第26話 魔物氾濫(STAMPEDE)

 北方公爵領と東方公爵領の領境にある山間の城塞都市。その都市の近郊の未踏の迷宮の崩落跡に巨大な球状の迷宮核が浮かんでいた。その径は五〇カーネを超える。周囲の光を呑み込んだような漆黒の真球。時折、虹彩を放つ。

 迷宮最奥から地上に顕現するという前代未聞の異常事態は、誰の予想も違えることなく膨大な数の魔物を生み出した。名状し難い魔物の大群は大河のように西へと向かう。そうして数刻の後に城塞都市を飲み込んだ。


■神聖暦三三四年春季三ノ月三日 昼日中


 石造りの街は阿鼻叫喚となった。


 貴賤貧富の区別なく老若男女の総てが魔物の餌食となり屍を晒す惨事の中、南方の辺境開拓地の冒険者組合所属の古参の冒険者ベテランたちが辛うじて逃げ延び、廃教会に身を潜めていた。

 廃教会の敷地に設置された魔物除けの香と結界石は、内部に潜む生者の気配を遮断する。故に魔物たちは生者を補足することができない。魔物たちの感知範囲から隔絶された廃教会の内部は、入り口から内陣に続く身廊、左右二列に木製の長椅子が二〇脚、高い天井を支える柱が対称に並ぶ。柱頭は精巧な彫刻で飾られている。柱から広めの側廊を挟んで所々漆喰が剥がれ落ち壁面に至る。かなり古い時代の建造物だ。


 内陣と会堂を仕切る段差に腰を下ろす青髪の司祭服の男は、南方の辺境開拓地の教区司祭スティーブ。彼は古参の冒険者ベテランのフランクを眺めている。


「何はともあれ、全員が無事であることを神々に感謝しましょう」


 青髪の司祭の呼び掛けに被せるかの様に戸外から無数の魔物の咆哮や唸り声が聞こえる。


 魔物の氾濫スタンピードは、城塞都市を飲み込み、散々に蹂躙した後、更に西へと流れ去ったのだが、本流から逸れた大型の魔物が城塞都市に残存している。廃教会の近くを徘徊する複数の魔物の所為で、廃教会の床が揺れ、天上やら壁やらに積もっていた埃が舞う。

 生き残りにとって状況は芳しくない。死の気配が纏わりつく。祭壇に向かって右手側、最前列の長椅子に座るフランクは小声で呟くように応える。


「生まれてこの方、神々のご尊顔なんぞ拝したことは無いがな」


 フランクは青髪の司祭スティーブを大きな目で一暼する。数拍の間。軽く頭を振って、白髪混じりの暗い金髪を掻き上げると、祭壇の薄暗がりに視線を向けた。彼の灰茶色の瞳に壊れかけた神像が映る。忘れ去られた神像を眺めていると眉間の皺が一層深くなった。神々に祈ろうとも死が訪れる時は訪れるものだと。それは信心深い人々への皮肉では無く、古参の冒険者の達観なのだ。


「……しかし、分からん」


 東西南北二五百尋スタディム(5km)四方の城塞都市を丸呑みにする程の大規模な魔物氾濫ではあったが、ここまで一方的に蹂躙されるのだろうか。彼は訝しんでいた。正教会が如何に堕落していようとも、大司教による神聖結界は、魔物氾濫に破られるような代物ではない。現に規模は小さいとは雖も青髪の司祭が張り巡らせた神聖結界は十全に機能している。


 フランクには腑に落ちないことばかりだ。心底が騒つく。怒りとも悲しみとも嘆きとも言い難い感情が渦巻いている。血縁は既に無くとも、この城塞都市は彼の生まれ故郷だ。幼少から相棒ハロルドと共に過ごした懐かしの場所であった。古馴染みも多かった。


 フランクの思いを汲んだのか「説明求む」と彼の相棒が青髪の司祭スティーブに問いかける。相棒もまた同じ思いであった。


 ハロルドはフランクの左隣、一席を空けて最前列から二列目、スティーブの真正面に座っている。綺麗に剃り上げた頭部に赤銅色の口髭と顎髭が特徴的な古参冒険者だ。普段は人懐っこい笑顔を湛えているのだが、魔物氾濫という災禍の中、表情は険しい。

 赤銅髭と青髪が数瞬見つめ合う。禿頭の髭男ハロルドが何に対して説明を求めているのか他人からは分かり難く、青髪の司祭服の男スティーブの方はと言えば、正教会の禁秘事項の多い事案である故に何から説明すべきかと迷う。結果として両者間に沈黙が訪れる。


「先ずは、貴様がここに居る理由からだ」とフランクが痺れを切らし会話を促す。スティーブは「あゝ、成程」と頷きながら説明を始めた。


「勿論、冒険者組合長アデレイド様からの指名依頼ですよ」


 スティーブは爽やかな笑顔を浮かべ、フランクは胡散い者を睨め付ける。


 暫し間を置き、やがて——


「驚くだけ無駄か」とフランクが呟く。


冒険者組合長アデレイド様のお考えは量りかねますが、皆様が窮地に陥るから助けよと言いつけられまして、五日前からこの街で待機していました」


「五日前だと?……此処の住人は助けないのかよ」


「拱手傍観」と不機嫌さを隠さずにハロルドが追従する。


「それは現実的ではありません」


 スティーブの返しには皮肉が込められていた。ゆっくりと立ち上がって、やや大袈裟な身振りで続ける。まるで歌劇の役者の様だ。古参の冒険者二人フランクとハロルドは呆れた様に青髪の司祭を眺める。正教会の教皇庁で要職を務め、未だに教区司祭として地位を保有している人物が、正教会の教義を歯牙にも掛けず、剰え無慈悲なる魔女アデレイドに大いに肩入れをしているのだ。


「此処は東の大公爵様の領地。而も迷宮探索の拠点として国内で最も有名な城塞都市。南方の辺境開拓地の冒険者組合長アデレイド様が口出しなどできますか?」


 困惑した表情の古参の冒険者二人フランクとハロルドを交互に見遣りながら青髪の司祭スティーブは続ける。冒険者組合長アデレイドから指名依頼を受けたからには、正教会の司祭ではなく、冒険者と言う訳だ。割り切りが良過ぎる。


「この城塞都市の住人は熱心な正教会信徒で占められています。王国東部でも有数の信仰の地ですよ?」


 明明白白にして言質不俟。無慈悲なる魔女アデレイドの言葉は信心深い人々に届かず。南方辺境伯を経由した諷諫は東方公爵の耳に虚しい。


 空前絶後の魔物氾濫を予見したからと言って、発生前に露骨に距離を置けば、王国全土に広がったの噂話の悪影響により、あらぬ誤解を招きかねない。面倒事を事前に遠ざけるべく、無慈悲なる魔女アデレイドは、旗下の古参の冒険者たちを送り出して、不意不在を装った。理に適っているとは言え、政治的配慮のために利用された古参の冒険者フランクたちが不快感を抱くのは当然のこと。特に九死に一生ともなれば尚更だ。


 冒険者組合長アデレイドの意図が那辺にあろうとも、王都の冒険者組合長本部長からの指名を受託すると決断したのはフランクたちなのだから、結果責任を負うべきであろう。しかし、彼らは冒険者組合長ギルマスから警告なり何なりあつても良さそうなものだと考えてしまう。一言芳恩。たった一言でも忠誠心は上がる。言施ごんぜならば元手は不要。——其処で、フランクは冒険者組合長アデレイドと出発前に交わした言葉を思い出した。


『大して嵩張らぬ故に携えよ。迷宮に潜らぬとも魔物に纏わる厄介事は少なくなかろう。悪い事は言わぬ』


冒険者組合長ギルマスは大袈裟だな。こんな高価な魔導具は拠点防御用だ。気持ちだけ受け取っておくよ』


 分かり難いのはいつもの事だが、冒険者組合長アデレイドは麾下の信頼する冒険者フランクに警告していた。魔導具を携行しなかったのは、驕りではなく過信でもなく、古参の冒険者故の正常化された偏見の所為だった。


「クソッ!」


 フランクの脳裏に知人たちの末期まつごの姿が浮かぶ。魔物の群れに飲み込まれる瞬間。数刻前のことだ。その時に生じた心の動揺は、未だに消えないどころか、却って大きくなった。

 高々魔導具一つ。然れど無慈悲なる魔女アデレイドが作り出した逸品。魔物に備えよと渡そうとした魔道具であれば、常宿の気の良い夫婦も、斥候を務める中堅ルーカスの姪たちも、後衛の若き弓使いレオンの育ての親も死なずに済んだ可能性は高い。

 背中に佩いた愛用の両手剣グレートソードが奇妙なほど重く感じる。悔恨が押し寄せる。フランクの顔に暗い影が差す。


 スティーブが察して会話の流れを変えた。


「王都の冒険者組合本部からの指名依頼はこの城塞都市を防衛することではなかった筈」


 住人を守護するべきは、城塞都市の首長であって、指名依頼中の冒険者ではない。偶然居合わせただけの禍中において何事か出来たと決めつけることは、生き残った者たちの傲慢さに過ぎない。

 確かに古参の冒険者ならば、今回と同様の魔物氾濫に不意遭遇しても生き残るに違いない。しかし、勇者や聖女でもない普通の冒険者が魔物氾濫から全ての住人を救えるのだろうか。答えるまでもない。冒険者一党の頭目であれば、逃げの一手など骨の髄まで染み込んでいる。フランクは何も応えずに耳を傾ける。


「……」


 思い返せば、今回、王都の冒険者組合本部からの指名依頼を軽い気持ちで受けた。仕事は迷宮の保全状況の確認であった。その仕事のため、王国全土から経験豊富な冒険者たちが集められていた。彼らは直ぐに責任範囲の見回りを終え、見回りの後には故郷の知人たちを訪ね、旧交を温めていた。南方辺境とは異なる泉質の温泉も久々に楽しんだ。浮かれていた事は否めない。


「繰り返しになりますが、フランクさんたちは都市防衛を依頼されていた訳でもありません。気に病むことではないですよ」


 スティーブは出来もしなかったことを後悔するなど愚の骨頂と暗に指摘した。


「冷酷無情」とハロルドが珍しく不快感を表明する。


「これは生まれつきですので」


 フランクは、今此の時に、自分自身の過誤に向き合うべきではないことは判っている。しかし、知人を救えた機会を逃していたことは確かだ。苦い思いに押され、口を衝いて出た言葉が——


「神々を凌駕する力を以て為せないことは何一つないだろ?」

 

 無慈悲なる魔女アデレイドが余りにも身近な存在であるが故に、縋り付いてしまうのも宜なるかな。古参の冒険者であっても普通の人々と変わらず、心に弱さを抱えている。理不尽な要求と分かっているが言わずにはいられない。

 今世の勇者も聖女も三条みすじの迷宮で斃れたままで、神々は後任を定める神託を下ろしていない。この世の理を捩じ伏せ従わせる力ある者として思い浮かぶのが、魔女の娘たちというのは、南方の辺境開拓地の冒険者ならではであろう。


「人の世のことは人の力で解決すべきなのでしょう」


 正教会の司祭が深淵の娘にして無慈悲なる魔女の意嚮を騙るべきでは無いが、スティーブはアデレイドの意図を正確に汲んでいた。


「こんな馬鹿げた規模の魔物氾濫でもか?」


 暗い金髪の古参冒険者フランクが睨みつける。


鹿魔物氾濫だからこそです。愚か者は何処にでもいます」


 青髪の司祭スティーブは飄々と受け流す。


 魔物の呻き声が未だに響き渡る。神々に愛された人々の名残に憎しみを滾らせる魔物は廃教会から離れることなく徘徊している。埃臭い空間に漏れ入る数本の光の筋が遮られては差し込む。空気に粘りつくような死の気配が漂う中、フランクの呻く様な言葉が重苦しい沈黙を破る。


「……煉獄の迷宮と同じなのか?」と彼は思いついた結論を吐き出した。


「切っ掛けは同じと言えます。ですが、状況はより一層酷いものです」


 スティーブがやや渋い表情ながらも努めて冷静に返す。


 過日、南方の冒険者一の伊達男ジェームスが暴いた三〇年前の魔物氾濫の真相。其れは南方辺境の冒険者組合の冒険者たちの記憶に新しい。東方公爵領を襲った魔物氾濫もまた外法によって齎された人災であった。

 当時、諸事情により結界石の敷設が遅れていた西方域の複数の都市は壊滅したが、神聖結界が起動していた西方城塞都市の守りは破られることは無かった。しかし、今回の魔物氾濫では此の城塞都市の神聖結界は呆気なく突破された。


「詳細求む」とハロルド。


「巨大な迷宮核が地上に出現しています」


 余りの異常事態に古参の冒険者二人フランクとハロルドは目を剥いた。彼らが二の句を継ぐことができない。青髪の司祭スティーブは一呼吸置いて、湧き上がる苛立ちを抑え込み、城塞都市が魔物の群れに飲み込まれた直接的な原因に言い及んだ。


「この城塞都市の神聖結界魔物除けは巨大な迷宮核の影響を受けて霧散しました」


「いやいや。ここには大聖堂があるだろ」とフランクが言えば、「管理者が不在では神聖結界を張り直すなど不可能です」とスティーブが被せるように応える。


 今回は、不幸な偶然が重なったと言うべきか、或いは愚か者の共演と言うべきか、正教会の内紛が最悪の時機に重なり、城塞都市の神聖結界の要となる大司教位が空席となっていた。

 城塞都市の神聖結界は、都市に設置された多数の結界石や神紋を組合せた巨大な装置であり、多くの聖職者が恒常的に維持・管理している。当然ながら管理者以外が勝手に起動したり停止したりできるような類のものではない。大司教による神儀が適宜必要なのだ。信仰心の篤い者が祈りを用いて僅かな時間だけ奇跡を顕現させれば済むという類でもない。それ故、巨大な迷宮核の影響で弱体化した神聖結界を復旧させることができなかった。


「一体全体、何をやってるんだッ!」とフランクの言葉に怒気が篭る。


 スティーブは呆れながら半眼でフランクを見詰める。正教会の司祭といえども正教会の上層部の愚行に責任を負う必要もない。怒りの矛先を向けられてもスティーブは鼻白むばかりだ。難癖であることをフランクとて百も承知なのだが、込み上げる怒りの行き場の無さに思わず怒声をあげてしまった。


 怒気を放つことで冷静になったのか、フランクはスティーブから視線を外して、天井を見上げる。


「巡り合わせが悪い……」


「運否天賦」とハロルドが腕を組んで難しい表情を浮かべた。


「全く残念です」とスティーブも同意する。


「残念です、か……」と今まで黙っていたルーカスが口を開いた。


 古参の冒険者二人フランクとハロルドはルーカスに視線を向けた。フランクの真後ろの二席を空けて、ルーカスは座っている。彼は半刻ほど前の事件を繰り返し思い出しては後悔に押し潰されそうになっていた。


「あの状況なら助けられましたよ」


 金髪碧眼のルーカスは、疲れた様子ではあるが、座った姿勢は美しい。歴代の近衛隊長を輩出した一族の矜持か、絶望的な状況に置かれた今でも、優雅さと気品を漂わせている。彼が座る長椅子の右手側の端には、フランク一党の中で一番若いレオンが茫然自失で力無く座っている。彼の艶のある黑檀色の長髪も藍錆色の瞳も輝きを失ったかのようだ。普段に比べて一回り小さく弱々しく見える。


「いや、あれは——」とフランクが言わんとすることをスティーブが遮る。そして諭す様に言った。


「気持ちはわかります。ですが、既に手遅れでした」


 ルーカスは厳しい視線をスティーブに向けて応える。


「司祭様には分からないもしれませんが、あの程度の魔物であれば、道を開くことはできました」


 ルーカスの言葉に、フランクは苦い表情を浮かべ、ハロルドが瞑目する。スティーブは、レオンを一瞥してから、ルーカスに気乗りのしない表情を向けた。


「司祭故に判ることがあります」


 彼は憎まれ役を買って出たわけではない。司祭の役割として、死を受け入れられない者の痛みを引き受けるつもりでもない。ただ事実を告げるべく向き合う。


「刻読みの奇跡や看破の奇跡に大司教の位は不要です」


 教区司祭スティーブらしい回りくどさだが、彼の実力が高位の枢機卿位シングルの域に達している事実を伝えた。


「まさか……」とルーカスが露骨に表情を歪めた。彼の心に嫌悪が満ちる。大司教階位の奇跡を自在に行使できるのであれば、当然、浄化の奇跡で魔物を打倒するなど容易い。要するに、スティーブは敢えて子供たちを見捨てたということになる。


 ルーカスの耳底に叫び声が響く。


 鮮明な映像記憶が心に刺さる。彼は、フランクたちと共に定宿から避難する途中、魔物の小集団に取り囲まれた住人の一団に遭遇した。一党の誰よりも早く気付いた。彼は数人の子供たちと目があった。悲嘆と絶望の入り混じった表情で来る筈もない助けを求めて叫んでいた。

 すぐに騎兵刀サーベルを抜いて、魔物の小集団に向けて走り出そうとした拍子で、彼を制しする言葉が聞こえた。柔らかではあったが、誰にも否やを合わせぬ峻厳さを纏っていた。声の主を見れば、質素な司祭服に身を包んだ青髪の男が微かな笑みを湛えて、一党の頭目の近くに佇んでいた。


 嘗て中央王国騎兵団に所属していた頃、ルーカスは戦場において圧倒的な強者を前に臆することもなく兵刃を交えた。冒険者となってからは、迷宮主たる巨大な半人半牛ミノタウロスを相手取り、一歩も引くことなく向撃ったこともあった。それ程の胆力を誇る男が青髪の司祭の淡々とした言葉だけで静止させられた。

 歴戦の冒険者が南方辺境の開拓地の癒し手に気圧されるなど普通ではありえない。しかし、彼は得体の知れない圧迫感によって動きを封じられ、十数拍の後には、目前で子供たちが魔物の群れに呑み込まれる様子を眺める嵌めに陥った。


 その間、フランクは助けを求める避難民の一団に言い表し難い違和感を感じていた。行くべきか、退くべきか、判断を保留していた。スティーブの声掛けで冷静さを取り戻すと、其処から彼の行動は素早かった。的確に指示すると、彼の一党は難なく魔物の群れから逃れることができた。

 しかし、状況を説明する余裕はなく、ルーカスがフランクに不信感と鬱憤を溜める事になった。

 子供たちを犠牲にして古参の冒険者たちが逃げた様にしか見えないからだ。未だに騎士としてのルーカスの矜持が自分自身と仲間の不義を許さない。


 スティーブは、ルーカスの心情を推し量ることは出来ても、苦悩を思いやって慰めるつもりはない。彼らが遭遇する以前に子供たちは落命していたのだから、一党の頭目フランクの判断を非義非道と謗るのは筋違いだ。


「あれは擬態型の魔物ミミックです」


 スティーブは子供たちの哀れな姿も悲痛な叫びも魔物の擬態による撒き餌だったと指摘した。


「莫迦げてる」と即座にルーカスが反発する。


 宗教家特有の下手な言い訳など聞きたくも無かった。ルーカスは睨みつけるが、スティーブは莞爾として笑い応える。まるで無貌なる神の様だ。


「昔々、守護女神の瞳とも呼ばれていた看破の上位奇跡、それを使って確認しましたので間違いありません」


 そう言って神力を一瞬だけ解放した。瞬く間も無かったが、確かに高位の枢機卿の如き威風が放たれた。ルーカスには、目の前の青髪の男が世の理から外れた異形の様に感じられ、押し黙るしかなかった。


幻視型の魔物ドッペルゲンガーとも違います。人型は非常に珍しいのですが、あれは擬態型の魔物ミミックです。超高難易度迷宮の深層に出現します。聖杯などの聖遺物が深く関わっているため、正教会教皇庁が情報を秘匿しています。にとっては迷惑極まりないことです」


 スティーブが何やら得意げに禁秘事項を滔々と語り始めたが、ルーカスの耳には全く入らない。根本的な疑問がルーカスの心を捉えたからだ。


 青髪の男は、正教会の教区司祭であり、実力は高位の枢機卿に並ぶ。であるならば、信仰の地と呼ばれる城塞都市の住民を魔物氾濫の脅威から護って然るべきではないかと。それは実のところ素朴な疑問から程遠く、拒絶感による狐疑逡巡に過ぎなかった。

 慈悲深くあるべき司祭が厄災の始まりから弱者である城塞都市の住人を何故切り捨てたのか、騎士道精神に溢れたルーカスが思考を巡らせたところで、徹頭徹尾現実主義なスティーブの考えに辿りつくことはない。


 スティーブが禁秘事項を説いても素養が異なるため、ルーカスには胡説乱道な事由に聞こえてしまう。


「迷宮深層の擬態型の魔物ミミックは喰らった人の形を奪い——」


「やめてくれ!」とレオンが叫ぶ。


 無駄な疑問に気を取られていたルーカスがハッと気を取り直す。彼は素早く身を翻してレオンに近づき、肩を抱いて落ち着かせた。

 フランク、ハロルド、そしてスティーブは互いに顔を見合わせて頷く。レオンの心が落ち着くまで、彼らは暫しの沈黙を保った。


 やがてスティーブが再び口を開いた。


「フランクさんもハロルドさんも直ぐに気がつき退避を指示されたのです」


 今更何を言われようともルーカスとレオンの気分は最悪だ。彼ら二人の想いは変わらない。


 迷宮探索を続けていると、規模の大小の差はあるが、魔物氾濫に遭遇することは珍しくない。中堅の冒険者ならば緊急避難の備えを怠らない。故に生き延びることは容易い。

 だが冒険者ではない非戦闘員を帯同する場合はどうかと言えば、状況も結果も変わる。大規模な魔物氾濫の直後に非戦闘員の水と食糧を確保できる保証などない。後で見捨てるのであれば、今見過ごした方が未だマシだと言える。勇者や聖女では無いのだから先ずは共倒れを避けるべきだ。


「是非も無い……」とルーカスが呻くように言葉を吐き出した。


 彼が冷静になって思い返せば、自分の甘さが仲間を危険に晒した事実は動かし難い。フランクやハロルドのベテランたちの判断は、より素早く、より慎重であり、そして行動は沈着であった。学ぶべき事柄はまだまだ多い。騎士の誉など捨て去る頃合いかもしれない。


 スティーブは、ルーカスが落ち着きを取り戻したのを確認すると、次にレオンに視線を向けた。彼は未だに立ち直れていない。しかし状況は待ってくれない。この先の撤退行動を考えれば、戦力は一人でも多い方が良い。

 スティーブはレオンに断りなく癒しの祝詞を唱えた。癒しの奇跡は、心労や心傷を直接治すことはできないが、無駄ではない。一時凌ぎとは言え、生命力の上昇というのは存外馬鹿にできない。心も体の状態に強く影響を受けるからだ。レオンの様子も落ち着き始めたことを確認すると青髪の司祭スティーブが会話を再開した。


「然程間を置かずに第二波が迷宮核から溢れ出ます」


「御神託か?」とフランクが尋ねる。


「大抵、経験から推し量ることができるような事ばかりです。肝心な事は曖昧模糊としています」


「信心不足」とハロルド。


「そうかも知れません」とスティーブは平然と応える。


「やめだやめだ。文句言っても始まらねぇ」とフランクは脱線しそうなハロルドとスティーブの間に割って入る。


「で、この後はどうする?大人しく救援を待つ積もりか?」


 古参の冒険者の風格を取り戻したフランクの様子に安堵したのか、スティーブは口角を上げて応える。


「迷宮核に近づくことになりますが、水路を抜けて東海岸の港まで一気に大河を下りましょう」


 フランクは肯首しつつ、予測され得る厳しい現実を付け加えた。


「この先、水も食料も手に入り難くなる。移動は早いに越したことはない」


 河川の移動では、魔物から身を隠すことは出来ないが、速度と距離を稼ぐことは出来る。飛行型と水棲型の魔物は滅多に出会わない。魔物に見つかる可能性よりも水と食料不足を恐れるべきだ。そう考えるならば悪くない交換条件だ。




■神聖暦三三四年春季三ノ月五日 払暁


 フランクたちは、山間の城塞都市から河川交通の要所となる都市にまで移動していた。彼の予測に違わず河川周辺の街や村は例外なく荒廃していた。辛うじて残存していた造船所に陸揚げされた帆船を発見できた。フランクたちが帆船を掠取して大河を下ろうと準備している最中に彼らは魔物の群れに襲われた。


「古龍が迷宮核を守っていると思われます。何処に潜んでいるのか不明なのが実に厄介です」と言いながらスティーブが戦棍で侵入してきた魔物を横殴りに倒す。


「古龍だと!?」


 フランクは、両手剣を振り下ろし数体の魔物を纏めて斬り倒したが、スティーブの一言に一瞬だけ動きを止めた。魔物が次々に船渠の出入り口から雪崩込んでくる最中、他所見する暇は無い。ハロルドが手振りでフランクに戦闘を続けるように促す。

 フランクは両手剣を水平に構え直し、煩わしげに数歩前に進み出ると、切先が霞むような速さで後続の魔物を切り払う。


第一王女あの化け物でも無理じゃないか!」とフランク。


 今世の剣聖として名高く、大陸最強と呼ばれる中央王国第一王女アビゲイルを引き合いに出す。アデレイドの麾下の冒険者たちは、彼女の影響もあって、他の地域に比べると古龍に関する知識と経験をより多く共有している。

 神々から授かった力が大きいほど古龍の前では弱体化する。公知とは言い難いが、事実は事実である。そもそも古龍に遭遇することなど滅多に無い。遭遇した場合、生き残る可能性は無きに等しい。ここ数百年の間、王都の冒険者組合の記録書には、遠く離れた場所からの目撃証言が僅かながら残っている程度、古龍は凡そ架空の存在だ。


 瞑目したままで数体の魔物を近距離から射抜きつつ、「祀ろわぬ者」とハロルドが応える。この異常事態の対処法を唐突に且つ端的に言い及んだ。


「その通りです。真っ先に白金の翼クロエさんの一党を挙げるべきでしょう」


 南方の辺境開拓地の冒険者の中において、最強と名高いクロエ一党は、神々から見捨てられた祀ろわぬ者たちだけで構成されている。無慈悲なる魔女アデレイドが運営する孤児院で、彼女が手ずから育てた自慢の娘たちだ。

 彼女たちの装備品は、意匠が統一されており、真銀と神金を素材として造られた魔導具だ。彼女たちの実力も然ることながら、その見栄えの良さと装備の派手さで衆目を集める。残念なことに見た目の美麗さとは裏腹に、恐るべき戦闘狂の集団として、大陸中の冒険者たちの間で知らぬ者などいない。彼女たちは魔物を狩ることが生きることであると言わんばかりの日々を送っている。


 そうしてスティーブは、機嫌良く応じて、ハロルドの意見に賛同を示した。


「……」


 ハロルドは、スティーブの返しに追従する事も無く、黙々と魔物に矢を射かけている。ハロルドは乱戦に在って視覚を使わずに弓射する。敵は名状し難い魔物。その形状は描出に能わず。急所は見極め難く、常人に的中は不可能。狩猟の神から授けられた心眼を頼りにハロルドは魔力密度の違いを感知する。心眼で狙いを絞り、矢を次々に的中させてはいるが、やや精細を欠き始めた。


「悉く、正教会にとって、不愉快、極まりない、事態だな」とフランクが魔物を斬り倒す度に言葉を区切りながらスティーブに応える。彼の息も上がってきていた。


「教条主義者には良薬です」


 古参の冒険者二人フランクとハロルドの動きを阻害しないように気を配りながら、回復の奇跡を祝詞無しに発動させて、動きの鈍ってきた二人を支援する。即席ではあるが、彼らの連携は上手く行っている。

 余裕とまでは言えないが、少なくとも三人の体力と気力と魔力が維持できている内に、魔物の襲撃を耐え凌ぎ、逃走の算段が整うだろう。


「それならカネヒラ達の方が適任だ」


 フランクは、袈裟斬りで二体まとめて魔物を切り伏せるが、勢いが余って体勢を崩しかけた。ぐっと踏みとどまると、彼の隙を突いて飛びかかってきた魔物を両手剣の返しで切り上げる。


「冒険者を舐めんな!」とフランクは叫ぶ。


 迷宮遭難救助隊サルベージャーズの頭目は若いキースであるが、フランクは一党の要が同世代のカネヒラと考えていた。辺境開拓地の冒険者組合の顔役であり、総合力の高い実力者でもある。とりわけ祀ろわぬ者として、教皇庁には悪名が轟いている。正教会への意趣返しには全く相応しい。


「仰る通りですが……」


 スティーブは、胡散臭い盗掘者トレハンのカネヒラに纏められた一党の面々を思い出す。カネヒラを除けば、彼らは世界の理から外れたような存在であるから、古龍と迷宮核を同時に消滅させることを容易に成し遂げよう。問題は過程である。東方域が居住不可な状態に成りかねないのだ。冒険者組合長アデレイドは、カネヒラとドロシア=エレノアの二人組だけは古龍と直接対峙させることは避けるべきだと、青髪の司祭に明言していた。

 実際、キース一党は東方域から遠く離れた遺跡探索に深緑の大司教ヒルデガルドの護衛として参加させられている。また虚空の娘ドノシア=エレノアは、一党から外され、天空の彼方で大陸全体を見守るように深淵の娘アデレイドから言いつけられていた。


「彼らは枠外です。敢えて加えるなら——」


「ドナルドたちだ」とフランクは言葉を被せた。


 腕に覚えがあるフランクはドナルドにも負けないという自負がある。しかし、神々の恩寵に未だ与っている故に、古龍戦では役立たずだと感じずにはいられない。スティーブはそんな複雑な想いを受け止める。


「古龍単体であれば倒すことは可能でしょう。ですが、迷宮核が古龍の側に存在することが、実に厄介なのです」


 忸怩たる思いに浸られても面倒と感じたのか、祝詞を唱える事なく戦意昂揚の奇跡を発動する。二人の古参冒険者と自分自身の感情を昂らせると、対古龍戦について話を続けた。


「先ずは迷宮核の無力化が優先事項です。基本的には術者による解呪で対処可能。ですが、迷宮核に可成り接近しなければなりません」


「言わずもがなだ」


「はい。神々の祝福を得た者では、古龍の根源力に抑え込まれて、解呪の発動は不可能です」


「無理難題にも程があるが——」


 しかし、フランクは一人の少女の顔を思い浮かべ喜悦する。


「そう言うことです」


 この世界で唯一無二の存在。神々の祝福も恩寵も持たない人の身でありながら、魔女の娘たちの如く魔術を自在に行使する無愛想な少女のことを。無慈悲なる魔女の愛弟子にして祀ろわぬ者たる魔術師ミーアを思い浮べた。

 今後の古龍との戦闘に於いて、南方の辺境開拓地の冒険者組合の勝利は揺るがない。スティーブとフランクはそう確信した。


 そうは言っても目前の魔物を片付けることが彼らの喫緊のであろう。既に五十体以上は屠ったが、依然として勢いは弱まらない。


「これでは切りがありません」


「ルーカス!レオン!まだかッ?」


「あと二つ!」と船渠の奥から返事が聞こえた。帆船の台車から杭留めを外す作業を一党の若者二人ルーカスとレオンが受け持っていた。


「おう!!」とフランクは応えて、両手剣の柄を握り直す。重心を落とし魔物に強い視線を向ける。


「私の神聖結界が悪目立ちしたようですね」


 スティーブが苦笑する。彼の神聖結界魔物除けの動きを古龍に感知されていることを察した。古龍は生者に与えられた神力を取り分け憎む。魔素を遮断する領域が不自然に動いてるのであれば、生者の気配を遮断していようとも、神々に祝福された存在が逃れようとしているのは明らかだ。古龍が纏まった魔物を差し向けるのも当然のことだ。


「仕方ありません」


 スティーブは背嚢にぶら下げた擲弾筒を手に取る。続けて腰ベルトに吊るした雑嚢から擲弾を取り出すと手慣れた様子で込めた。


「少し、深めに入ります」


 そう言い残すと魔物の群れに向かって走りだす。彼は、敵対者から姿を消すことの出来る"隠者の結界"と魔物が忌避する"浄化の奇跡"を発動。魔物の群れを押し開きながら、集団の奥へと突き進む。


「一切承知」


 ハロルドがスティーブの背に向けて応える。入れ替わるように侵入してきた魔物に向かって矢を連射。次々に射止めてゆく。

 

 やがて魔物の群れの攻撃的な咆哮や唸り声に混じって、小気味の良い炸裂音が三回連続して響いた。スティーブの擲弾筒から特殊な擲弾が魔物の集団の中に撃ち込まれる。

 十数拍の後、異変が生じた。天が青白く焼け、遅れて轟音が響きわたる。魔物たちが一斉に天を仰ぎ見る。その隙をついて、スティーブが船渠の中に駆け戻り、大声で叫んだ。


 「奥にッ!奥に退避ッ!!」


 スティーブが転がるようにして勢いを殺し、振り返って出入り口向けて青い玉を放り投げると、叫ぶように祝詞を唱え始めた。


「偉大なる神々に希う。聖なる威光により禍い消除せられることを渇仰せん。我が元に神威を顕現せしめんことをッ!」


 スティーブは出入り口に向けて立ちはだかるように両手を広げると、神聖結界が出現した。通常は目で見えるような物ではないが、光を歪ませる程度には、分厚く、誰の目にも実在として認識できた。


「スティーブ!何をしたッ!?」


「善き神々の力に夢中な古龍に魔女の娘の苛烈な一撃を御見舞いします」


「何だと?」


「まあ、直ぐにわかりますよ」


 次の瞬間、猛烈な閃光と爆風がスティーブが張り巡らした神聖結界を襲う。大地が波打つ。スティーブもフランクもよろけて倒れそうになるも何とか留まる。しかし爆音と衝撃がその後二回続くと二人は地面に転がった。


 噴煙のような砂埃が舞い、地鳴りが響く中、空中に巻き上げられた岩や木々の破片がバラバラと落ちてくる。轟々と巻き上がる吹き付ける風の音が耳を弄する。


 やがて周囲が静まれば魔物の気配は掻き消えていた。


「恐らく一掃できたでしょう」と神聖結界の向こう側を油断なく見つめながら言った。


「説明求む」とハロルド。


 剃り上げた頭を右手でぐるりと拭うような仕草で、困ったような視線をスティーブに向けた。青髪の司祭の様子がおかしい。気を失いかけ、体勢を崩した。


「おい。スティーブ。しっかりしろ!」


 フランクが声を掛けて数歩だけ歩み寄る。スティーブはよろけたが倒れはしなかった。


「一息つかせてください。神聖結界を展開するのに力を使い過ぎました」


 そう言いながらその場に胡座をかく。


「奇跡は神々に祈りを捧げるだけじゃないのか?」


「奇跡も魔術ですよ」


 青髪の司祭は半笑いで応える。


「邪宗異端」


「勘弁してやれよ。……水薬でも飲みながら話せ」


「ええ、そうさせていただきます」


 フランクが雑嚢から水薬を取り出して渡すと、スティーブは魔力を回復すべく一気に呷る。一息ついた頃に船渠の奥から声が届いた。


「フランク!最後の杭を外すぞ!!」


「おお!やってくれ!!」と大声でフランクが応えた。


 木材と石材の擦れる音が響く。彼らの目前に航長六カーネほどの帆船が船渠の奥から艝に載せられた状態で滑り下りて来た。

 水面を割る大音と共に黒い船体が水面に浮かぶ。押し除けられた水が波となって岸壁で弾けて水飛沫が飛ぶ。波が収まり帆船が安定すると、甲板にルーカスとレオンが姿を見せた。二人が船上から合図を送ると、ハロルドは直ぐに水門の開閉装置に向かった。


「開閉装置が無事ならば良いのですが……。さて船渠の外に出ましょうか。直に見た方が早いでしょう」




■神聖暦三三四年春季三ノ月五日 朝景色


 フランクとスティーブは連れ立って船渠の外に出たが、フランクの方は戸外の様子に眉を顰めた。


「酷い有様だ。地形が変わってるじゃねぇか」と呆れる。


流星撃オルティレリーです」と平然として応える。


「魔導士の真似事か?」


虚空の娘にして魔女の娘ドロシア=エレノアによる攻撃です」


 そう言いながらスティーブは天空を指差して言葉を続ける。


「擲弾筒とあの擲弾はカネヒラさんが貸与してくれました」


 スティーブは擲弾を用いて攻撃対象を指示し、今も天空から迷宮核周辺を見張っている虚空の娘ドロシア=エレノアに魔物の群れを攻撃させたことを説明した。


「なあ、スティーブさんよ。魔女の娘ってのは、人の世に関わらない筈だろ?」


「凡そ、その通りです。ですが、魔女の娘たちはこの世界をこよなく愛しています。この世界がを憎み、人々を滅ぼそうとする古龍と敵対するのは道理と言えます」


「なるほどね。まあ、知らない仲でもないしな」


「ところでだ。古龍がこの世を憎んでいるなんて話は初耳なんだが、正教会の禁秘事項じゃないよな?」


「近々、世の終わりが訪れるかもしれません。知っていて損はないですよ」


「知ったところで何になるんだ」


「本来、この世界に古龍など存在しません。記録され始めたのは五百年ほど前からです。神代の時代の記録を紐解いても記述が一切ありません。竜種といえば、魚竜、翼竜、それに地竜。化石も残っています。ですが、古龍の骨や化石は何処にも存在しません」


 青髪の司祭はしたり顔で解説しているが、そもそも古龍は生物であるかすら怪しい。


「この世を喰らう為。古龍は現世の理の綻びから顕現すると言われて——、ああ、船が出てきました」


 帆船が船渠から舳先を向けて姿を現した。先ほどの衝撃は水門の開閉には影響がなかったらしい。船首甲板にハロルドが居る。河岸のフランクとスティーブを認めると、合図を出して、舷側を寄せるように舵輪を握るリオンに指示を出す。

 虚空の娘ドロシア=エレノアの爆撃が、魔物の集団も消し飛ばすだけに留まらず、船渠周辺の地形を一変した。河川の流れは大きく乱れ、上流下流見渡す限り、濁流の如く逆巻き波立っている。しかし、ハロルドたちを乗せた黒い船体は、荒狂う流れを物ともせずにフランクとスティーブが立っている岸壁に舷側を寄せる。直ぐにフランクがドッと勢いをつけて帆船に飛び移る。続けてスティーブが浮遊の奇跡を使って乗り込んだ。大きく上下に揺れて現状あまり乗り心地は良いとは言えない。


「便利だな」


「歩くより疲れます」


 フランクは揺れに抗するように重心を落としているが、スティーブは浮遊の奇跡を維持したまま、帆船の揺れを相殺する。


「そりゃそうよ」


 フランクは呆れと感心の入り混じりた表情を浮かべると、甲板から浮いた状態の司祭服から視線を外し、船尾で舵輪を握るレオンの様子を伺った。青髪の司祭もそちらに顔を向ければ、レオンが大河の長濤うねりを先読みして慎重に帆船を操っていた。


「この先もレオンさんに操舵を任されるのですか?」


「ハロルドよりだ」とフランクは頷き、相棒に目配せするも、「不満表明」と禿頭スキンヘッドの相棒は遺憾の意を表明する。


 ハロルドは相棒のフランクの発言に瞠目した。スティーブも意外な発言に面食らう。役割が違うのではないかと疑問に思う。


「嚢中之錐」とハロルドは不満を表明する。


 ハロルドが操船に長けていることは、南方の辺境開拓地の冒険者の間では周知の事実だ。今更、技能有りと主張するまでもない。


「帆はルーカスだ」とフランクは取り合わない。


 ハロルドは年若い仲間二人の動きを羨ましそうに目で追っている。


「俺は水の魔物。ハロルドは空の魔物。良いか?」


 納得していない様子のハロルドは渋々弓を構え、船首に移動して羽つきの魔物を警戒する。


「お二人は近接戦闘向きですよね」


「いやこれでいいのさ」

 

 フランクは肩を竦め船尾に移動する。少し血の気が引いて緊張して舵輪を握る若者の背中を軽く叩いた。


「風向きは上流。操舵に加えて上手回しが必要。成程、そういうことですか」とスティーブが納得する。


 ルーカスとレオンが、河岸に避難民の集団を見咎めないとは限らない。彼ら二人に舵と帆の操作を任せておけば、余計な物事に目を奪われることはないであろう。年長者の気配りだ。操船技術を磨かせるにも良い機会になる。


 大河を下り始めてから直ぐの事だ。左舷やや後方に強烈な光の柱が立った。地上から瞬時に伸びて、雲を散らし、天空を裂き、大気を押し除けた。天空の深淵が顔を覗かせた。


「来ます!!」


 スティーブが状況を瞬時に理解して祝詞を唱えずに神聖結界を発動する。だが僅かに遅い。衝撃波が帆船を襲った。帆が引き裂かれ、帆柱が圧し折られた。同時に耳を聾するほどの轟音が響き渡った。船体ごと空中に飛ばさんばかりの大波に攫われる。船上の冒険者たちは、身構える間も無く、甲板の上で倒れ転がる。呆気に取られ、為す術が無い程に翻弄される。しかし、結界のお陰で帆船から放り出されることも、また帆船自体が転覆することもなかった。


「何なんだッ!?」


「電光雷轟」


「古龍の咆哮攻撃ブレス——」


 青髪の司祭が原因に言い及んだ瞬間、喜悦を含んだ声が聞こえた。


『見つけた』


 間髪入れずに無数の漆黒の槍が天空から降り注ぐ。光柱が立ち昇った場所を目掛けて。着弾地点からは無数の土煙が立ち上る。遅れて連続した不快な破裂音が彼らの耳にも届いた。


「古龍が捕捉されたようですね」


「鳴かずば雉も撃たれまい、って事か?」


「驕慢放縦」


 赤銅髭の古参冒険者ハロルドの言葉に青髪の司祭スティーブは肩を竦めた。古龍は傲慢かも知れないが愚かでは無い。その知恵と力は現世うつせの理を外れる存在。咆哮攻撃は全てを灰燼に帰する威力を有している。目論見が外れて逆襲されたのは、油断だったのかも知れないが、相手が悪過ぎた。

 反射的に魔女の娘に反撃したことで古龍は現世うつせに存在を一時的に固着させられた。それがいつまで続くのか判然とはしないが、冒険者たちにとっては、古龍討伐の亦と無い機会である。


「隠り世から切り離されたのであれば後は力押しでもやれるでしょうね……」


 天空を見上げながら青髪の司祭スティーブは小さく呟いた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る