日常との乖離
その後、もう一半荘やることになった。
コンディションが悪いこと、そしてそのような状態で麻雀をやるべきではないことは重々承知していたが、私は席を立つことができなかった。少しでも所持金を増やし、安心感を作っておきたかった。
――結果は言うまでもない。今度は前回大人しかった江上さんもツキ始め、私一人が沈む展開となり、14000点持ちのラスで終了した。
素点の負けは23000円であったが、途中、江上さんが赤三枚を含めた倍満をツモアガり、それだけで3000円の追加。他には黒崎さんと遠藤さんがそれぞれ一枚オールのアガりをものにした。
合計で28000円。私の所持金は千円だけとなってしまった。
「さて、卓を割って申し訳ないけど、アタシはそろそろ呑む時間なんでね。またやろうね、シロちゃん」
最後の半荘こそ黒字の二着であったものの、江上さんは今日だけで十万円以上負けているらしい。しかし、少しも腐る様子を見せず、笑顔で私に手を振って店を出ていった。
遠藤さんはまだ打ち足りないのか、進行中である隣の卓を観戦している。
黒崎さんはカウンターのもとにおり、カーディガンの女性に勝ち金の精算をしてもらっている。
私は――呆然と席に座ったまま、それらを見ていた。途中、黒崎さんたちの会話が聞こえてくる。
「そういえば、例の新しいお店にはもう行ってみたの?」
「昨日様子を見に行った。“場センゴ”にはなかなか慣れなかったけど、やっぱり東風は勝負が早いから稼ぎやすくて便利だわ」
「ふふ……あなたみたいな麻雀打ちには、もうウチみたいなのんびりルールは肌に合わないかしら?」
「ここは自分の調子を確かめるには最適なの。とはいえ、あんたも稼ぐつもりならもう少し客が気に入るルールを取り入れるべきだとは思うわよ」
「いまでちょうどいいわよ。あまり盛っても私が疲れちゃうわ」
「――ま、あんたがいいならいいけど。それじゃあね」
「呑みすぎないようにね」
「……余計なお世話よ」
黒崎さんも店を出ていった。
そのとき、私は肝心なことを思い出し、慌てて席を立ってカウンターへと向かった。
「あ、あの……!」
「あら、どうしたの?」
「最後の分の場代なんですけど……えーと……」
正直に“お金がなくて払えない”と言うべきなのだが、口ごもってしまう。すると、カーディガンの女性は意外な言葉を口にした。
「それならもう貰ってあるわよ」
「え?」
私は耳を疑った。払った記憶なんてない。
「さっき出ていった江上さんっておじいさんが払ったのよ。全員分ね」
「ぜ、全員分……?」
「あの人、ちょっと気持ちのいいアガりをしたときはいつもそうなのよ。今日ウチにきたお客さんのなかで、一番負けてるってのにね」
「は、はぁ……」
とにもかくにも場代が払えないという状況を脱した私は、思わず安堵の溜め息をもらした。
そんな私を見てカーディガンの女性はくすくすと笑いながら、カウンターの前に用意されている丸椅子を手で示した。
「少しお話ししていかない? あなたのようなお客さんは珍しいから、興味を持っちゃってね」
カネはなくなったが、もう少し雀荘という場所に居続けたいと思っていた私は、嬉々として椅子に腰かけた。
「私はこの雀荘の店主の
「えーと、まぁ……その……」
「ふふ……ワケありみたいね。ここで会ったのもなにかの縁、よかったら話してくれない?」
「……」
私は話を始めた。
すべての始まりは、父の事業の失敗であった。
可もなく不可もなくという成果に嫌気が差したのか、欲が出たのかは知らないが、父は事業の拡大のためにあちこちからカネを借りた。それがちょうど半年前のことだ。
父は私と母に、“絶対に成功させてくれる提携主を見つけた”と言っていた。当然、そのときは私も母も考え直すようには言った。世の中に絶対なんてものはない。しかし、成功のチャンスを目前にした父に私たちの言葉は届かなかった。
騙されたということが明白になったのは、案外早かった。カネを借り回ってから、一か月も経たなかった頃だったと思う。
残ったのは多額の負債。加えて、父は“借りてはいけないカネ”にまで手をつけていた。
返済に追われる日々が始まり、私は最初こそどうなってしまうのかと随分動揺したものだが、意外にも少し経ったら慣れてしまった。それというのも、日中は学校にいたワケだし、帰ってきても両親は仕事でいない。言い方は悪いが、私にはあまり関係がないことのようにすら思い始めていた。
時折タイミングが合って顔を合わせることはあったが、これといった会話もしなかった。二人はいつも疲弊しきっていたし、私もどういった言葉をかけていいかわからなかった。
そんな生活が続き、そしてついに今日、いつかこうなるのではないかと思っていた事態が起きた。夕方学校から帰ってくると、家の家具が綺麗さっぱりなにもかも消えていたのだ。
家の前で呆然と立ち尽くしていた私のもとに、見覚えのない黒いスーツ姿のスキンヘッドの男が現れ、説明してくれた。
『キミの両親は、消えてしまった』――と。
男に、「私はどうなる」と訊いた。親の借金を背負って酷い目に遭わされると思ったからだ。
しかし、男は厳つい顔立ちには似合わぬ曖昧な微笑を浮かべてからただ一言、「好きにしな」とだけ言い、私の前から去っていった。
突然家を失った私は、
両親を探そうという気持ちはなかった。現実的に考えてなんの手掛かりもなしに探すのは難しいことだし、なによりこの半年で二人に対する思いは相当薄くなってしまっていた。薄情な奴だと言われるかもしれないが、事実なんだから仕方がない。
ただ、私がこのような状況でいの一番に雀荘へと来たことに関しても、なんと言われようとも仕方がないだろう。
しかし、どうしても試してみたかった。人生でもっとも打ち込んでいるであろう麻雀というもので、私がどこまでやれるのかということを。
――弥生さんは、私の話を黙って聞いてくれていた。そして話し終えると、私の前に淹れ直した熱いお茶を置いてくれた。
「大変だったのね。でも、そんな状況になって真っ先に雀荘に来るなんて、よっぽど麻雀が好きなのね」
「……負けちゃいましたけどね」
「ふふ……勝負は時の運よ。勝つ日もあれば負ける日もある。そんなものよ」
「でも、勝ち続ける人だっているんじゃないですか? 私なんかが褒めるのは恐れ多いことですが、さっきの女の人、すごく強かったです」
「クロちゃんのこと? 彼女はこれが本業だからね。でも、彼女にだって負ける日はあるわよ。勝ったり負けたり――それを繰り返しているの」
「でもそれじゃ、麻雀で生きていくなんて無理なのでは」
「気になるなら、本人に訊いてみたら? 多分今日は、バックスって名前のバーで呑んでるハズよ」
「バー……ですか」
「ふふ……大丈夫よ。この裏街に、学生だからと門前払いするような店は存在しないわ。でも、なかには学生だから入らないほうがいい店もあるから、その点だけは気を付けてね。特にあなたみたいな可愛い子は、酷い目に遭わされちゃうわよ」
「……」
滅多な場所には近寄らないようにしておこう――私は心底そう思った。
「ところで、これからどうするつもりなの?」
弥生さんが、返答に困る質問をしてきた。
そうなのだ。私にはもうカネがない。帰る家もなければ、頼るアテもない。友人に事情を説明して頼み込めば何日かは世話になることもできるだろうが、その家の家族に迷惑がかかるだろうし、それは避けたかった。
私が口ごもっていると、弥生さんは察してくれたのか、こんな提案をしてくれた。
「アテがないのなら、しばらくウチで働いてみるってのはどうかしら? あまり多くは出せないけど、お給料はちゃんと払うわよ」
「ほ、ホントですか……?」
願ってもない有難い提案だ。なにをするにしろ、持ち金がゼロでは始まらない。しかも麻雀と四六時中付き合える雀荘で働けるというのだ。私は思わず破顔して、「是非お願いします」と言った。
しかしすぐに、現実的な問題点に気付く。
「でも、私みたいな学生を雇うのって、なにか問題があるんじゃ……」
「普通の場所なら、大有りでしょうね。でもここは
「そ、そうなんですか……」
「ふふ……あまり忙しい店ではないけど、誰かもう一人いてくれたら楽なんだけどってずっと思ってたのよ。だから私からしてみても、あなたがいてくれると助かるわ」
弥生さんはにっこりと笑ってそう言ってくれた。私は少し照れ臭くなり、思わず顔を俯けた。
「決まりね。それじゃ、まずはあなたの身の回りのいざこざを清算しちゃいましょうか」
「どういうことですか?」
「このまま裏に消えたら、表で騒ぎになっちゃうでしょう? その制服、天崎西高校のものよね。あそこの校長とはちょっとした知り合いだから、私が手を回しておいてあげるわ」
「……え?」
「ふふ……心配しないで、私に任せて頂戴。とりあえず、今日はもう休むといいわ。いろいろあって疲れたでしょう?」
弥生さんはそう言うと、カウンターの下から一万円札の束を取り出して私の前に置いた。二十万ほどあるように見える。
「部屋はこの建物の一室を貸してあげるけど、家具とか服はこれを使って自分で揃えるといいわ。言わば前金ね」
「こ、こんなにいいんですか……?」
「受け取って頂戴。その代わり、しっかりと働いてもらうからね?」
弥生さんはそう言って、私にウィンクをしてみせた。
その後、私は弥生さんにカウンターの奥へと案内され、その先にあった四畳半ほどの部屋に連れていってもらった。
「この部屋を使ってね。布団は押入れのなかに入ってるから、とりあえず今日はそれを使って頂戴。シャワーは途中にあった茶色の扉の先にあるから、好きに使ってね。あとは――あら、私なにを言おうとしたのかしら」
「あ、あの……」
私はまだ言えていなかった言うべき言葉を彼女に伝えた。
「ありがとうございます。会って間もない私に、ここまでよくしてくれて……」
「ふふ……気にしないで。こっちだってあなたに働いてもらうんだから、これくらいは当然だわ。それじゃ、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
弥生さんは最後ににこっと笑ってみせてから、ホールへと戻っていった。
私は押入れのなかの布団を引っ張り出して畳の上に敷くと、学生服のまま倒れ込むように寝転んだ。
――そして、天井を見つめながら自分の境遇についてを振り返り始める。
突然始まった非日常――いや、ふと思ってみれば、日常とはどんなことを指す言葉なのだろうか。毎日学校に通い、誰もいない家に帰って一人でご飯を食べ、風呂に入り、床に就く。その繰り返し。面白くもなんともなかった。
だが、今日からは違う。なにが待っているのかはまだわからないが、私は
非日常が日常になる――不安は確かにあるが、それ以上に期待のほうが断然強かった。
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