魔女の娘と少女の祈り
第31話 栴檀は双葉より芳し、梅花は莟めるに香あり
■道は西方域へと続く
曇り空に細かな雨が疎に降る。しかし、周囲は明るく、黒鉄の円十字が雲井鼠色の外套に映える。中央王国の審問官に率いられた円十字の聖騎士団が馬上刀を振い馬車の隊列に襲いかかる。
最後列の馬車の御者台からマーカスが連弩で次々と襲撃者を無力化する。
「マーカス。代わってくれ」
「えっ。でも
「ああ、殺すなという命令は忘れていないさ」
カネヒラは渋い表情で
「丸投げするか……」
雲の上で様子を伺っている虚空の娘にして魔女の娘が猫のように笑っている。その様子がカネヒラの脳裏に浮かぶ。次の瞬間、凄まじい風切り音と共に巨大な氷の槍が雲を貫き地面に突き刺さり大地を揺らす。土埃が晴れる間も無く、襲撃者の馬群が人の丈ほどの無数の氷柱に突っ込んだ。馬は氷柱を交わすが、急激な方向転換や飛越に騎士は振り落とされて、翻筋斗を打って地面に転がる。
「応答が早過ぎるぜ……」
カネヒラは、呆れたように小雨混じりの空を見上げると、乾いた笑いを浮かべた。続けて「円陣防御!」と叫び、馬車隊に停車を指示し、円形陣を組ませる。
振り落とされた聖騎士たちは、直ぐに回復の奇跡を発動し、立ち上がって各々が抜刀。隊列を整えて、踏み出さんとした時、彼らの頭上に黒い雨のような魔力が降り注いだ。
虚空の娘にして魔女の娘たる
「戦意は旺盛だけど——」
魔女の娘に敵すること能わずと言い放ち、エミリーがカネヒラたちの馬車から絶妙な拍子で飛び出すと、彼女は荊棘と細剣を巧みに操り、百拍を数える内に下馬戦闘に移行した聖騎士たちを制圧した。
「巫山戯るなッ!王国への叛意とみなすぞッ!!」
一際、豪華な装備を纏った審問官が吠える。
「それを決めるのはあんたじゃないさ。第一王女殿下が判断されることだ」
カネヒラは平坦な声音で応える。
「謀叛人の血族は三族まで誅せねばならん」
「謀叛ねぇ……じゃあ、新しい東方公爵様の首も元宰相様の首も落とさないとなぁ」
カネヒラは、暗に王命を騙る何者かの差し金であろうと、憶測から揺さぶりをかけた。
「貴様!」
カネヒラは、成程、的中かと納得しつつも、この状態でよくも居丈高に反論出来るものだと呆れ、諭す様にゆっくりとした口調で語る。
「相手が魔女の傭兵団なら退却も已むなしだろ?」
現に彼らはエミリーの荊棘に捕縛されて身動きできない。返事を待つまでもない。後は
「冒険者風情がッ!邪魔立てするなッ!!」
怒りまかせて怒鳴り声を上げようとも、まるでさまにならない。冴えない中年男は億劫だと言いたげな表情をうかべる。倒れ伏している審問官の頭の近くに蹲み込んで、囁くように語りかける。聞き分けてくれれば良いのだがとの思いを込めた。
「あんたらの事情なんぞ知ったことじゃない。この護衛は冒険者組合本部経由の依頼だ。不都合があるなら軍務卿ゲオルグ・ラーヴェンスベルク侯爵様が王都冒険者本部長として差し止める。あの御方に抜かりなどあり得ないだろ?」
身なりが立派な騎士団が王命を唱えたところで、冒険者組合経由で解除命令が無い限り、カネヒラたちにとっては野盗と変わらないのである。カネヒラとマーカス率いる護衛隊であれば、連携無しの騎馬中隊など簡単に殲滅できる。
「過去よりも今が大切だ。第一王女殿下に尻尾振っとけ……」
実際のところは、第一王女の意図に反して、巻き返しを諮る元宰相が子飼いの審問官を嗾けた結果なのだが、カネヒラが知る由もない。図らずも円十字の聖騎士団を生かすと決めたことは、然程、遠くない未来における中央王国の権力闘争において、第一王女を利することに繋がるのは、王国の民人にとって幸運となるだろう。
「分かってくれたようだな」
審問官は顔を赤くして無言で睨みつけるだけであった。冴えない中年男は肩をすくめる。自尊心が酷く傷つけられた怒りが心中で渦巻いていることだけは察しがついた。気の毒にと思う程度には、カネヒラにも思いやりは残っていた。
しかし、依頼優先で騎士団を撃退した事で生じるであろう面倒ごとは、冒険者組合長に丸投げすればよかろうと思いながらも、どうせなら全て無かったことにしたいというぞんざいな気持ちも多分にある。現場判断が優先されるのが冒険者の世界だが、今回は、死人に口無しとはせず、
「皆様、ご帰還されるそうだ」
カネヒラが目配せをすると虚空からじわりと姿を現した
「ほーい。じゃあ、王城の練兵所にご案内!」
彼女は殊更巨大な転移門を開く。それは頭上を流れる雲が流入する程の高さに聳える。
「エミリー。解放してやってくれ。あとは
カネヒラは立ち上がり、戦闘態勢のエミリーに戒めを解くようにと声をかける。
「わかった……」
光を飲み込む漆黒の荊棘が地面に吸い込まれるように消えると、騎士団員たちは不可視の箱型の結界に収納された。まるで柩だ。それらは次々と浮びあがり、転移門に放り込まれる。
「浄化と完全回復のおまけ付きだ。有り難く思い給ェ〜♪」
■善後措置
小さな館。大商人ラッセルが用意した宿泊施設。西方大陸に向かう船が出るまでの間、エッペンシュタイン伯爵の関係者が安全に過ごす筈の場所。
深夜、少女は目を覚ました。
彼女は、ヴェリーナが命を賭して守ろうとした双子の妹のウェルダ。エッペンシュタイン伯爵の三女だ。
彼女は寝台の上で身を起こす。南方の辺境開拓地の冒険者たちが、首尾よく円十字の聖騎士団の追手を撃退し、西方域の港町まで逃れることができた。第一王女やその側近たちでも自分を捕えることはできなかったのだから、自分の父親はやはり優れた手腕の持ち主だと感心する。
昨日は、この数ヶ月で初めて安心して眠ることができた筈なのだが、嫌な寝汗をかいて、喉の渇きで目が覚めてしまった。サイドテーブルの水差しは空っぽ。お付きの次女は、自分の影武者として、別の部屋で就寝している。船が出向するまでは不自由さに目を瞑らざるを得ないが、身の回りのことは一通り、自分でやれる。箱入りのお嬢様とは違うのだ。そうして彼女は水を求めて寝室から廊下へと出た。
「誰ッ!?」
長い廊下の先、窓から月明かりが差し込み、黒い影が伸びる。それは女だ。一目で裸体だと分かる。女は蠢く闇の様なモノを纏っている。
「刺客?まさかッ」
ウェルダの耳元で鉛のように重い声が響く。
『面忘れとは寂しい限りだ』
月の光に映る貌は——
「——そんな」
目前の女は、自死した長姉のオティリエに変じていた。どういう訳なのか魔法学園の制服姿であった。三歳年上で見た目も雰囲気も双子のウェルダたちに生き写し。エッペンシュタイン家の使用人たちでも区別がつかなかった。
「御父様は……私を選んだのよ。お姉様じゃないッ!」
未練を残して死霊となり目前に顕れた姉の残滓に戸惑う。
『お前はウェルダじゃないさ』
数拍の間。ウェルダは言葉を絞り出す。
「違ッ……私はウェルダ……」
鏡の前、短剣を首筋に当てて、歪んだ笑みを浮かべている姿が脳裏に浮かぶ。断片的な記憶映像が網膜に浮かぶが如く立ち現れる。彼女はオティリエの残滓を前に呆然と立ち竦む。目前の残滓が再び闇を纏えば、その背から漆黒の羽がばっと広がった。
「!?」
ウェルダは王都からの追撃を逃れ、隠れ家で眠れるという安心感から油断していた。寝起きであったことも不利に働いた。何故、こんな場所に魔族が居るのかと惑う刹那、目の前の
『忘れたと言うのであれば思い出させてやろう』
高位の術者であっても不意をつかれては淫魔の術中に嵌まり込み、容易には抜けられない。ウェルダは、長姉のオティリエには及ばないが、魔法学園でも評判の才女だ。魔法師団の術者たちにも見劣りしない。だが、彼女はやはり逃れられなかった。
『彼の人は私の荊棘を指でなぞりながら……』
闇が這い上がり、妖の少女の身体を覆い隠す。官能的な台詞と共に、淫魔の姿は別人へと上書きされる。其の顔と姿は、王都で評判の冒険者一党の頭目たるエミリー・ローレンとなった。
『あの人は、私を愛おしいと言って、毎晩のように迸る劣情を何度もこの身体に向けた』
エミリーの幻想は粘りつく言い様と蠱惑的な表情に官能的な仕草。気持ちが逆撫でされる。全身の骨の内側をガリガリと削られるような感覚。沸き立つ憎悪。抑えられない嫉妬心。女としての矜持を踏み躙った奴。憎き恋敵への内より吹き上がる怨焔が渦巻く。やがて彼女の父親によって施されていたウェルダの封印が解ける。
「うぅがぁぁあッ!エ゛ミ゛リ゛ーロ゛ーレ゛ン゛ンンッ!!」
割れ鐘のような絶叫と共にエミリーの幻像に我を忘れて巨大な火球を投射した。しかし無駄。命中せずに幻像の手前で霧散する。
『思い出してくれたようだね』
ウェルダは黒い球体を次々と繰り出す。属性を付与せずに魔力そのものを対象に投射する。極めて限られた高位の魔術師にのみ許された力技である。無効化は困難。
「おまえかッ。おまえがッ。おまえだぁーッ!お前の所為だ。お前さえいなければッ!」
封じられた記憶が溢れ出す。それに相俟って彼女の中の怒りの感情が昂まり続ける。視野が狭まり周囲が見えなくなる。封印が解けた反動。封印に用いられていた呪因が霧散せずに纏わりついて正気を奪う。
「がぁぁぁ——」
彼女の感情が逆巻く。腹立たしい。妬ましい。儘ならない。擬かしい。死ねよ。死ね。迷宮で斃した筈だ。なぜ死なぬ。そうして憎悪を激らせて魔術を放つが、エミリーの幻影は悉く無力化する。種族間に横たわる絶望的なまでの力量差。冷静な魔術師であれば幾らでも戦い方があるが、術理は感情に押し流されて、魔族に対して魔力のゴリ押しとなった。
『お前はウェルダじゃない』
エミリーの幻影は淡々と語る。
「黙れ!黙れッ!!」
半狂乱になりながら否定する。エミリーの幻影は構わずに言葉を続けた。
『お前はオティリエ・オルタムミア・エッペンシュタインさ』
自称ウェルダは、真名を呼ばれて、何かが落ちたように不意にパタリと動きが止まる。
「嗚呼、そうだ——」
全てを思い出したオティリエは不意に語り始めた。マーカスは最早何事もせずにじっと見つめる。
「——御父様はあの出来損ないどもではなく、私を選んだ……」
嫉妬は呪力の源泉と諭してくれた。迷宮を崩壊させた事を大いに褒め称えてくれた。あんなに喜ぶお父様を初めてみた。自慢の娘だと讃嘆してくれた。
「魔術が使えない出来損ないのヴェリーナでも、魔術だけが取り柄の陰気なウェルダでもない!」
オティリエは正気を取り戻したかの様に声を上げた。何度も姿を変えているが、目の前で黒い翼をふわりと羽ばたかせている少女は敵である。王都からの刺客に違いない、とオティリエは判断すると、冷静を保つ魔術を無詠唱で発動。続けて対魔族戦の備えを瞬時に張り巡らせる。彼女は、先程とは異なり、魔法師団の主戦力を務める高級将校の顔付きになった。
「名乗れ!卑き暗殺者め!!」
高慢さは自己の技量に裏付けられている所為なのか、戦い方を思い出せば、魔族の淫魔が相手だろうと打ち勝つ事ができるとの確信が心を占めていた。しかし、それは油断。
「このわ、だぁ……r、ぇ!?」
「これがお前様の死だ」
暗闇から滲み出たエミリー・ローレンがオティリエの背後から囁く。
「ぅぐォぉッ!」
オティリエの肺臓から血が爆発的に溢れて鼻腔まで達した。
「お前様の妹御も迎えに来ている。さようならだ」
そうエミリーが告げて、細剣を引き抜いた刹那。オティリエから膨大な魔力が吹き上がると同時に耳を聾する叫び声が隠れ家の廊下に響き渡った。
▪️鏡花水月あるいは海底撈月
真夜中にキースがカネヒラを揺り起こす。
「何なんだよ……」
冴えない中年男は眠気で辛そうに目を開ける。目の前には神気を纏う傾国の美人。窓越しに不快な咆哮が聞こえて来る。聞き覚えのある叫び声。その正体を即座に理解するも有り得ないことだと判断する。自然発生ではなく、何者かに召喚されたのだろうと当たりがついた。毎度ながらの厄介事だ。
キースとカネヒラは暫し見つめ合う。絶え間の無い叫びに視線を窓に一度向けてから、キースは再度カネヒラの冴えない顔を覗き込む。
「
「キース。分かったから……」
港街の宿の一室。カネヒラが取った部屋に二つある寝台の一つをいつの間にかキースが占拠していたことについて咎めることはない。カネヒラが寝ている間に
「
キースの布面積が少ない扇情的な下着姿には些か閉口したが、見慣れているといえばそれまで、綿毛布被って全裸でカネヒラに後ろから抱き付き「疲れた〜」と言いながら彼の背中に顔を埋めている
「何故、俺に尋ねるかな、それを……」
「迷宮深層の魔物が地上に這い出している異常事態だからさ。カネヒラなら事前に何か知らされているんじゃないの?」
「まあ、そう思うのも無理な話じゃないが……」
それまで無表情だったキースが不快だと言いたげな表情を浮かべた。
「彼奴の臭いがするんだ」
「彼奴……ああ、あれか、エミリーに荊棘の檻を仕込んだ呪術師のことか?」
「そうだよ」
「偶然ってのは侮れないな。エミリーもこの宿に泊まっている。完全に解呪されているが、油断は禁物だ」
「その通りさ。何せ彼奴は黒百合の聖女様にも呪詛を仕込んでいたのだから」
カネヒラは言葉に詰まる。数拍の後、キースはニヤリと嗤う。躊躇なく禁秘事項を口にしたキースに只々唖然とした。
聖女が呪われていたなどという醜聞を普通の冒険者が知るべきではない。この先、厄介ごとに巻き込まれることが確定するからだ。会話の流れで隙を突かれたとは言え、どう考えても後の祭りだ。しかし、キースの一言がカネヒラに示唆を与えた。
「なるほどな……であれば、帝国の置き土産って考えた方が良いかもな……」
「それは飛躍しすぎじゃない?」
「彼奴が帝国暗部の呪術師なら有り得るだろう」
「むぅ……」
単なる
迷宮に出現する
「で、どうしたいんだ?」
「僕たちは冒険者で目の前に魔物がいる。選択肢は一つじゃないの?」
「やばい奴らだぞ。逃げの一手をお薦めしたいのだが……」
「
「致し方無しだね?」とキース。
「ったく、厄介だな……」
「面倒くさい。擲弾使うか……」とカネヒラが謐く。
「街中だよ」
発想が
「ん?」
一瞬、カネヒラは
「どうかした?」
キースは、身支度のつもりなのか、
「こいつら幻影か?」
虚空の娘にして魔女の娘たるドロシア=エレノアはニンマリと猫のように笑った。
「なるほど。煩いだけって、そう言うことかよ」とカネヒラが納得する。
「キース。
「朝までこの調子は勘弁。近くのヤツらを消しに行くよッ!」
派手な下着姿に薄皮の太もも丈の
「
■軈て来るべきこと
ペルシアハル帝国の侵略拠点であった商館は、西方城塞都市の行政機関に接収されていた。帝国の遠征軍の司令官の執務室には西方城塞都市の領主。半年に一度の視察業務の一環で、朝早くから書類決済を一人黙々と続ける最中、深淵の娘にして魔女の娘たるアデレイドが姿を現した。
「侯爵殿には面倒をかけた」
涼やかな声が執務室に響く。彼女は深淵を携えて宙に浮いている。
「滅相もございません」
グナイゼナウ伯爵は、相変わらずのボサボサ頭に死んだ魚の様な目。深淵の娘にして魔女の娘に驚くこともなく自然と頭を下げる。此の所、面会の頻度が多い所為か、湧き立つ深淵から放たれる不快感に慣れて柔和な表情で深淵の魔女を出迎えている。勿論、爵位の違いを訂正することはない。
「出航は五日後であったか?」
「帝国の捕虜に紛れ込ませて送り出す予定です」
彼女は、前置きもなく、唐突に確認したい事柄だけを尋ねる。グナイゼナウ伯爵は、的確に答えを返す。
「エッぺンシュタイン伯の使用人たちを雇い入れるような好事家は西方域にはおらぬか」
「仰せの通りです。ですが帝国の沿岸部であれば、恐らく働き口が見つかるでしょう」
西方人が中央への反骨精神が旺盛であっても、未だ西方動乱の戦禍が癒えぬ状況下で、国家転覆を図った貴族の関係者を抱え込むほど愚かではない。
「
「ラッセル商会にございます」
「なれば、員数合わせも手抜かり無しだな」
「万全です。ご令嬢は無事に荒波を渡ったことになるでしょう」
グナウゼナウ伯爵の声音に僅かな苛立ちが載っている。普段なら聞き流すところだが、気まぐれにもアデレイドは敢えて尋ねた。
「其方は不満そうじゃ喃」
戦場で天稟を示す指揮官の眼がアデレイドを見つめ返す。
「アデレイド様は
その問いかけに対して、瞬時に深淵が沸き立った。
「やはり
無限に間延びしたような数拍の後、深淵の娘にして魔女の娘は目前の戦上手に釘を刺すように語った。
「あれはエッぺンシュタイン伯に長年仕えた家令だ。それ以上でも以下でもない」
不幸にして、グナウゼナウ伯爵の予測は的中していた。アデレイドに 答え合せを求めて、彼は無駄に冷や汗をかくことになった。
「其方の目算は第一殿に伝えるべき事柄であろう。妾と無駄話をしたところで何の功績にもならぬぞ」
「時節は弁えております」
今の時点で、
念の為、好奇心で深淵の魔女に正解を尋ねたが、全くもって迂闊であった。
「日々を数え待つも亦楽しからずや。孰れ東の聖笏が振り下ろされん。其の際は、侯爵として粒粒辛苦、しかと励め」
そう言うや否や、深淵の娘にして魔女の娘は、虚空に消え失せた。
「東の聖笏……教皇猊下か——」と横着者は独言する。
あるいは復活したと噂の白曼珠沙華の聖女のことであろう。口は災いの元。魔女の娘に尋ねることではなかった。魔術師団長の刑死にも疑義があることを含めて、自分の読みはやはり正しかったと言えど、この憶測はどこまでも自己満足に過ぎず、つい先程の嘴事を後悔した。態々、厄介事を
此度の事件の後始末が表沙汰になれば、魔物氾濫や魔法師団長の死が帝国の謀であることも王宮で議論される。そうなれば、度重なる外法の使用による侵略行為を看過できずに、中央王国は帝国を断罪せざるを得ない。
「戦になる」
馬鹿げている。グナイゼナウ伯爵は財貨と人命の無駄遣いだと思う。今回の件も含めれば、帝国の仕掛けは一掃されたと見るべきであり、これ以上は被害が出ないはずだと踏んでいる。敢えて、帝国本土に攻め込む必要性は感じない。
しかし、魔女の娘は確定したかのように未来の出来事を口にしたのだ。彼女にとっては、未来において執筆された歴史書の頁をめくる程度のことなのだろう。然も、馬鹿げた舞台の演者を決めるのは、深淵の娘にして魔女の娘たるアデレイドだ。余りにも不条理である。
「無慈悲なる魔女が全てを捻じ曲げてしまうのだから……」
思わず不満の言葉が漏れる。魔女の娘が演出する歌劇の舞台。彼の立場が彼自身をして観客に留まることを許さない。ウィルヘルム・グナイゼナウは、然程長くもない平穏の日々を貪り過ごすことに決めると、それが最良の選択であろうと無理やり自分を納得させた。
■凋氷画脂
繊細な作業中。ふと昔の記憶が蘇る。気が散るなどアデレイドには滅多に無いことではある。手元の魔道具の微細な魔法陣を描く手を止める。現在の東方公爵領の惨状を鑑みるに、過日、気まぐれに見出した可能性の種子について、無理やりにでも顕現させるべきだったかと悔悟する。
——外なる神の容喙。
莫迦げた事だと気を取り直す。偏在すると雖も、外なる神々が人の営みにのべつ幕無し干渉するなど有り得ない。作業を中断して一服した方が良いかと思いながら、ふと視線を扉に向ければ、無貌なる修道女が佇んでいた。
「斯くもうむがしき事なし、如何に歓待せん」
「不意の来訪故に、持て成し不要」
二人は、古王国時代の言い回しで言葉を交わす。日頃、無表情なアデレイドが笑みを浮かべる。
魔道具作製の為に身につけていた単眼鏡を外して優雅に立ち上がると、無貌なる修道女に応接用の長椅子を手振りで薦めれば、瞬く間に優美な姿で座を移す。
実に美しい佇まいと感心させられる。魔女の娘は、虚空から古風な茶器に淹れたての紅茶を取り出して、黒檀の
「彼の事々に一切の関与無かり。此れぞ汝に伝えたきことなり」
「如何にも承知仕りて候え。其は手前の不手際なり」
怪しげなる要件かと身構えていたが、一刻の慰めのために
「汝は縁起と因果の理を過たず。賽の目を易々として意に従わせん。件の不手際は如何なる仕儀なりや」
魔女の娘の手腕を讃えつつも、無貌なる修道女は不可解であると伝える。
「人を選ぶに誤りて思い通らず。彼者は不調法に候えば、機会を示せど千載一遇とは
深淵の娘にして魔女の娘は嘆いて見せる。
「然り。其は梅蕾に非す。また栴檀は白檀に成り得ず。白檀と雖も双葉は薫り無し」
無貌なる修道女は感じ入った様子で深く頷く。三千世界何処においても人選の難しきことに異論を唱える者などいないだろう。とは言え、試みに選ばれた者が聞けば、何を勝手な事を言い連ねるのかと呆れるであろう。
「悉知されるべき事柄にて、古今不変なれど、屡々忘れ易き事ならば——」
無貌なる修道女が続けて言葉を繋ぐ。
「過度に期するは淺ましきこと。然れど、人の子は予期せぬ事を稀に為して、我らを驚かさん。期せずべからざるなり」
深淵の娘にして魔女の娘は肯首する。
「百万の民人を救済する試みは全く易きに非ず」
「滅するは易し」
無貌なる修道女は淡々と言葉を紡ぐ。
「其は顕界を滅さんとする幽界の歪みなれば、顕界の彩どりを尊びて、抗すことこそ肝要なり」
是れを宣ないつつ、深淵の娘にして魔女の娘も綾取る。
「回合に抗うは意思ある者の性根にて、仮に無意に帰すると雖も、此れを喜び、神々の慰めに奉らわん」
「実に善き哉」
戯れやら慰めやらで弄ばれる側は堪ったものではない。勝手に期待され勝手に落胆される。偶然に選ばれた者には途轍も無く過剰であろう。魔女の娘が望む顕界の種子には、無量数大を不可思議に冪ねて、蓋世不抜の英気が探し求めたとしても、所詮、
「汝が指し示したる類稀なる泡沫を除けば、顕現せしむ凡ゆる事々に於いて、無辜なる者共は名状し難き魔物に蹂躙されん」
深淵の娘にして魔女の娘は虚無縹渺たる瞳を携えて応えて曰く。
「然り。累々として区別なき種子は泡立ちて顕界へと姿を変じる。故に其処に在ると雖も境は越えず。唯、識において覚知さらるる」
然し乍らと彼女は継ぐ。
「一言により転じて一挙にて変ず。一動を以て帰する」
深淵の娘にして魔女の娘は、彼の者に行動が伴えば、瞬時に望むべき種子が泡たち、顕界が新たに塗り潰されていたと断言すると、無貌なる修道女は、彼女らしからぬ慈愛を含んだ笑みを浮かべつつ答える。無論、凡百の輩に覗き見ることは叶わない笑みではあるが、魔女の娘はその美しき貌を愛でる。
「さてもさても件の若人には酷であろう」
「無思慮無分別こそ若人なりや。彼の者、老成に過ぎて娑婆気無し」
「宜なるかな」
互いに見つめ合い納得したとばかりに鈴を転がす。
無貌なる修道女と深淵の娘にして魔女の娘は、若者の一人よがりな正義感でもあれば、後先考えずに貴族の御令嬢の手を取って、連れ去ったであろうと宣うのだ。しかし、練達の冒険者の様に考え振る舞い、実績を積み上げていた若いジョージが無軌道に振る舞う事など有り得なかった。
残念なことに東方公爵領が壊滅しないという筋道を選び取れたのが当時のジョージしか存在し得なかったという点も含めて、唯一無二なる可能性は、彼が雨の中でヴェリーナたちの産みの母親となる御令嬢と肩を寄せ合っていたあの瞬間だけであった。
「古今、無数の陳腐なる営みは、瞬く間も惜しむかのように愛を語り合うておろう。それこそが顕界の支えなのやも知れぬ」
無貌なる修道女はそう言って嘆息し、深淵の娘にして魔女の娘と共に、その逞しき様相を喜び合った。
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