に表通りへとやってきた。

 道中、チェーン店の定食屋の前を通りかかったとき、私は昨晩からなにも食べていないことを思い出した。急激に空腹感に襲われ、たまらずその定食屋へと入る。

 言ってしまえば麻雀以外興味を持てない私は、食に対してもこだわりはない。券売機の前に立ち、一番先に目に入った焼き魚定食の食券を買って、私は店内へと入っていった。

「おお、シロちゃんじゃないか」

 少し前に聞いた声だった。私はカウンターで先に食事をしていた江上さんの隣の席に腰かけた。

「おはようございます。昨晩は、ありがとうございました」

「こちらこそ。楽しかったよ」

「えーと……一緒に麻雀を打ってくれたこともですけど、場代のことですよ」

「ああ、場代ね。いいんだよ、アタシは楽しく打てればそれでいいんだから」

「でも、聞いた話じゃ十万円以上負けてたって……」

「楽しみ代さ。この道のプロであるクロちゃんと、勝ち頭の遠藤ちゃん、そして初々しいご新規さんのシロちゃんと卓を囲めたんだ。安いものだよ」

「はぁ……」

「それに、アタシには本業があるからね」

 江上さんはそう言うと、手に持っていた茶碗を置いて隣の空いた席の上に置いておいたらしい新聞紙を私に見せてくれた。どうやらそれは、競馬新聞のようであった。

「競馬――ですか?」

「俗に言う予想屋ってヤツさ。もう五十年以上、これで喰っていてね」

「ご、五十年……?」

「他にもいろいろ手を出してはみたが、どうにも馬以外はしっくり来なくてね。無論、麻雀だって下手の横好きさ」

 江上さんは少々気恥ずかしそうに笑って言った。それから、新聞紙をもとの位置に置き、湯呑を手にしながら続ける。

「あそこはいい店だよ。遊べるレートだし、店を荒らすような雀ゴロだって来ない。来たところで、クロちゃんに撃退されるだろうけど」

 私はふと、遠藤さんや江上さんがベタ褒めする黒崎さんの腕について、改めて疑問を持った。確かに強い人ということは昨晩手も足も出なかったのでわかるが、それにしたってみなが異口同音に彼女の名前を出すというのはいささか過剰というものではないか。

「黒崎さんって、そんなに強い人なんですか?」

 私は素直に訊いてみた。江上さんは、お茶をひとくちすすってから答えた。

「強いね。少なくとも、アタシが見てきた麻雀打ちのなかでは一番立派な人だ」

「でも、負けることだってあるって、弥生さんが言っていました」

「そりゃ、誰だって負けることはあるさ。麻雀だって銭を乗っけた博奕のひとつ――常勝なんてものはありえないよ。彼女の強さはそこじゃないんだ」

「というと?」

「なんていうか、相手によって打ち方を変えられるんだ。アタシのような素人を相手にするときは、決してバカ勝ちをしない。少しはこちらにも華を持たせようと手を抜いてくれる。でも、決して場が腐るような打ち方はしない」

「そんな打ち方で、勝ち分を確保できるんでしょうか」

「そこが彼女の強さだよ。周りに気を遣いながらも、自分の“浮き”はしっかりと確保している。無論、さっきいったように負ける日だってあるが、月単位といったトータルで見れば、彼女は常にプラスを維持しているんだ」

「はぁ……」

 江上さんの話を聞いた私は感心すると同時に、少し残念な気持ちにもなった。麻雀打ちは、自分の持てる力すべてを出し切って勝利をもぎとり、その勝利という概念の具現化として現金をいただく。そんな真剣勝負を常にして生きていると思っていたからだ。

 だが、いま聞いた話では、接客と同じようなものではないか。相手に気を遣い、楽しませ、その対価として現金をいただく。

 ――無意識の内に表情をかげらせていたのか、江上さんが私の横顔を見て不意に笑い出した。

「博奕で喰っていこうとするなら、誰しもそういった勝ち方になるんだ。学生のシロちゃんにはわからないだろうよ」

 私はむっとして言い返した。「もう学生じゃありません」

 当然の反応といえばそうであるが、江上さんは意外そうな顔で私を見た。

「へぇ、そうなのかい? 服装も相まって、てっきりそうだと思っていたんだけどな」

「確かに昨日までは学生をしてましたけど、でも、やめました」

 江上さんの目が、すっと細くなった。

「――ワケありだね?」

「……」

 私は調子に乗って喋り過ぎたと思い、我に返って反省した。江上さんはそれ以上私のことについては触れず、残っていた味噌汁を飲み干すと、おもむろに席を立った。

「麻雀を生業なりわいにしようとすれば、シロちゃんにもわかるさ。まぁいずれにせよ、また今度アタシとやるときにはお手柔らかにね」

 江上さんはいつもの愛想のいい笑顔でそう言い残し、店を出ていった。

 先の会話で煮え切らない気持ちは大いにあったが、追いかけて話を続けても仕方がない。私は自分の前に置かれた湯呑に手を伸ばし、定食が届けられるのを大人しく待った。


 食事を終えた私は、表通りにある店のなかではもっとも盛っていると聞いていた雀荘へ足を運んだ。

 打つ気はなかったが、店の外看板に記されているレートを見て、情報を取り入れておきたかった。

「(1-1-2……千点百円の、ウマが一万点と二万点――箱で五千円くらいか)」

 表で堂々と営業している雀荘では、この辺りがギリギリ黙認されるレートである。レートが高いほうが場代も高く設定しやすいので、やはり店側としてはそうしたいところだ。

 しかし、ここは賭博が違法として取り締まられている日本である。暗黙の了解を破るなら、裏で店を開く必要があるのだ。

 それと同時に、私は前提的な問題を忘れていたことに気付いた。こんな服装では、裏はまだしも表の雀荘では門前払いを喰らってしまうだろうということを。

 とはいえ、それなりの服を買って着ていったところで、誤魔化せるような気もしない。

「(仕方ないか……)」

 私は表通りを離れ、雑居ビルの隙間から裏通りへと入っていった。

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