第25話 予兆
正教会で厳重に保管されていた呪物が失せた。発端は一人の若者の自分勝手な行いであった。下世話で陳腐な痴話。色恋沙汰の絡れ。金に糸目をつけずに奪い取った呪物を利用して恋敵を消そうと企てた。
■東門の監視塔から
「王都の大聖堂でもこの程度か。こんなもんでクソッタレな人生からオサラバとはな」と初老の男が言った。
彼は、若い頃は希望に溢れる冒険者であったが、夢破れて盗賊の真似事で口を糊していた。そんな男に巡ってきた
不調法な吟遊詩人が初老の盗賊に語る。
「聖騎士団が不在なんて普通じゃあり得ない。アンタは運がいい」
「運がいいだって?」
初老の盗賊は気色ばむ。彼は不機嫌さを隠すこともない。陳腐な決まり文句に眉を曇らすほどでもないだろうと吟遊詩人は半ば呆れてため息を漏らす。初老の盗賊の人生は不運と踊る単調な舞曲のようなものなのだろう。暫し押し黙り、互いに湧き立った不快感が心の奥底に深く沈み込むのを待った。やがて沈黙を拭うように口を開く。
「人生の結論は死ぬ瞬間までわからんものさ」
「どうだかな」
初老の盗賊は、とどのつまり彼の人生と同じ、今回も思わしくない結果になるのだろうと訝しんでいる。不調法な吟遊詩人が初老の盗賊の人生を慮るも返す言葉は月並みだ。そもそも不運でつまらない人生など珍しくもない。
「まあ、そんなに警戒しなさんな。互いに契約に縛られているんだ。金を受け取った後は俺たちは客のことを忘れる」
「オレも貴様も客も神々もロクデナシだ。誰の何を信じろと」
「そんなに苛つくことじゃないさ」
「いつもと同じだ。イラついちゃいねぇ」
初老の盗賊が不機嫌なのはいつものことだと、不調法な吟遊詩人は肩をすくめる。
「吟遊詩人なんてのは他人様の生き様を出来の悪い冗談だと思ってる。でもアンタは違うな」
「違わないぜ。割を食うのはいつも同じだ。誰かが美味い酒を飲み、誰かがイイ女を抱く。そいつはオレじゃない」
「次はアンタの番さ。今夜その証を手に入れたじゃないか」
「心にも無いことを語るんじゃねぇ」
吟遊詩人は影を含んだような笑顔を浮かべる。そして、この意固地で人生の一瞬を楽しめない初老の盗賊に語る。
「吟遊詩人は心にある事だけを語るものさ。さあ退屈な夢の時間は終わりにしようや。夜明けも近い」
「長い長い悪い夢だ」
王都の東門から馬に乗った二人が東の街道へと向かう。客は約束通りに不寝番の衛兵たちに話を通していた。衛兵たちは何もせず、遠ざかる二人の男たちをずっと眺めるだけだ。遠くの森から山猫の唸り鳴く声が二人の耳にも届いていたが、やがて吹き始めた風の中に掻き消えた。
■街灯の下で
それはほんの少しだけ昔のこと。彼女は王都の魔術学園の
「あの灯籠の前で再び……」と不意に言葉が漏れた。
彼女は彼をとても愛していた。そう、二人は、とても愛し合っていた。その筈であった。
「
彼女は、忌々し女の顔を思い浮かべながら石床に魔法陣を刻む。
「愛しさは厭わしいほど重い」
彼女の恋人は、彼女の両腕から擦抜け、今宵もあの忌々しい女と身体を重ねている。だけど、本当に心が通じ合っているのは、自分なのだと、気持ちを強く保つ。それでも時が経つほどに繋がりが希薄になって行くのを感じてしまう。彼女が優秀な魔術師だから明確に感じ取れてしまうのだ。
最早、猶予はない。彼女は、待つべき時は過ぎ去り、前に進むべき季節が訪れたと、自身を鼓舞した。あらゆる手管を通じて外法を手に入れた。その力を用いて恋人を取り戻さねばならない。
「神々だって私と貴方を羨むだろう」
さあ忌々しい女を葬ろう。神々が羨むほどの愛であれば、全てが許される。そうして彼女と彼の愛は至高にして不滅となり得るのだ。
「私たちが灯籠の傍らで互いの温もりを感じる季節が再び訪れる。私と貴方がそうであったように。そう再び……」
彼女は自身の血を満たした杯を魔法陣の中央に据える。禁呪を唱えて、設置型の罠を設える。彼女は秘密裏に入手した迷宮の地図と脱出の宝珠を使うことで、未攻略の高難度迷宮に罠を仕掛ける事に成功した。
「懲罰房か……」
無事に迷宮を抜けて、ほっと一息ついたところで、そういえばと彼女は思い出す。脱柵は営倉行きだと。魔術師師団に原隊復帰すれば、最低でも5日は懲罰房で監禁状態。でもお父様は私には甘いから3日程度かもしれない。
『すぐに逢えるさ』
彼女の愛しい恋人の声が谺する。直ぐに逢える筈だった。だから彼女は暫しの別れを告げた。唇を噛む。愛しき彼と一緒に行きたかったと。
「
彼女は事前に準備していた拠点に向ってゆっくりと歩き始めた。そこで一晩すごしたら魔術師団に復帰しよう。時間をかけて仕込みは済ませた。後は待つばかりだ。
拠点に着いた彼女は簡単に身を清めてから簡素な寝台に身を横たえる。目を閉じれば、彼の優雅な歩き方が眼に浮かぶ。忘れられるはずもない。毎夜焦がれる想い。だが何者でもない誰かの声が踏み躙る。
『彼はとっくに私を忘れている』
■最後の刻
外なる神を祀る祠。名状し難き彫像を前に佇む男は正教会の枢機卿の衣装を纏っている。
「壁に
この世界の神々など実在しない。男は捏造だと呟いた。それは幼少期から変わらない信念。彼は正教会の教える神々のことを寸毫の如く軽んじてきた。教義に精通し奇跡を為そうとも、また宗教家として世人の尊敬を集め名声を得た今も変わらない。政争に巻き込まれて身に危険が迫る中に在って神々に恨み言を吐かない辺り一貫している。
彼が彫像に親しげに語りかければ、無貌なる修道士が突然姿を現した。薄汚れた古臭い黒い修道服。大きい頭巾で頭部が覆われ顔は見えない。声音と背格好から、幼少期からの真なる友だと彼には分かった。
「終わりだ。素晴らしい友よ。直ぐに終末が訪れる」
彼は応える。
「唯一にして真なる友よ」
孤独な彼に影のよう寄り添っていた無貌なる修道士は断言する。
「手の込んだ我等の計画は終わった。余すこと無く全てを終えよう」
彼は肯首する。
「安堵も驚きもない。実にあっけないものだ。最早終わりなのか?」
「そうだ。私が君の瞳を見つめる事はもうないだろう」
彼は虚空で粧しつけたような顔だ。嘗て野心に満ち溢れ傲慢さと不遜に満ちた瞳は失われて久しい。
「君は心の底で感じていたはずだ」
彼は公爵に見限られた。権謀術数に秀でていても、其れは狭く限られた宗教権威に於いての事に過ぎず、世俗の権力には敵わなかった。
「これからどうなるか想像できるかい?」
無貌なる修道士は楽しげに語る。
「どこまでも無限で自由だが見知らぬ異世界人の助けがどうしても必要になる絶望的な国になるのさ」
なるほど、権勢を誇る公爵の一族の栄華も泡沫の如く、消え去るであろう。そう思えば、僅かばかりの慰めになる。しかし暗く狭い祠に追い詰められた惨めな己を思えば、その慰めすら煩わしく感じた。
「意趣返しすら儘ならぬとは……」
唇を噛む。益体無い事だ。心乱される程に公爵や公爵が乗り換えたであろう下位の枢機卿たちの勝ち誇った面差しが浮かぶ。
「不敵で生意気な君は何処に消えた?」
嘲笑を含ませ、無貌なる修道士が尋ねる。
「大いに勝ち誇るべきは君だ。其処は暗く沈んだ世界。それが君は望んだ世界だろ?」
「唯一にして真なる友よ。こんな私が勝ったと言ってくれるのか?」
「人は年老いると、どうにも気弱になる。君とて例外ではないとは実に嘆かわしい」
無貌なる修道士は芝居掛かった大袈裟な動作で落胆を伝える。昔から変わらない。
「では教えよう。君の勝利と終わりの時を語って聞かせようじゃないか」
この世界に限らず逆しまなる事など珍しくもない。無貌なる修道士が滔々と詠い上げる。
「あの小娘に呪物を見せつけてやったのは誰か?」
「呪物を守る聖騎士団を大聖堂から離れさせたのは誰か?」
「公爵領の未到の迷宮に人を送ったのは誰か?」
「
彼は、無貌なる修道士の問いかけに沈思黙考し、ぼそりと答えた。
「私だ」
「そう君だ」
無貌なる修道士が言い含める様に続ける。
「あの小娘の欲望に火を点ける前、君は公爵に切り捨てられることを見越していたのか?」
「あの聖騎士団の間抜けどもを東方ではなく南方に送り出したと同時に、君はこの祠に辿り着くことを欲したのか?」
「あのエミリー・ローレンを死地に追いやった後、君はこの祠の中で私に会えると歓喜したのか?」
「あの浅ましい
「君にどれ程の利があったのか冷静に考えてみてくれ。何れも此れも君の身を危難に晒すだけで、理に適うような行いでは無かろう?」
過去の目論見や決断が、今この瞬間を、あるいは数拍先の未来を決めるなどと一体誰が定めたのだと、無貌なる修道士が問い糺す。
彼が顧みれば、何故、そうしたのか分からない。如何なる過去があろうとも決まりきった未来が現れる。運命と呼ぶものもいる。途中、幾万もの筋道があろうとも、お構い無しだ。
「因果が逆しまなことだ」
「因縁生起に依って有為は生じる。君の間違いは時が一方向に流れると思い込んでいることなのだよ」
嗤笑が祠に充ちる。現世の理を嘲弄が如く。無貌の修道士は深淵を湛え、粘りつくような見えざる嘲笑いを浮べてこの世界の神々に対し勝ち誇る。
「この祠に満ちた君かの公爵への復讐心が過去の行為を律したのさ」
未だ来たらぬ刻が過ぎ去りし由縁を予め定めたと断言する。矛盾は何も無い。時は流れ無いのだから。
「嗚呼、私は既に復讐を果たしていたのか?」
「さあ、各々の瞬間を思い出すのだ。君は全てを理解していた筈だ」
彼は、他の枢機卿にまんまと踊らされたように振る舞い、相手を見事に唆した。そう呪物を求めさせた。神聖騎士団を王都から遠征させて盗ませる段取りを整えた。魔物氾濫を公爵領の名もなき未踏の迷宮で発生させる準備を整えた。彼の行いは全て辻褄があった。無貌なる修道士は満足したように頷く。
「最高の仕返しさ。君が仕掛けたことは誰も知らない。誰にも見破れない」
重苦しい旋律が耳の底で唸るように聞こえる。
「子供たちは苦痛に満ちた荒れ地で迷い正気を失う。皆正気を失って癒しの時雨を待ち侘びる」
詠うように無貌なる修道士は続ける。
「領境の未到の迷宮から不気味な光景が広がっているだろう?」
「ああ、見えるとも。溢れかえる魔物の群れが黒く強大な蛇の如く連なっている」
「きみを蔑ろにした公爵も教皇も滅びるのだ。蛇は西へ西へと進む。ミットヘンメルの王都へ。王都が浮かぶ湖に向かう。それは古代に神々と人が約定を交わした聖なる湖」
無貌なる修道士は、祠の出入り口を指差し、すっと姿を消した。
「私も蛇に乗るのだ」
彼も続けてそう言うと豪奢な枢機卿の衣装をその場に残して姿を消した。
■中途覚醒
懊悩煩悶も過ぎれば、魂魄に歪みが生じて、人は幻覚や妄想に呑まれてしまう。
『貴女は私の仲間で
真夜中。突然のノックの音に心臓が跳ね上がる。外法を操る女バリクィース・コーニアは唐突に目を醒ました。
「幻聴か……」
彼女はそう呟くと枕元の魔石燈の光を少しだけ強めた。いつもの船長室だと理解すると、身体の強張りがスッと抜ける。
「悪い夢だ」
彼女は、仰向けになり天井を見つめ、海の墓標に漂った後に見せられた夢を思い返す。夢の中、彼女は丘陵地から見下ろすように巨大な迷宮核を漠として眺めていた。迷宮核の直上に暗雲が垂れ込めていて、その周囲には名状し難い魔物が溢れ返っていた。
「ここからそう遠くない場所だろう……」
バリクィース・コーニアの艶やかな唇から呻くように言葉が漏れた。ミットヘンメル中央王国の真珠と謳われた港町に彼女の商船は停泊している。東方の島国への長期航海に向けて補給のために寄港した。いよいよ明日出航となる最後の夜に彼女は嫌な夢を見せられた。珍しく寝汗をかいている。やたらと現実感のある夢。其処では第三者からの視点で自分の姿が映し出されていた。
子供の頃から時々経験してきた未来視のようなものであり、彼女は其れによって専ら自らの行為が関わって生じる未来の事柄を予知することができた。
「私に抜かりは無いが……」
ミットヘンメル中央王国の西方域侵略を企てたペルシアハル帝国の為に用意した呪物は、彼女がすべて創り出した。無闇に起動させると、世界の崩壊を招き兼ねない物騒な代物だが、使う時と場所に応じて調整した物であれば目的外では発動しない。彼女は細心の注意を払って術式を構築していた。
「いや、そうか……」と呟くと溜め息が漏れた。
西方貴族連合があっさり崩壊した所為で、彼女は呪物を回収する暇がなかった。そこで一族の掟を思い出して居心地の悪さを感じる。
「今更、一族の掟に何の意味があるか。誰一人として生き残っていないだろう……」
バリクィースは、西方域の動乱後に人をやって調べさせた事だが、未発動の呪物も使用済みの残骸も全て、ミットヘンメル中央王国の正教会教皇庁が回収していたことを知った。運が良かったと言えなくもない。正教会ならば呪物を適切に管理するであろう。世界は崩壊するような厄災を生じさせることはないだろう。
彼女は用心深い性格だ。故に一族の掟を想起したのであろう。掟に従うならば、未使用な呪物を自らの手で回収するか、あるいは無力化するべきだ。しかし、正教会の大聖堂で厳重管理されている現状、正教会の関係者以外、彼女に限らず誰であろうとも手出しできない。正教会が必要と判断すれば神技を用いて無力化するだけで済む。高位の枢機卿であれば誰でも為し得ることだ。
バリクィースが深い溜息をつく。神々を嘲笑い外法を自在に操る女には似合わない。しかし、彼女の未来視は外れたことがない。つまり正教会が何らかの理由でやらかすという事を彼女は理解せざるを得なかった。
「金のある権力者というのはどうしてこうも間抜け揃いなんだ」
高貴で聖なる血筋は、自分たちだけがより多くの自由を得るために、無駄に曲がりくねった道を無理矢理にでも真っ直ぐに昇って行こうとする。巻き込まれる民人がどうなろうと気に留めないだろう。思うがままに欲望に耽溺している輩に事実は見えない。破滅の契機は何処にでも潜んでいる。
「真夜中に一人寝台の上でできることはクソッタレな神々に祈ることくらいか」
彼女は、この港町の其処彼処から幾重にも立ち上る煙や火柱を幻視すると、彼女には似合わない沈痛な面持ちとなった。閉ざされた鎧戸の内側から、押し殺した叫びが漏れてくるような錯覚に囚われそうになる。
彼女は、馬鹿げていると己を嘲ると、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「神々に祈るだって?……無駄な事だ」
朝になれば彼女は船員たちに命じて舳先を東に向けるだろう。大海の彼方、極東の島国に旅立のだ。世界が崩壊に向かうにしても、其処であれば、暫く間、己の身を守ることは叶うだろう。
■黒百合
西方城塞都市に高貴なる一団が姿を現した。その御蔭で、ウィルヘルム・グナイゼナウ伯爵——現西方城塞都市領主代行——は執務室で頭を抱える事になった。
「ペルシアハル帝国の正教会総本山にて聖女を拝命しております」
両脇を固める女性の聖騎士4名。その胸当てに描かれた紋章は黒百合。確かにペルシアハル帝国の聖女アファーリン・アダヴィーの紋章であった。わざわざ聖女のイメージからかけ離れた黒百合を選ぶあたり、個性的なことは窺い知れる。
「大聖女ヒルデガルド様に御目通りを願います。お取り継ぎ頂ければ幸いです」
目前の聖職者が本当に帝国の聖女であるならば、戦略級の敵兵力と対峙していることになる。彼の主人となった第一王女に匹敵するであろう化け物の類だ。その化け物が東西の正教会総本山と両教皇をこけ下ろし、堕落振りを指弾する。美しい見た目や清楚な雰囲気に反して豪く口が悪い。しかも深緑の大司教を大聖女と称え、大聖女を頂として纏まるべきだと捲し立てる。
グナイゼナウ伯爵は情報量が多すぎて混乱する。
確かにあの深緑の枢機卿ヒルデガルドは、当代随一の信仰者にして著名な学者であり、多くの聖女見習いを弟子に持つ。変わり者という噂は時折耳にするが、彼女が大聖女——人類の歴史上に唯一人しか存在しない——の称号を持っているとは聞いた試しがない。
どうやら厄介事というのはグナイゼナウ領主代行を放っておいてはくれないようだ。彼は、正教会の堕落ぶりと大聖女の話は聞かなかったことにして、問題を簡素化することに努める。
「ご存じとは思いますが、聖女様の帝国と弊国とは非常に険悪な状況です」
果たして帝国の至宝とまで呼ばれる存在が、身の危険を顧みず、僅かな
正教会の聖職者の行動が国境に阻まれることはないが、国家間の政治的な状況、特に戦争などに左右されないわけではない。ましてや人口百万人を超える大都市をぐるりと囲む結界を張れる戦略的に重要な人物が、この非常時に自由な行動を許されるとは思えない。死間と疑うこともできるが、戦理に照らせば釣り合いが取れないことは明白。彼が余計な事柄に考えを巡らせたところで正しい答えは得られない。
聖女アファーリン・アダヴィーがミットヘンメル中央王国を訪問するという異常事態は、ペルシアハル帝国の権謀術数に秀でるハシーム皇帝すら予想外であった。それ故に彼女は易々と帝国を抜けることが出来た。帝国が聖女の失踪に気がついたのは、既にミットヘンメルの西方城塞都市の門を潜った後のことであった。
帝国の聖女は、どうにも反応の悪いグナイゼナウ領主代行に痺れを切らしたのか、面白くも無いという表情で事情を語り始めた。
「私は止めたのです。でもハールーンのボンクラでは押しとどめることができなかったのです。彼は子供のころから押しだけは強い父親には滅法弱いのです」
彼女は、心底から諦めたような表情を浮かべる。
「貴国との関係が悪化したことは残念ですが、最早それすらも大した問題ではございません」
彼女は引き締まった表情で断言する。軍事的衝突の後に生じた両国間の緊張関係が大した事ではないとは全く独特な判断基準を持っている、とグナイゼナウ領主代行は呆れを通り越して感心した。
「事は一刻を争います。大聖女様は、既にご存知かもしれませんが、貴国の東部で魔物氾濫が発生します。人類史上最大規模の厄災。いいえ。人災です」
「そうですか……」
「そうです」
西方動乱の後は東方の大規模魔物氾濫とは泣きっ面に蜂である。グナイゼナウ領主代行は思考を放棄して、黒百合の聖女の突然の来訪についてはアビゲイル第一王女に丸投げすると心に決めた。
「黒百合の聖女様。我が主人のアビゲイル第一王女にお取次いたします。暫しの間……」
グナイゼナウ領主代行が、そう言い掛けた時、彼の背後から涼やかな声が響いた。
「横着者め」
動転して身体が固まる。無慈悲なる魔女にして深淵の娘アデレイドの声だ。聞き間違いようがない。机の上で組んでいた両手に落としていた視線だけを聖女アファーリン一行に向ければ、優美な仕草で最上位の敬意を背後の魔女に向けていた。
「アデレイド様。ここは曲がりなりにも領主の執務室です。相応の手順を踏んで頂きたいのですが」
「間怠いことを申すでない。横着者の貴様に代わって黒百合の聖女殿を
グナイゼナウ領主代行は、敵わないとばかりに
「アデレイド様にはご機嫌麗しゅうございます。ご尊顔を拝し、このアファーリンめは、恐悦至極に存じます」
「其方らも壮健であるな」
ふわりふわりと浮きながら聖女と領主代行の間に移動するとアデレイドが言った。
「妾の妹は息災か?」
「日々健やかにお過ごしです」
アデレイドは、妹の一人である希求の娘にして魔女の娘、グレイシーのことを尋ねた。西方大陸の帝国領の急峻な山地にある最果ての迷宮、その最奥に引きこもっている愛すべき妹の事は気掛かりのひとつである。
「不心得者が近づけぬように私の騎士団が迷宮を断固として守護いたしております。また白き魔女様が退屈なさらぬよう、月に一度は、私がご機嫌伺いに参っております」
「善き心がけなり」
「恐縮です」
「其方の全き配慮に謝意を示さねばなるまい。おゝ、そうじゃ、
化け物たちの会話が早く終わることを切に願いながら執務室の調度品と化していたグナイゼナウ領主代行が身震いする。ハールーン・アッシードとその直属の部隊が一夜にして石像に変えられたという噂話が本当であったこと、石化は不可逆的ではなく命を保ったままであること、そして魔女の気まぐれで解くことができることを知ってしまったからだ。
慄いているグナイゼナウ領主代行を尻目に黒百合の聖女アファーリンは淡々と応じる。
「有り難きお言葉なれど、私事優先との誹りを受けるのは避けとうございます」
「妾は魔女よ。正教会の流儀は知らぬ。辺境なれば何事にも対価が伴う。
「
「何故か」
「彼れは浮気性ゆえに油断なりません」
「然もありなん」
アデレイドが感心した様に頷けば、莞爾として笑う黒百合の聖女。黒百合の花言葉は恋から転じた呪い。石化の悪夢に囚われているハールーン・アッシードはきっと怖気を感じているに違いない。
■虚妄分別
ヒルデガルドの護衛として、彼女に同行していた
古代ミットヘンメル中央王国の旧聖堂の霊安所。その巨大な石の扉が弾け飛ぶ様に開き、重装備の聖騎士団が姿を現した。神々の加護故か、彼らの傲慢さ故か、はたまた経験と実績に裏打ちされた過剰な自信故か、何ら警戒することも無く踏み込んで来た。石扉の近くに控えていたカネヒラは、驚くこともなく、招かれざる客人たちの無作法を指摘しようと声をかける。
「ここは旧聖堂の遺体安置——って危ねえなッ」
先頭を切って突入した一人の聖騎士が、カネヒラを目掛けて大追鉾を振り下ろした。カネヒラは、大袈裟な仕草で聖騎士の重い一撃を躱す。
「問答無……」と聖騎士が言い終える前に、その聖騎士の上半身が斬り裂かれ、ずるりと石床の上に落ちた。深淵の剣の一閃。レイラの剣撃であった。
「いや。最後まで言わせてやれよ」とカネヒラは頭痛を堪えるような仕草でレイラを咎める。見当外れな言い様である。
「ザコの遠吠えとか要らない」とレイラも悪びれずに応える。
カネヒラは肩をすくめて、レイラから聖騎士団に視線を向けた。聖騎士団員たちは、暫し唖然とした後、雄叫びを上げ、
——間合
キースは一瞬で聖騎士たちの実力が取るに足りないと見抜く。彼は双剣を抜き放ち、随縁放曠と静かに宣言する。
表情が掻き消えて陶器製の美しい人形のようだ。彼が双剣左右を振り抜けば、無数の仄暗い影が聖騎士団に向かって伸び行く。影は彼らの体をすり抜ける。
剣技による遠距離攻撃手段が存在する世界ゆえに彼ら聖騎士団は一瞬怯んだ。キースから素早く伸びる影の動きに身構えるも何事も生じない。ただの幻術、虚仮威し、と聖騎士たちは鼻で笑う。だがそれは彼らの油断。
キースによって、放たれた仄暗い影により、聖騎士たちと善き神々との繋がりが断ち切られた。繊細さを備えていた数人の聖騎士は違和感に戸惑ったが、何が起こったのか理解できなかった。実際は、彼らには何も残されてはおらず、神々の恩寵も祝福も全て喪失していた。冷静に内省するならば、神々とのつながりが絶たれたことを掌握できたかも知れない。しかし、ジェフリーは、そんな暇を彼らには与えなかった。
間髪入れずに衝撃波が石床を破る。
どッ!
ジェフリーの一撃。たった一撃の余波で大半の聖騎士が、紙形のように吹き飛ぶ。聖騎士たちの魔術障壁が失われていた。
辛うじて吹き飛ばされなかった、聖騎士たちは反撃を試みようと動くが、嘗ては神力で底上げされていたが、それが失われた今、身体は鉛のように重く、彼らの動きは遅かった。
「
ジェフリーがそう呟きながら長刀を振るう。コマ落ちの映像を再生するように、聖騎士団員がバラバラと切り倒される。とゞめの瞬間だけがつなぎ合わされたかのように見える。聖騎士たちが声を上げる暇もなく斬り斃された。それは一方的な虐殺であった。
暫しの静寂。透き通るような声が静寂を破る。
「これは掃除が大変ね」とヒルデガルド。
彼女は、安置所を埋め尽くすほどの聖騎士団員たちの遺体をつまらなさげに見回していた。精神的に常人から逸脱した者の感想ではある。キースたちは大して気にもならない。冒険者も似たような感覚で生きているからだ。
「死霊となり彷徨われるのも厄介です。付き纏われる前に消してしまいましょう」
聖杖を虚空から取り出すと、彼女は浄化の祝詞を唱える。眩い光が足元から広がると、血と臓物の匂いで満ちていた不快な空間が瞬時に清められ、神界の芳しい香りで満たされた。ヒルデガルドは周囲を一通り見回して何かを確認した後にキースに向き合って、声を掛ける。
「キース。手を貸して頂戴」
そう言いながらヒルデガルドは聖杖を虚空に仕舞う。
「何なりと」
そう言いながら歩み寄って来たキースの左手を取り両手で包み込むと、彼女は祝詞とは異なる呪文を唱えた。キースは驚いて目を見開き、まじまじとヒルデガルドの顔を見つめた。
——死霊術だ。
彼女は悪戯が成功した子供の様な笑顔を浮かべた。
「灰は灰に。魔女だけが使える禁呪と言い伝えられています。ですが、実は異界渡りを経験すると只人であっても使えるようになるのです。ゲオルグ様の日記にそう書いてありました」
——其れは使うなと
「キースの力添えがあれば発動すると思い試しました」
無上の喜びで満たされた様な表情をうかべていた。
——ヒルデ様が嬉しいならそれでいいかな。それよりも……
「それは何よりです。素晴らしいことですが、先ずは御身が大切です。
どうにも気分が優れない。誰かの策謀の匂いがする。キースは言い知れぬ不快感を拭えず、ヒルデガルドに不躾な質問を投げかけてしまった。
「むぅ。キースはそんな詰まらないことを気にしては為りません」
「ですが——」
ヒルデガルドは、キースの唇に彼女の人差し指を近づけ、彼の言葉を優しく遮り、彼女が置かれている状況を語り始めた。
「公爵ヴァルモンド・オルソカール様が
ヒルデガルドは、そこで一度言葉を区切り、嫣然として笑う。
「私は死霊術も含めて外法と呼ばれる古の魔術に通じています。外法に堕して神々を裏切ったとでも言えば、聖騎士団や三十一人衆のお馬鹿どもは喜び勇んで討伐に駆けつけるでしょうね。本当に詰まらない連中です」
——ヒルデ様は有象無象の企みなど看破されていたのか。
「まあ、キース。美しい貴女にはそんな怖い顔は似合わないわ」
そう言ってヒルデガルドは身体を寄せてキースを抱きしめる。
——彼女は何と言った?
『怒りの焔で魂ごと消滅させたんだよ』
詰まりはそう言う事。ヒルデガルドが激怒している。恐らく聖ジョージ・ロングヒルに縁のある遺跡調査を邪魔された所為だ。それは理解できるが納得できない。聖騎士たちの死体を弔いもせずに魂ごと消滅させるほどの事なのだろうか。彼女は世人の俗識から掛け離れ過ぎている。魔女や魔女の眷属か、或いは外法による逸脱者と呼称される人ならざる者ではないかと疑念が湧く。暫し、ヒルデガルドに抱きしめられ愛でられている間、キースは一つの考えに至る。
——あゝ、其方か……。
キースは確信した。彼女は神域の存在。所謂、神々の愛し子であると。
キースの心中穏やかならざる様相に思い至ることも無く、カネヒラ、レイラ、そしてジェフリーの三人は、仲睦まじい様子のキースとヒルデガルドを生暖かく見守っていた。時を同じくして東方公爵領の未到の迷宮が崩落した。探索を命じられていた王都冒険者の最優と呼ばれたエミリー・ローレンの一党を巻き込みながら巨大な迷宮核が地上に顕現した。いよいよ大規模な魔物氾濫の幕が上がる。
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