第15話 心残りと枯れた迷宮(改訂版)

 ミットヘンメル中央王国の南方の辺境開拓地。湿り気を帯びた南風が魔女の森を経て緩やかに吹き込む。春の訪れと共に魔女の森から西方に広がる丘陵地の風景は煙立つ様に霞む。春到来とはいえ、陽が傾けば未だに肌寒い。


「まだ寒いね」とキースが盛台カウンター越しに厨房の料理長に話しかける。


「春先の大風が吹いたばかりだからまだまだ寒いぞ」


 料理長は、視線だけキースに向けて、手元の仕込みを止めることなく応えた。


 キースの肩越しに組合併設の酒場の窓から見える薄曇りの空は徐々に赤みを増してきた。幾本も光の筋が地上へと伸びる。夕霧が立ち込め、草木が露に濡れる。一日の仕事の終わりだ。


「王都なら若い子たちで賑わう頃合いだよね」


「本部はそんな感じだったな」


 二人は、時期は重なっていないが、王都の冒険者組合本部に所属していた。夕刻の賑わいを懐かしく思い出す。

 王都や領都であれば、冒険者組合に併設された酒場は多くの人で賑わう頃合いだが、開拓地の冒険者組合の酒場は閑散としている。ほぼ全ての冒険者たちが出払った儘だ。


「王都は冒険者の成り手が多い」と料理長は語る。


「仕事は絶えない。僕も成人前に冒険者登録できたもの」とキースは頷く。


 キースは冒険者に成り立ての頃を思い出す。この時刻の冒険者組合の酒場には、幼さが残る顔にやる気を漲らせ、一端の冒険者気取りの若者達が溢れている。半日程度で終わるような仕事の依頼も数多く、駆け出し達でもそれなりの暮らしができた。


辺境開拓地ここは違うよね」


 キースはくるりと姿勢を変えて、食台に背を向けると、窓越しの夕暮れを見つめる。


「まあ、何処も人手が足りない。冒険者よりもよっぽど稼げる」と料理長はニヤリと笑う。


 確かに辺境開拓地に若い冒険者は少ない。雑用の担い手が少ない所為もあって、半日程度で終わる仕事であれば開拓民が自力で片付ける。比較的裕福なこの地であっても自主独住の精神が根付いている。他人任せにすることはそれほど多くはない。

 そもそも依頼受領から達成までの待ち時間や冒険者組合の仲介手数料を考慮すると、冒険者任せ外注では採算が取れない。若手を直接雇った方が、仕事の質も良くなるし、雇われた方も稼ぎが良くなる。


「まあ、魔物退治は別だけどね。それでも割に合わないかも……」


 キースは思い返す。魔物や魔獣は扱いは別だ。辺境開拓地の一般人は逞しいとはいえ、魔物相手では分が悪い。冒険者の出番となる。南方の辺境地の魔物や害獣は取分け大型で凶暴、しかも数が多く、群れを成している。魔物討伐の依頼のほとんどの場合、長時間拘束されるだけでなく、命の危険が伴い、労多く、益が少ない。


「装備品の珍しい素材。高級な食材。当たれば大きいぞ」と含みのある笑顔の料理長。


 彼がこの地を気に入っている理由だ。王都ではお目にかかれない珍味を調理する機会に恵まれている。


「当たればね。大抵は、手強いだけで、素材にはならないよ」


 キースは料理長の気持ちはわかるけど、冒険者個人個人にとっては、高級食材を入手するなど珍事であり、期待が重いと感じていることを素直に伝えた。


「まあ、一攫千金を望むのは若者の特権さ」


 キースは「特権ねぇ……」と気のない返事を返す。経験不足の若い冒険者たちだけでは返り討ちにあうのが関の山だ。魔物退治については、生き延びて経験を積むために駆け出し達は古参と一緒に仕事をする。それが辺境の開拓地での慣わしだ。


「なんやかんやあるけど、冒険者として生き残る割合ならやっぱ辺境だよね……」


 そう言った訳で、夕刻の酒場に年若い冒険者たちの姿はなく、うら寂しさが漂っているが、あと一刻も過ぎれば、古参と共に元気な姿を見せるだろう。酒場も賑わい始めるに違いない。


「おっと、ジェフリーの馬車の音だな」


「そうかな……そうかも。って料理長ってやっぱ元冒険者だよね?」


「生粋の料理人だぞ」


 そんな会話を交わしていると、ギルドの重い扉を開けて、ジェフリーとカネヒラが入って来るのが目に入った。キースは、軽い足取りで二人に近づくと、清浄の護符を掲げて、彼らの汗や埃やらを取り除く。


「おかえりなさい」


「待たせたか?」とジェフリー。


「ちょうどいい感じ。料理も熱々のままだよ」


「清浄の護符は助かる。直ぐに始められるぜ」とカネヒラ。


「料理長!冷え冷えのエールをお願いッ!」とキース。


 閑散とした酒場に、迷宮遭難救助隊サルベージャーズの三人が久しぶりに揃った。キース、カネヒラ、それにジェフリー。大きめの円形の食台を囲み、沢山の大皿の料理を前にして、楽しげに酒杯を掲げた。


 キースが魔女の森の奥底から帰還した後、回収作業サルベージの現場に復帰するまで、一月半ほどを要した。冒険者組合長アデレイドがキースが現場に出ることを許さなかったからだ。キースが身体の変化に慣れるまで冒険者組合で内勤することを命じられたようで、受付嬢の制服姿のキースがちょくちょく目撃されていた。

 キース本人は、魔女の森から帰還する途中で、違和感を感じ無くなっていたので、冒険者組合長の判断には納得できなかったが、魔女の娘には何らかの不調が見えているのだろうと諦めた。先日やっと許可が下りた時には、余程嬉しかったのか小躍りした。その様子は、誰が見ても年頃の少女そのものであった。


 キースは手始めにジェフリーの個人的な依頼を受けることを決めた。冒険者組合には、二〇日ほどの行動計画書と依頼受領書を提出済み。明日は出発。キース、カネヒラ、そしてジェフリーの三人揃っての仕事を再開するのだ。前祝いとばかりに飲み会が始まったのだが、そこに冒険者組合長アデレイド。毎度のことながら踵の音を響かせながら彼ら三人が談笑する食台に近づいて来た。飲み始めてから未だ四半刻も経っていない。全く以て迷惑な話だ。


「三人揃ってお楽しみのところ悪いな。指名依頼が入った」


 冷めた表情の冒険者組合長アデレイドがカネヒラの左肩に自身の右手を置いた。


「ちょっと待ってくれ。ジェフリーさんの頼みごとなんだ。そこらの貴族や豪商の依頼より最優先さ」


 カネヒラは振り返りつつ抗議の声をあげる。酒場に居合わせた数人の職人たちが皆一斉に振り返るほどの大きな声であった。


「ジェフリー。此奴を借りるぞ?」


「否やは無しだ。好きにしてくれ」


ジェフリーは軽く頭をふりながらそう答えた。


「え?」


 キースが驚いて、ジェフリーの顔を覗き込む。今回、ジェフリーの個人的な依頼は、難易度が高い。勿論、キース一人でもやれなくはないが、気心の知れたカネヒラのきめ細かな支援があれば心強く、どんな困難な状況に陥っても、冷静に対処できる筈という安心感が得られる。回収作業も断然やり易くなる。

 カネヒラ不在となれは、回収目標に至るまでの潜行降下ダイブを単独で行なうことになる。現場の状況によっては、回収作業の難易度が跳ね上がる可能性がある。目標が未踏領域に存在するからだ。尤もカネヒラがその場に居合わせたとしても未踏領域に変わりなく、一旦降下が始まれば、キースは目標に辿り着くまで単独で作業を続けるしかない。策綱や懸垂機の状態などの監視は必要ではあるが、どちらかといえばカネヒラは賑やかしや験担ぎのようなものだ。

 万が一の事態でも、ジェフリーがいれば何とかなるかもしれない。だが冒険者の端くれとしては験を担ぎたい。復帰後の初仕事は、いつもの3人で当たりたかった。依頼人のジェフリーがカネヒラの参加を諦めると言うのであれば致し方ないが、冒険者組合長アデレイドのやり方には納得できなかった。


「なんてこったい」


 カネヒラが無念さを滲ませる。不意に酒場に現れた冒険者組合長アデレイドが言い渡す用件など碌でも無い事に決まっている。キースは、カネヒラに割り切れないという表情を向けるが、互いにかわす視線は既に諦めがこもっていた。


「諦観とは良い言葉だな」と冒険者組合長アデレイドが満面の笑みを浮かべる。


 冒険者組合長アデレイドに捕捉されたカネヒラが集会室へと連行される。カネヒラの諦め顔を見送りながらジェフリーは渋面でつぶやいた。


「人はなすべきことがある」


 カネヒラの不参加は仕方ないとジェフリーは気持ちを切り替えた。彼は、冒険者組合長ギルマスがドナルドやマーカスなどの辺境開拓地の古参を呼びつけていることを既に知っていた。従軍経験のある古参に招集がかかったということは、大方、辺境伯領全体に関わるような大事——戦支度であろうことは予想が付いた。

 ここで詳しい説明を求めることは藪蛇だ。幸いにして徴用されたのはカネヒラだけ。ジェフリーは、カネヒラに悪いと思いながらも、私事を優先させる。三〇年間決めかねていたことだ。それは、普通の冒険者には技術的に困難であり遂行不可能であった。キースという特異な技能を持った冒険者と出会ってから六年。漸く決心がついた。取り返すことの出来ない過去と決別するため、気心の知れた仕事仲間キースたちに仕事を依頼した。

 下手にカネヒラの指名依頼に関わっては、自分の回収依頼を先延ばしにすることになりかねない。運び屋の生業も暇ではない。今回を逃せば、次は何時になることやら予測が立たない。


「二人だけで大丈夫かな……」


 キースはジェフリーに視線を合わせて、じっと返答を待つ。数拍の後、ジェフリーが答える。


「問題ない」


 目的地に至る道中、魔物や野盗の類はそれほど多くない。王都や領都に向かうことに比べれば容易だろう。


「あの迷宮は二〇年以上前に枯れた。復活の兆しはない。先月、ジェームスに事前調査を依頼したが、迷宮核も魔物も存在していなかったそうだ」


「ああ、ジェームスなら間違い無いか……」


 ジェームスは、キースが模範としている古参の冒険者の一人。斥候スカウトの技量は、中央王国でも随一と目されている。過去に侯爵婦人だか伯爵婦人だかに手を出して、辺境に追いやられたという噂がある。凄腕なれど女癖が悪く、王都の冒険者組合での評判は芳しく無い。

 実際は、ジェームスに非があるというより、ご婦人の方が彼のことを放っておけなくなるというのが真相だ。魅了の祝福を授かった者の定めなのかもしれない。王都のご婦人方にあと少しの貞淑さがあればなどと嘯くつもりはないが、王宮では不倫こそが貴族の嗜みと言わんばかりにロマンスに溢れている中でさえ、世人が些か眉を潜めざるを得ない程度に彼が浮名を流し過ぎたのも事実である。そうして王都から追われるように辺境の開拓地に流れ着いた。都落ちとは言え、冒険者としての技量は依然として超一流。ジェームスの事前調査結果であれば、辺境の冒険者組合の誰もが間違い無いと判断するだろう。


 ジェフリーはキースの返しに頷く。そして「さあ、冷めてしまう前に片付けよう」と料理を食べるように促す。


「カネヒラには悪いけどね」


「会合の後、冒険者組合長ギルマスが手料理を振る舞うだろう」


「元祖神代料理……」


 ——松子仁松の実扁豆レンズ豆の粥は割と嫌かな。


「ここに揃っている料理の大半が神代料理だ。料理長が改良して、見栄えが良くなっているが、味はそう変わらん」


 ——そうだけどね。


 大皿に鎮座する艶やかな焼き上がりの窯焼き料理に目が惹かれる。


「んー。見た目は重要!」


 キースは天牛焼シュイールムに似た料理、牛の腿肉の石窯焼きを切り分け始めた。肉汁が溢れ、焼き目の香ばしいさと共に仄かに香辛料が立ち上り、食欲を唆る。


 ——料理長は世界の理を書き換える固有技能チート持ちだよ。


 キースは手慣れた手つきで、ジェフリーと自分の皿に厚切りした肉を取り分ける。別の大皿に盛られた付け合わせの彩り豊かな野菜、塩茹でされているが、色褪せることもなく、芯が残っておらず、絶妙な歯応えの五種五色の根菜を乗せた。


 ——掛け汁ソースは組合長のレシピ通り。


 先ずは一口。キースは心中たわいの無い感想を思い浮かべる。


 冒険者組合長アデレイドは錬金術師として、至高の存在と謳われるだけはあり、料理長の固有技能でも敵わない。キースも掛け汁ソース作りと錬金調合を一緒くたんにするのもどうかと思いながら、美味い掛け汁ソースをたっぷりと掛けて、石窯焼きを食べ始めた。

 暫し無言。香りと味わいが、時間経過で変遷し、食べ飽きないような工夫が施されていた。飽きる事なく食が進む。冒険者組合長アデレイドの高度な錬金術によって生み出された調味料を基に世界の理を書き換える固有技能チート持ちの料理長が極めた掛け汁ソース。これにより牛の腿肉の石窯焼きは、冒険者組合併設の酒場でしか味わえない逸品。まさに天牛焼シュイールムとして完成していた。

 半分ほど食べたところで、口元を食事用の小さな亜麻布ナフキンで軽く拭ってからキースが尋ねた。


「装備品と食糧品は、昨日までに全て検めて積み込み終わってるけど、どうするの?」


「今更、一人分を取り分けて、下ろすのは手間だ。そのまま出るぞ」とジェフリーが返す。


 ——まあ、何かしら役に立つかも知れないからね。

 

 キースは、其れもそうだと納得した様子で、大皿に半分残っていた牛肉の石窯焼きシュイールムを全て切り分け、ジェフリーと自分の皿にそれぞれ乗せた。


 二人だけの楽しい食事は続く。傍らから見れば、仲の良い娘と父親が一緒に食事をしている情景シーンだ。奇妙さは以前よりも数段増していた。魔女の森の底から帰還後のキースは、見た目が完璧な女性であり、しかも扇状的な装備を身につけている。身にまとう雰囲気はジェフリーに似ていて、古参の風格が其れなりに漂っている。


麦酒味の麺麭アカルを取ってくれ」


 麺麭籠に山積みになった麦酒味の麺麭アカルを小皿に乗せてジェフリーに手渡す。何とも言えない愛らしい動作であった。


 ——これも組合長アデレイドが作る方が美味しいかな。軽さと粘り気の均整がとれている。料理長のは一寸だけ重たい。


「甘味と苦味がなんともいい感じ。ジェフリーさん好きだよね」


 キースは嬉しそうに笑う。


「ああ、冒険者組合長ギルマスのこれに釣られたようなものだ」


 キースの笑顔に当てられたのか、ジェフリーは困惑した表情を隠すように麦酒の麺麭アカルをちぎり、口に放り込む。二人だけの食事の時間はゆっくりと流れていった。



 翌日早朝。ジェフリーの幌馬車は冒険者組合を出発した。



 春風の中を幌馬車が進む。ジェフリーの隣り、キースも御者台に座っている。灰色翼竜の頭巾付き外套ローブが柔らかに吹き抜ける風にそよぐ。頭巾フードが外れると、ブルネットの長く煌めく髪毛が棚引く。

 街道では馬車の往来で土埃が舞い上がる事も多い。まだ伊達男風味が抜けきらないのか、髪の毛が埃に塗れることを厭う様子はない。ジェフリーは、ため息混じりに、汚れるから中に入っているように言い聞かせるが、キースは一緒に座って居たいと言い張り、幌馬車の御者台に陣取り、魔物や野盗を警戒し続けた。


 ——久しぶり過ぎて警戒範囲の加減が判らない。


 キースは心中で謐く。気を緩めると、馬車を中心に三〇〇〇歩調アラク(四八〇〇メートル)を超える範囲のあらゆる生命体の情報が押し寄せてくるような感覚に眩暈を覚えた。感知範囲の拡大は始原の魔女の庇護下にあることの証だが、広範囲にわたり鮮明な情報が大量に溢れているため、彼は情報の取捨選択に難儀している。

 探索の技能の保有者や術者による探索魔法では、高位者であっても精々二百尋スティディム(四〇〇メートル)が限界と言われている。キースの探索距離は、常識の埒外である。しかも敵意のある人型や魔物などを分別察知することが出来る。とは言え、長時間継続的に探知し続けることは難しく、精神的にも肉体的にもかなり消耗を強いられる技能である。

 始原の魔女が与えた恩恵によって、キースの全身全能力が底上げされた訳ではない。残念なことに感覚だけが鋭敏となった。探索がより広く且つ鮮やかになれば、彼の脳髄にかかる負担は計り知れないだろう。

 しかし、移動初日の終わり、野営地に到着する頃には、情報の取捨選択に慣れてきたのか、キースは眩暈に襲われることも無く、自在に索敵ができるようになっていた。適応能力が高いと言うべきか、人の世の理を外れたというべきか、当の本人も困惑していた。


 目的地までは、ジェフリーの幌馬車で四日の旅程。途中に宿場町などは無く、幾つもの廃村や砦跡を経由しつつ、魔物が多く徘徊する地域を通過せねばならず、彼らは荷物を減らし、荷箱を牽引せず、移動速度と距離を稼ぐことに徹していた。

 初日は、西方の丘陵地を目指して、長時間の移動となった。西に移動するほど、魔女の森から離れるほど、魔物の数は減ってゆく。面倒事を避けるべく、距離を稼いだ。其の所為で、野営や食事の準備に取り掛かる時刻が随分と遅くなってしまった。


 日が暮れる頃、幌馬車の近くに焚き火を用意し、タープなどで風避けを作った。焚き火の近くに食台と椅子を設置して、料理に取り掛かる。いつもの通り、主にジェフリーが腕を振うのだが、今回は簡単な煮込み料理を選択した。

 

扁豆レンズ豆は嫌いだったか?」


 彼は、豆が入った布袋を右手に持ち、一瞬バツの悪そうな表情を浮かべながらキースに尋ねた。


「ん?大丈夫だけど……」


 出発前にミントと塩を擦り込んで寝かせていた山鶉の肉を保冷箱から取り出しながら、気のない返事を返す。この肉は、出発前日、キースが冒険者組合の近くの山林に分け入って、弩の練習ついでに仕留めたものだ。


 ——松の実粥のことで文句言っていたの思い出したのかな。


 ちょっとした気遣いにキースは嬉しさが込み上げてくるのを感じた。


「歯触りに統一感が無いのは苦手かな。扁豆と大麦の組合せなら大丈夫」


キースはにっこりと笑う。


「そうか……」とジェフリー。


 浅い鍋に豆と大麦を放り込んで水に浸す。それとは別に深鍋に半分程の水を満たして、火にかけると、食台に向かい合わせに座って、煮込む材料の準備に掛る。お湯が沸き立つまでの時間で、大蒜、長葱、玉葱、人参を微塵切り、山鶉をぶつ切りにする。

 キースは、数種類の乾燥した香草の葉や実を袋から取り出して、細かく砕く。暫し無言。焚き火の音に湯の沸き立つ音が重なる。

 ジェフリーは、沸騰したお湯の中に山鶉を入れると、吊るしていた鍋を鉤爪からはずし、熾火の上の五徳に乗せて、四半刻程度煮込む。

 
赤葡萄酢で軽く酸味付けし、粉末にした香草を入れる。
続けて、大蒜、玉葱、長葱のみじん切りを加え、大匙でゆっくりとかき回しながら、水切りを済ました扁豆と大麦、其れに適量の塩、さらに甘味のある麦酒を加えて煮込む。


 コトコトと煮込まれる様を眺めながらキースが呟く。


「彩が欲しい……かな」


 ジェフリーが穏やかな笑みを浮かべる。確かに色合いが単調だと味がよくても飽きが来るのが早い。


 「そうだな」と応えて保存箱から綺麗に水洗いされた野菜を取り出す。分葱エシャロット黄花蘿蔔ルッコラ胡荽コエンドロ赤蕪ラディシュを柵切りにして、大きめの木の器に盛り付けてから橄欖油に塩と胡椒、それに黍砂糖の粉末を少々、壺酢を加えて和える。


野菜の添え物ワルク?」


「至って普通の生野菜の和物だ」


 ジェフリーはキースの問い掛けに苦笑する。冒険者組合長ギルマスは隙あらば冒険者たちに神代料理を食べさせようとする。ここ最近の被害者はキースであった。


「ワルクっぽい」


「赤葡萄酢かけるか?」


「あー。そういうことね」


 キースは其れは屁理屈だろうと言いたげな表情を浮かべる。


 手順や分量それらに加えて食材や調味料に厳格にこだわる冒険者組合長ギルマスの冷たい美貌を思い浮かべながら、ジェフリーは「糖蜜も使わないだろ?」と付け加えた。冒険者組合長ギルマスは、レシピから外れたら別物だ、と言うことが屡々ある。今回の添え物は酸味控えめ、甘口好みなキースの為に糖蜜の粉末も使った。


「むー。そうだけどね……」


 ——確かに冒険者組合長アデレイドなら違うと言い張るだろうね。


 キースは、一瞬のうちに不機嫌さを消して、ジェフリーの気遣いに感謝した。


 二人は向かい合わせで山鶉の扁豆粥ターバートゥ キシャーヌと至って普通の和物を食べる。毎回の事ながら、仲の良い娘と父親が旅の途中に野営をしている、そんな雰囲気。焚き火をながめながら食後にお茶を味わえば、体が温まり、強張りも解れて眠気を誘う。


冒険者組合長アデレイドの特別配合の薬草茶は癖になるね」


「ああ……」


 一つ一つの材料を挙げれば、毒草の名も多く含み、二十種類も合わされば、名状し難い風味になりそうなものだが、それが絶妙な割合で混ぜ合わせ甘く芳醇な果物の香りすら漂わせる。僅かな酸味を残し、華尼拉の香りが鼻腔を抜ける。


 焚き火が小さく爆ぜる。炎の揺らぎに合わせて影が揺らぐ。仄暗い中、浮かび上がる美貌の持ち主。嫋やかで優しげな雰囲気。長距離移動の所為か、あるいは長時間索敵の所為なのか、疲れているのか、物憂げな表情になっている。

 魔女の森の最奥から生還したキースは女性化していた。加えて少し幼さが増したように見える。中央王国の平均的な女性像と見た目を比較するなら、年の頃なら十七、八歳といったところ。

 

「ジェフリーさん、悪いけど先に休むね……」


 初日を終えてキースは先に寝床に入った。一人残されたジェフリーが焚き火を見つめる。


『ジェフ、悪いけど先に休むね……』


 キースよりも僅かに低い声が重なって聞こえた。それは過去の記憶。


「ああ、月が真上に来る頃には交代だぞ」


 幌馬車に乗り込み、直ぐに寝袋に包まったであろうキースに小さく声をかけた。


 過去に同じ様な状況で、全く同じセリフを口にしていた。今よりもずっと若かった頃、駆け出しから一端の冒険者に成らんとしていた頃の苦い記憶が呼び覚まされる。


 今回の目的地である枯れた迷宮は、嘗て煉獄の門と仰々しい名前が付けられていたが、中堅の冒険者御用達の割の良い狩場であった。ジェフリーも仲間と共に狩に向かい、いつもの通り、儲けて帰る筈だった。それが一党最後の冒険になるとは思いもよらなかった。

 大抵の冒険者がそうであるのだが、善き神々の加護により、最悪でも数時間前には、違和感を感じるものだ。だが全く何の前兆も無く、煉獄の門の魔物の氾濫が迷宮中層から発生した。中央大陸にあって、正教会が予期出来なかった魔物の氾濫は、正教会の歴史上、後にも先にも煉獄の門で発生した最後の魔物氾濫スタンピードだけであった。

 

 今となっては、最後の魔物氾濫スタンピードが殊更異常であろうと無かろうと、空前絶後の規模だろうと、その後に迷宮が力を失おうと、知ったことではなかった。枯れた迷宮が彼の一党の墓標になっている。そのことが忌々しい。


 最高の相棒——尊敬と恋慕の混ざり合ったような年上の女性——と冒険者仲間たちを失って以来、ジェフリーの時間は止まったままだ。

 彼の昔の相棒は、異国出身の自分を人として対等な存在と認め、生きる道を示してくれた。言ってみれば、大恩人。偶々発生した魔物の氾濫に巻き込まれた所為で、その大恩人を迷宮に置き去りにしなければならなかった。

 

 キースはそのに酷似している。恩人の娘といってもいい程に。因縁めいたものを感じないわけにはいかない。今回、彼の助力によって、恩人の遺骸を持ち帰ることが漸く叶うのだ。故郷の地に弔ったとして、忸怩たる思いを振り払うことができるのか、それは分からないが、区切りをつけることにはなるだろう。

 鬱々とした感情が長年心に伸し掛かっていたためか、その感情を手放すことに恐れのような思いが込み上げる。ジェフリーは奥歯を噛み締めた。


 地平線に大きな月が昇る。


 天中を通過する頃にはキースが起きてくる。火の番を交代しても恐らくジェフリーが眠りに落ちることはないだろう。

 炎が大きく揺らぎ、焚き火が小さな音を立てて崩れた。冷え込む前に白樺の薪を焼べ、さらにクヌギの太い薪を焚べる。一段と大きな炎が立ち上がれば、火の粉も空に舞い上がる。その先を見遣れば、天空の星々に目を奪われる。


 不意に彼の脳裏に冴えない男の顔が浮かぶ。すると、「自分もいい歳だ」などと多分に投げやりで陳腐な呟きが口から溢れた。


 最近は、昔のようには戦えていない。力の衰えを感じることも少なくない。ふとした時に終着が見えて来たと感じる。第三者的な視点から評価するなら、超一流の冒険者たちにも負けない強さを発揮しているのだが、彼自身は一線から身を引いて、静かに余生を過ごすべき、と強く感じていた。


「老醜は晒すのは拙いな……」とジェフリーは独言する。


 冒険者としての最後に、自分の身体が闘いに耐え得るうちに、心残りは解消すべきだろうと。朽ちて思いを残すというのは、彼の冒険者の矜持がゆるさない。昔に捨てた名誉や地位に未練があるわけではないが、全てを捨て去ったとは言えず、まだ燻っている想いが枯れた迷宮に眠っている。


 夜風がざわざわと木々の枝葉を揺らす。小木菟の啼く声が聞こえる。渡りには未だ早い。

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