第16話 虚ろ或は這入口
冒険者組合を出発してから四日目。太陽が南中を通過する頃、キースとジェフリーは目的地に到着した。
二人が乗った幌馬車は、到着するまでに面倒な魔物の群れを三度振り切った。魔物との戦闘を避けながら移動し、安全な野営地で食事をとり夜を過ごし、翌日の夜明け前にまた移動する、これを予定通り繰り返し、対魔物用の備えを使うことも無く、往路を終えた。
目的地の枯れた迷宮、その入口前、キースとジェフリーが佇む。ほぼ万全の状態ではあるが、二人の面差しはどうにも冴えない。普段であれば余裕のある表情を携えているが、何とも言い難い重苦しさ、其れと焦燥感に囚われ、深刻さが滲み出している。キースはその探索能力ゆえか、ジェフリーは過去の苦い記憶か、二人に陰鬱さが粘り付いていた。
二人の前には、複雑な形状の文字が刻まれた巨石が折り重なっている。入口であった場所は、蔦性の植物に覆われ、低木の雑木が道を塞ぐように繁茂し、石畳の道は背の高い一年草に覆われている。一目瞭然、古参の冒険者なら誰であれ、この迷宮が枯れているのが判るだろう。魔物を生み出すことも宝を生み出すことも冒険者達を食い殺すこともない。
実際、下草の様子に不自然さは無く、蔓性の植物や雑木の枝などにも侵入の痕跡は見当たらない。不自然さは無い。ジェームスに並ぶ程の手練れや影に潜むような魔物が、今この時この二人を狙って潜んでいると想定することなど馬鹿げたことだ。只の洞窟程度であれば、この先精々毒溜まりに注意する程度だ。駆け出しの冒険者であれば、何も恐れずに、これ幸いにズカズカと迷宮へと踏み込んで行くだろう。
しかしキースは違う。ここが厄介な迷宮だと直観した。魔物も害獣も出現しない枯れた迷宮。鯔のつまり只の洞窟。だが強烈な違和感を拭い去ることができない。彼は秀麗な眉目に険しさを顰めて呟く。
「虚ろ……」
キースは、その無駄に精細で広範囲な探索能力によって、只の洞窟に成り果てた迷宮の様態を瞬時に掌握した。迷宮の全体が脳裏に浮かんでいる。迷宮内部には、魔物や害獣の唯の一体も存在しない。
——空っぽで何も無い。
常人には理解し難く、そして実に馬鹿げている事ではあるが、この効験もまた大魔女の加護に因り引き出された。キース自身、過ぎたる力に苛立つ。
——鼠も蝙蝠も見当たらない。
理由は不明。野盗が根城にすることもなく、また小型の野生動物が営巣することもなく、ただ虚ろが口を開けている。
——有り得ない。
湿った暗所を好む小動物さえ存在しない様な洞窟など、今までに見たことも聞いた事もなかった。故に心の中で警鐘が響く。
迷宮とは、現実世界と隔絶している様に思われがちだが、現実世界の写鏡のような物象であって、決して虚ろなどではない。
キースが這入口から背後に油断な無く視線を移せば、朽ちかけた監視塔、それに崩れ落ちた石の防塁が雑木の間から見える。嘗て、この迷宮を監視する為、西方城塞都市領主が軍勢を駐屯させていた頃の名残。駐屯地跡には数多くの小動物の気配がする。風の音、草木の騒めき、虫の声、鳥の羽ばたき。晩春の温かな日差し、朧雲が遮ることなく、少しだけ長めの影を象る。
陽光の中、自他の境界に曖昧さを増し、自我を空気に溶け込ませ拡散するような心象と共に、命の芽吹きたる万象の鼓動に触れる。その刹那、周囲に衆生の色が溢れ出すも、迷宮の入口だけが虚空と為り、眞闇が浮かぶ。
——
キースは、
——まあ迷宮だからね。枯れていると言っても人の身で推し量れるようなモノじゃない。
迷宮に踏み込む直前、キースは傍らにいたジェフリーに視線を向ける。ジェフリーの表情は冴えない。痛みに耐えかねた様な表情を浮べている。普段ならばこの様なことは無い。キースは英雄が悲嘆に昏れる姿など見たくなかった。
それはジェフリーが勇者になる以前のことだった。冒険者になって2年ほど経った頃、この迷宮で、彼は大切な仲間たちを失った。
それ以来止めどなく湧き上がる後悔の念に苛まれている。繰り返し見続ける悪夢。彼が所属していた一党が壊滅する瞬間の記憶。時が経つことで、徐々に霞み、茫としたものに変容して行ったが、忸怩たる思いは積み重なり、心を押しつぶしていた。
当時の状況——対象者が遭難に至る前後の経緯——については、回収作業を滞りなく進めるために必要最小限の情報だけをジェフリーの記憶から慎重に引き出したのだが、結局のところ、古傷に触らざるを得ず、最後の瞬間を酷く鮮明な記憶として修復させてしまった。
——人の心は脆い。勇者とて同じ。
キースはそう感じた。他人が過去の古傷を安易に抉り出してはいけない。本人が然るべき時に向き合う迄、他人が触れるべきではない。その刻は、ジェフリーの恩人の遺体なり遺髪なり遺品なりを弔った後であろう。
今回の
未知の罠——あくまでも冒険者の視点であって本来は別な用途であったかもしれない——であれば、一体誰がその罠から逃れることができるというのか。当事者の中で生き残った者が慚愧に堪えない、というのも理解はできるが、未知の罠が起動した刹那に何か為し得たと想うことは傲慢ではないだろうか。
生き残った者が己を責めるなど心得違い。冒険者にあるまじき行為と言える。冒険者は自己責任。冒険者業など無名の者たちの無数の屍の上に成り立っているのだ。
——後悔は何の役にも立たないどころか体に悪い。
「ジェフリーさん、大丈夫?」
キースはジェフリーの顔色が悪く辛そうなことを気に掛ける。
「ああ。大丈夫だ」とジェフリー。そして「自分のコトだからな」と自らに言い聞かせるように呟く。
——心の古傷はこの上無く厄介。
元勇者のジェフリーであっても同じなのだろう。否、元勇者だからこそ心が焼け付くように苦しいのかも知れない。キースはそう思った。
「本当に?」
「ああ、始めよう」
二人は漸く歩み始める。しかし足取りは重かった。引き上げ作業の機材を枯れた迷宮の所定の場所に持ち込むために、幌馬車と迷宮の入り口を装備を担ぎ無言で往復する。
枯れた迷宮の這入口を抜けると、天井が抜けたように視界が広がる。しかし上方は暗く、見通す事はできない。腰にぶら下げていた灯籠を頭上に掲げても変わらない。
通路の幅は二〇
——出口まで僅かだ。これは悔しいね。
ジェフリーたちの一党が、魔物の氾濫に巻き込まれて、この迷宮から脱出を余儀なくされた時、あと一歩というところで、奔流に飲み込まれ、岩棚に回避した。回避したからと言っても逃げ場は無く、丸一日、奔流から逸れて、岩棚に迫り上がる魔物の群れと死闘を続ける篏めになった。生き残ったのは一人。一党終焉の場所。目前の岩棚は喪失の印に他ならない。墓碑を前に弔う気持ちよりも逃げ出したい気持ちが込み上げるのだろうか、一回り小さく見えるジェフリーに対して、キースは憐れみの情を禁じ得ない。
——急いだ方がいいかな。
機材搬入の障害になりそうな入口内側の瓦礫を取り除くことも含め、一刻ほどでキースとジェフリーは機材を全て運び終えた。
「岩壁登りの経験者がいたの?」とキースは岩棚を見上げる。
「あのときは、術者が2人いた。浮遊魔法も使える奴らだった」
——浮遊魔法とか相当な手練れだね。大地の力を遮断できる術者は滅諦にいない。
「それじゃ、岩棚まで登るね」と一言。
キースは、石壁に手を触れて、表面の状態を確認した後、登坂経路を定めるために、近づいたり離れたりしながら、検分を続けた。暫くの後、滑り止めを左右の5指につけて、ひょいひょいと、ほぼ垂直の壁を身体の重さを感じさせることもなく登り始めた。
二丈ほど登ると水平に移動し、岩棚の端の直下に位置取ると、落下防止の安全策を設置する為、魔道具を使って
更に同じ高さだけ登ると固定金具付きの杭を打ち込む。繰り返しつつ、四半刻もかからずに手がかりと足がかりを敷設し終える。岩棚の上に固定具を設置して、懸垂機を固定すると、次々と機材を引き上げる。途中、巻梯子を展開・敷設して、一気に作業を進めた。
岩棚はかなり広く、岩壁から三間半程突き出し、壁に沿って二〇間は横幅があり、比較的広い。キースは壁を右手にして、ゆっくりと歩みを進める。岩棚の半分を過ぎた頃、手触りがかわった。
「ここの岩質が違う。何か変だ……」
——魔道具の探針が動かない。魔素も通さない。
「ここ?あってる?」と壁から視線を外すことなく、背中を向けたまま、声だけでジェフリーにたずねる。
「ああ。その辺りで飲み込まれた……」
ジェフリーは、想起される記憶が鮮烈なのか、声に悲しみが混じる。
——早く片付けないとジェフリーさんには厳しいね。
キースは自身の感知に納得した様に無言で頷くと、腕を伸ばして、岩壁から距離をとる。上方の様子を窺い、足場を確かめる。
キースはジェフリーに視線を向ける。少し間合いを取るようにと
刹那。岩壁が崩れ、大量の砂が流れ出す。キースは砂の波に飲まれ、揉まれ、流砂と一緒に岩棚からこぼれ落ちそうになるが、安全綱によって、何とか落ちることなく留まった。
キースもジェフリーも驚いたように互いの顔を見合う。幸いにして、岩棚に引き上げていた装備一式は砂流に飲まれることなく無事であった。
「びっくりした!」とキース。
ジェフリーも、驚いて気が紛れたのか、普段の表情に戻った。それでも異様な光景を目の当たりにして、苦笑いを浮かべていた。
砂まみれでかなり冴えないが、
「それは?」
「解呪符。正教会の神域に侵入するための符牒。昔、カネヒラが闇市で手に入れたものらしい……」
「分けて貰ったのか?」
「念の為とか言ってたよ」
「そうか……」
二人は互いに合点がいったことを認めると、崩れた岩壁の方に視線を移した。
——魔素溜り。迷宮の外からは解らなかった。
覗き込むと中央が盛り上がった半球状の石像を取り囲むように青白い光線が明滅していた。外円から中心に向かって迷路状の紋様が浮び、半球の頂点に向かって収束する魔素の流れ、黒い靄が螺旋状に漂っている。目視できるほどの濃度は珍しい。生きている迷宮核の周囲でも滅多に見られない様子だ。
——祭壇?
「これって
妖しく漂う魔素の流れを睨みつけながらキースは訊ねた。
「間違いない。青白い光の紋様。幾度も出くわした」とジェフリー。
しかしジェフリーの目には魔素の流れは映らない。彼の目前では青白い光の明滅が忌々しさを躍らせている。
落扉の罠などいう生易しいものでは無かった。キースは皮膚の下に疼きを覚える。不意に呆れたような溜息が漏れた。いつものことだ。面倒ごとはキースたちを見逃してはくれない。ならば止む無し。世の理が綻ぶならば、こちらも無手勝流。
キースは腰に付けた雑嚢から手に収まる程の真珠色の
一弾指の間に半球を取り巻く光線が消える。迷路状の模様が細かく震えると、半球がじわりと虚空に失せ、漏斗状の窪みが現れた。中心には縦穴。その直径は一間程であろう。
「気に入らない」
キースは、探索の能力を最大限発動するが、何も感知できなかった。目前の縦穴は何処まで降下しているのか、判然とせずに曖昧い。ここが虚ろなのだろうと腑に落ちる。
——目標はこの縦穴の底。
「ジェフリーさん。今日のところは、降下機材の設置、それと穴の深さの確認まで。引き上げ作業は明日。それでいいよね?」
「ああ……」
——この神代の遺物が安定しているのかわからないけど……
「それじゃ
キースとジェフリーは、梯子と策綱を使って、岩棚の下から大ぶりの三脚を引き上げる。各々脚は接合式で五
一切の淀みなく寸刻で降下の段取りを終えると深度を測る魔道具——測珠——を投げ入れる。この小さな硝子玉は、使用者に穴の深さを知らせてくる。何かに当たる迄は、一定間隔で拍子を刻むが、割れて砕けると悲鳴の様な音を響かせる。悪趣味な魔道具にして消耗品。砕けた場所に光の粒子を撒き散らす。
「1、2、3……」
キースは目を閉じて数える。やがてガラスが砕けるような音が耳を覆うような感覚に眉を顰めた。
「一六丈半。浅い」とキースが言葉を漏らす。
「勘定が合わないか?」とジェフリーが直ぐに応じる。
キースの疑いの念が伝わり、ジェフリーの眼差しも険しくなるが、軽く頷きと一言返す。
「ここは
——そうなんだけどね。なんか腹が立つ。
思考停止でダンジョンダンジョン嘯くカネヒラのしたり顔が脳裏に浮かぶ。キースは、疲れているのかもしれない、そう思うことにした。
「幌馬車に戻ろうか……」とジェフリー。
その後、枯れた迷宮から出ると、いつもの通り、二人は幌馬車の周囲に手早く根拠地を設営し、食事の準備に取り掛かる。当初の予定は、岩棚の上での野営であったが、先ほどの流砂の件もあり、万が一に備えて迷宮の外に拠点を設営することになった。
「夜の食事は僕が作るね」
キースは、食事の準備に取り掛かったジェフリーから俎板を取り上げる。目を細め、優しい笑顔を浮かべた。
「いや……」と戸惑うジェフリー。目前のキースに忘れ難い人の面差しが重なる。
「ジェフリーさんはいろいろ疲れているの。だからね。そこに座る」
右手の人差し指を立てながら腰に手をあて、キースが少し前屈みになると、彼の艶やかで豊かな髪の毛がゆれる。いつのまにかたわわな実りとなった双丘もついでに揺れる。
「……」
その様子にジェフリーは唖然とした。言葉が出てこない。幻覚を見ているのか、キースの仕草は彼の恩人にそっくりであった。
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